6 アポロミッションのトピック
<主要なアポロ計画と、任務、トピック>
アポロ1号>1967年1月 ガス・グリソム船長、エドワード・ホワイト飛行士、ロジャー・チャフィー飛行士。 発射台で、打ち上げ本番さながらの訓練中にアポロ宇宙船内で火事が発生して(火花の原因は、宇宙船内の尿収集システムに使用されていた電線と推定されている)、グリソム、ホワイト、チャフィー飛行士が脱出出来ずに死亡(事故発生から30秒後には意識を失って4分後には窒息死したと考えられている。)。当時は宇宙船内が100%酸素で加圧されていて、可燃性のマジックテープが大量に使用されていたので、発火から15秒程度で加速度的に炎上&爆発した。
また、初期の宇宙船の内部ハッチはジェミニ計画の反省から内開きになっており、船内の加圧によって、人力では開けないようになっていた。この反省から宇宙船内部から 迅速に脱出出来るように簡単にハッチが3秒で外側に開くように改造された。しかし、真空の宇宙空間において加圧された宇宙船のハッチが外側に開くのは困ると考えていた宇宙飛行士もいた。(注>初期はアポロ1号という名称ではなかったが、事故後、正式にアポロ1号と命名された。)ちなみにエド・ホワイトは米国人として初めて宇宙遊泳した人物である。事故後、NASA内、宇宙船製造企業間で意思の疎通がうまく行っていないことが判明し、NASAはボーイング社の提案を受け入れて、アポロ技術統合評価プログラム(アポロTIE)を立ち上げて、宇宙船の改良に役立てた。
月司令船&機械船、月着陸船、サターンロケットでは、部品総数が600万個以上になり、基本的にどの部品に欠陥、不具合があると困るので、NASA及び企業は、有人飛行啓蒙プログラム(MFA, Manned Flight Awareness)を立ち上げて、宇宙飛行士の顔が入ったポスターを企業に配り、工場の作業者、技術者達に「手抜きすると宇宙飛行士の命が危ない」との緊張感を持たせた。
アポロ2号、3号>アポロ1号の事故を受けて事故対策のためにキャンセル
アポロ4号>1967年11月 無人のアポロ宇宙船と実物大月着陸船を載せてサターンV(サターン5、サターンロケット)ロケットの初飛行。強烈な騒音と振動で、打ち上げ場所から6km離れた場所において天井タイルが剥がれ、ガラスが割れそうな勢いだったそうで、その後、周辺への影響対策が取られた。 実際には月着陸船は完成していたが、ロケットに搭載する前のチェックで400以上の問題点が発見されたので、ロケットに搭載することはなかった。(無人飛行)
アポロ5号>1968年1月 サターン1Bロケット(サターンロケット)を用いて地球周回軌道で月着陸船の打ち上げテスト。(無人飛行)
アポロ6号>1968年4月 サターンV (5) ロケット、サターンロケットを用いて打ち上げテスト。(無人飛行)。F1エンジン同士の共鳴現象が発生して危うく爆発するところだった。続いてJ2エンジンも5基のうち2基が停止したが、何とか地球軌道に乗せることが出来た。
アポロ7号>1968年10月 ウォルター・シラー船長、ドン・エイゼル司令船パイロット、ウォルター・カニンガム月着陸船パイロット。 サターン1Bロケット(サターンロケット )を用いて、火災事故を起こした宇宙船(ブロック1)を改良した宇宙船(ブロック2)の初飛行。アポロ計画において、はじめてアポロ宇宙船で3人が乗船して宇宙空間に行った。 ロケット、宇宙船の信頼性確立のために地球を11日間回った。ミッション中、風邪をひいたシラー船長が管制側と険悪な状況になった。
F1エンジンの共鳴振動はエンジンにショックアブソーバーを設置することによって解決した。アポロ7号、8号では、RCAというテレビ製造会社(日本ではソニー、シャープに相当)とNASAが当時の金額で約420万ドル(今の日本の金額にして60-100億円ぐらい?)かけて重さ2.8kgのテレビカメラを開発して、地球軌道上(アポロ7号)及び月上空(アポロ8号)からテレビ生中継を行った。
アポロ8号>1968年12月 フランク・ボーマン船長、ジム・ラベル司令船パイロット、ウィリアム・アンダース月着陸船パイロット。 人類史上はじめて月の周回軌道まで行って、月から地球が出てくるシーン、及び宇宙にうかぶ地球の姿(これが歴史上はじめて地球全体を写した写真といわれており、その後の人類の地球観を変えたと言われている。)を撮影し、無事に戻ってきた。 ミッションの目的は、将来の着陸地点候補を特定し、月面の目印を探す事、月を周回する宇宙船の位置データを地球から測定し校正する事、光学航法システムを検証することだった。
結果的にラベルは飛行中、30回慣性航法のデータを調整し、六分儀で200回以上地球と月を確認した。しかし、無事に戻ってくる保障はなく、そのまま宇宙をさまよう危険性もあった。後のアポロ13号事件で、月着陸船を非常用ボートとして活用できたが、アポロ8号では月着陸船を持って行ってなかった(月着陸船の完成が遅れて間に合わなかった。)ので、事故が起きれば非常に危険な状況だった。
当時は、帰還できない可能性も高かったので、NASAは妻に夫の追悼コメントを作成するよう依頼していた。飛行時期がクリスマスだったので月に到着した際には旧約聖書の「創世記の第1節から第10節」までを交代で朗読したが、後日、無神論者で社会活動家のマダリン・オヘアから「特定の宗教を持ち込んだ」として訴えられ 、この訴えは最高裁判所で却下されたが、その後、NASAは同様の騒ぎが起きないように配慮するようになった。打ち上げの前日には、大西洋単独横断で名を馳せたチャールズ・リンドバーグ夫妻の訪問を受けた。アポロ8号では自動操縦で月に行って帰ってくることが証明されたので、8号以降のミッションでは、頻繁に光学システムを利用して位置の修正を行なう事はなくなった。
アポロ9号>1969年3月 ジェームズ・マクディヴィット船長、デビット・スコット司令船パイロット、ラッセル・スワイカート月着陸船パイロット。 月面着陸に備えて、地球軌道上で指令船と着陸船の切り離しとドッキングがうまく出来るかを10日間かかってテストした。また、スワイカートとスコット飛行士が月面用の船外活動服と生命維持装置を着用して船外活動を行い、月面で使用可能であることを確認した。
月着陸船の愛称はスパイダー(クモ)、月司令船の愛称はガムドロップ(お菓子のガム、これは製造時にキズ防止のために青いフィルムが張り付けられていたため、大きなキャンディに見えたことに由来)。
アポロ10号>1969年5月 トーマス・スタフォード船長、ジョン・ヤング司令船パイロット、ジーン・サーナン月着陸船パイロット。 月まで飛行して着陸船の降下テストを行い、月面高度15.6kmまで近づいた。またアポロ11号の着陸予定地点「静かの海」が本当に着陸に適しているかを調べた。その際、月面上空約48kmで飛行中、スイッチを間違えて切った事で、突然、機体が激しく旋回しはじめ、機体を制御するまでの30秒間、機体が揺れた。宇宙空間からカラーテレビ(ウエスティング・ハウス社製)による生中継を行った。月着陸船の愛称はスヌーピー、司令船の愛称はチャーリー・ブラウン。
アポロ11号>1969年7月 ニール・アームストロング船長、マイケル・コリンズ司令船パイロット、バズ・オルドリン月着陸船パイロット。 月に着陸した際に着陸船が砂中に沈んで、地球に帰還できなくなることも予想されていた。月面での行動範囲は月着陸船の周囲60m程度。月から離脱する際に、発射スイッチの頭が外れており、オルドリン飛行士がマーカーペン”Duro 'Rocket' aluminum bodied marker pen”の先でスイッチを押して出発したという逸話が残っている。
昭和44年7月20日、月着陸船イーグルは、日本時間の5時17分に月面に着陸し、この映像は世界40か国以上に同時中継され、5億人以上の人々が見ていたといわれる。 この歴史的なテレビ中継において月面で使用されたのはウエスティングハウス社の白黒テレビカメラ(月面で使用されたテレビカメラはすべてウエスティング・ハウス社製)で、これはNASAが当時の金額で229万ドル(現在の日本円にすると100億円ぐらい)で契約して開発したものだった。
アームストロング船長の言葉、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」はあまりに有名で、NHK特別番組『アポロ11号月着陸』では、月面着陸までの様子を深夜0時から衛星生中継で計13時間にわたって伝え、着陸に成功した瞬間の視聴率は68.3%だった。
「これは一人の人間にとっては~」の言葉は、その場で思いついたと長年言われてきたが、アームストロングの弟の証言によると、月面上陸の数ヶ月前に考えていた文章だった。月面から未知の病原菌を持ち込んでいる可能性があるということで、地球帰還後、「手、足、頭がつながったスーツ」を着て、アポロ宇宙船から出て、空母上の移動式隔離施設(キャンピングカーのようなもの)に隔離され、隔離されたまま輸送機で米国に運ばれ、約3週間、隔離施設で過ごした。
ニール・アームストロングが月上陸の1番手に選ばれたのは、月着陸船の開発段階で参加し、着陸船の操縦に慣れていたことと、元軍人ではあるが、アポロ計画時はNASA職員の民間人であったこと、オルドリンに比べて冷静沈着な性格であったことが理由とされている。また、バズ・オルドリンが選ばれたのは彼が宇宙工学の博士号を有しており、宇宙航行、ランデブーの専門家だったことが要因として考えられており、オルドリンは人類で最初に月面に立つことは出来なかったが、月面活動中の記録写真のほとんど、及び有名な「月面の足跡」の写真はオルドリン飛行士の足跡である。
アポロ11号で、アームストロング、コリンズ、オルドリンが選ばれ、人類初の月面上陸をおこなう事が決定した際、オルドリンは、過去にジェミニ計画で5時間半も宇宙で船外活動をした経験があった&アームストロングは、一度も宇宙空間に出たことはなかった&通常、船長は船に最後までいるのが普通で、最初は部下が探索に出るのが普通という考えから、自分(オルドリン)が月上陸1番目になるものと予想した。しかし、狭い月着陸船の構造上、ハッチから出るには船長が先の方がスムーズであること&NASAとしては各人の性格上、総合的に判断するとアームストロングの方が適任であると判断した。
当初、アームストロングは、オルドリンの代わりにバックアップクルーの一人であったジム・ラベルへの交代も打診されたが、ジム・ラベルはジェミニ12号で船長を務めており、アポロ11号で月着陸船パイロットを務めさせるのは忍びないという理由で断ったとされる。月着陸船の愛称は、アメリカにちなんでイーグル、月司令船の愛称はコロンビア。コロンビアとは、小説家ジュール・ベルヌが書いた小説「月世界旅行(原題 From Earth to the Moon)」の中で出てくる架空の宇宙船の名前から命名した。これはアポロ10号での月着陸船&司令船の愛称がスヌーピー&チャーリー・ブラウンだったので、もっとミッションに関係のある含蓄のある名称をつけろということになった。
宇宙開発でアメリカと競争していた旧ソ連も、アポロ11号の時期に、アメリカを出し抜くために、無人探査機「ルナ15号」を月に向けて打ち上げており、ルナ15号で月の土を地球に持って帰ることで、人類月面着陸のインパクトを薄めようと考えていた。しかし、実際にはルナ15号は月に衝突した事で、大きな話題にはならなかった。
参考情報>
アポロ11号の運行記録>「宇宙開発」 ニュートン別冊 教育社に詳しく載っている。
「アポロ写真集 月着陸第1号」 朝日新聞社 AP通信 共編 昭和44年発行
>半分ぐらい白黒写真であるが、当時の宇宙食、訓練風景写真などが収められており、アポロ計画に興味がある人には有益。
アポロ12号>1969年11月 ピート・コンラッド船長、リチャード・ゴードン司令船パイロット、アラン・ビーン月着陸船パイロット。 アポロ11号では不正確だった着陸精度の向上( 無人月面着陸機 サーベイヤー3号が見えるぐらいの場所に着陸)、岩石の採取などを行った。また、月面の過酷な環境に数年間耐えたサーベイヤー3号の材質の腐食を分析するためにサーベイヤー3号からサンプルを採取した。月面での行動範囲は月着陸船の周囲150m程度。12号の予備乗員達のいたずらによって月面で使用するチェックリスト中に「プレイボーイ誌のヌード写真」が仕込まれており、人類史上はじめて月にヌード写真が持ち込まれた。
アポロ12号で持ち帰った月の石は、1970年3月から開催された大阪万博で展示された。サターンロケットの打ち上げ時に、雷に打たれて、その影響で、着水用パラシュートが開くかどうかが懸念され(開かなかったら命はない)たが、まずは月を目指すことになり、結果的には着水用パラシュートも問題はなかった。しかし、着水時にカメラをきちんと収納していなかったので時速30kmで着水する際に、カメラがアラン・ビーン飛行士のコメカミを直撃し、一瞬気絶したという。カメラが額を直撃していたら死亡していたという。
アポロ13号>1970年4月 ジム・ラベル船長、ジャック・スワイガート司令船パイロット、フレッド・ヘイズ月着陸船パイロット。本来は、スワイガートの代わりにケン・マッティングリーが正式クルーだったが、打ち上げの1週間前にバックアップクルーだったチャーリー・デュークが風疹を患い、マッティングリーに風疹の発病の可能性が否定できなかったのでスワイガートが交代でアポロ13号クルーになった。
マッティングリーが、交代の事実を最初に知ったのは彼の車のカーラジオ経由だったという。地球出発前にラベル船長は通信担当者と秘密の暗号を決めており、飛行中にマッティングリーが発病したかどうか、暗号にて連絡(ヒューストンで花は咲いたか?「咲いた、咲いてない」でマッティングリーの発病を連絡していた。)をとっていた。命を懸けている宇宙飛行士にとって通信担当者は信頼のおける同僚飛行士がつとめる(おそらくスペースシャトル時代以前の話)ことになっており、ミッション中は、飛行士達は通信担当(キャプコム)としか、会話出来ないルールになっていて、通信担当者を通じてやりとりしていた。月に向かう途中で事故のために月面着陸は中止されたが、月を回ってから奇跡的に帰還し、このエピソードは、後に「アポロ13」として映画化された。
月に行く途中でテレビ中継を3回行い、うち2回はアメリカのゴールデンタイムに合わせて行われたが、アポロ12号のテレビ中継失敗の影響で、テレビ局では生中継されず、この事実は当時の飛行士達には知らされていなかった。アポロ13号からは、船外活動中の宇宙飛行士を特定しやすくするために船長用の宇宙服には赤いラインがつけられた。当時の通信記録によると、非常時の宇宙飛行士の眠気を覚ますために、覚せい剤(デキセドリン)が薬のキットに含まれていたことが判明している。
当時は、アポロ11号でもそうだが、アポロ13号でも月面機器の電力用として小型原子炉発電機が月着陸船に搭載されており、地球に帰還した際に約4kgの核燃料がばらまかれることが懸念されたが、月着陸船は地球軌道に乗る前に投棄された。映画「アポロ13」で、四角の容器と丸い容器を、宇宙船内のありあわせのもので繋いで二酸化炭素の吸収フィルタを作製するシーンがあるが、あれはアポロ8号のシミュレーション訓練時に船室の換気扇が故障したという想定で、すでに考え出されていたものであり、アポロ13号事件ではじめて考え出された方法ではなかった。この時期、1970年から1971年にかけては、アメリカ各州の人々に歴史的な宇宙船と技術的な偉業をアピールするために「アポロ11号50州ツアー」が催され、巨大トレーラーに司令船コロンビアや月の石を搭載して、各州で展示会を開催した。
アポロ14号>1971年1月 アラン・シェパード船長、スチュワート・ルーズマ司令船パイロット、エドガー・ミッチェル月着陸船パイロット。アポロ13号の事故の反省を受けて宇宙船を改良(支援船の酸素タンクの設計変更&従来の2個から3個に増加、タンク間にバルブを追加、司令船には水貯蔵システム追加、月着陸船には予備の電池を追加)し、中止となったアポロ13号のミッションが実行された。
手押し式カートを初めて持ち込み、月面で様々な科学分析装置や実験装置を展開、作動させた。月面を初めてカラー撮影を行った。2回目の船外活動の終了間際に、岩石採取スコップにウイルソン製の6番アイアンをつけて、人類初めて月面でゴルフを行った。また、月面で使用するスコップで槍投げを行い、人類初めて月面でオリンピックを行った。エドガー ・ミッチェル飛行士は、月に向かう途中で密かに地上と超能力実験を行った。
アラン・シェパード船長は、マーキュリー計画のフリーダム7でアメリカ人としてはじめて宇宙に出た人物で、月面に立った人類としては最高齢の47才だった。ミッション中に原因不明の機械のエラーが続発し、これはハンダづけスイッチのハンダが取れて浮遊し、悪さをしていたことがミッション後に判明した。
アポロ15号>1971年7月 デビッド・スコット船長、アルフレッド・ウォーデン司令船パイロット、ジム・アーウイン月着陸船パイロット。 月面に3日以上滞在し、電動車(ルナ・ローバー)を持ち込んで、広い範囲で調査を行った。アポロ15号以前では、テレビカメラには長いコードが必要で、三脚に設置して中継していたが、月面車を使用するようになるとコードが邪魔になるので、月面車用に特別なハンディカメラが用意されて、このカメラは地球から遠隔操作で映す方向を変更することが出来るようになった。
月支援船には小型の人工衛星が積み込まれ、月周回軌道上で放出されて「月の磁場」を探査した。さらに、超高性能のカメラが2台設置されており、そのうちの一台は機密扱いを解除されたスパイ衛星に使用されたタイプのカメラで月面上の約90cmの物体を細部まで撮影することが出来るほどだった。ミッション終了後に、飛行士がNASAの許可を受けて月面に持って行った(ミッションの間、宇宙服のポケットに入れていた。)約400通の初日カバー((FDC, First Day Cover)、郵便ハガキみたいなもの)が、業者によってNASAに無断で販売されたことによって、スキャンダルとなった。
これらのFDCの販売による収益は、アポロ15号乗員の子供達の信託基金に入ることになっていた。ジム・アーウィン飛行士は、月面に父親の写真を含む、小さな記念物を置いてきた。月司令船の愛称はキャプテン・クックにちなんでエンデバー、月着陸船は、乗員がすべて空軍出身者だったのでアメリカ空軍の公式にシンボルであるハヤブサにちなんで”ファルコン”。スコット船長は、ハヤブサ(ファルコン)の羽を月面に持って行き、両手から同時に羽とアルミニウム製ハンマーを落下させることによって、真空状態では羽とハンマーが同時に落下する事を証明した。
また、地球の植物の代表として4つ葉のクローバー、地球の文化の一つとして小さな赤い表紙の聖書を一冊、ルナ・ローバーの制御盤の上に置いてきた。地球帰還時に、3つあるメインパラシュートのうち、一つが開かなかったが、無事に着水した。アポロ15号に関わらず、アポロミッションで地球に帰還した乗員たちは、クルー仲間とともに、技術陣に、管制官に、上司に、ミッションの報告をし、ワシントン、連邦議会でスピーチをさせられ、ニューヨーク、ロサンゼルスでトークショーやパレードに呼ばれ、一か月近くも同じ質問を聞かれ続けた。
アポロ16号>1972年4月 ジョン・ヤング船長、ケン・マッティングリー司令船パイロット、チャールズ・デューク月着陸船パイロット。月面に電動車を持ち込んで3日間、27kmドライブして探索(主に月の高地)を行った。デューク飛行士が月面に家族の写真を置いてきた。ケン・マッティングリー飛行士は、事故が起こったアポロ13号に搭乗するハズだったが風疹の疑いがあったので結果的にはジャック・スワイガートと交代した。
16号では、テレビ中継システムに改良が加えられ、地球に高さ64mの巨大な受信用パラボラアンテナが設置されて受信信号強度の向上が図られた。このようにテレビ中継の画質は劇的に向上したが、アポロ計画に対する関心の低下から、中継を見たアメリカ人はほとんどいなかった。この時期になるとNASAは、アメリカ国民の関心が得られるように船外活動時間を、ゴールデンタイムに合わせるようにテレビ局に提案したが、3大ネットワークは、利益率の高いゴールデンタイムにアポロ中継をやるのは割に合わないということで、中継しないことを決定した。
アポロ17号>1972年12月 ユージーン・サーナン船長、ロナルド・エヴァンス司令船パイロット、ハリソン・シュミット月着陸船パイロット。 最後の月面着陸ではじめて地質学者(ハリソン・シュミット)を連れて行った。月に行きたいベテラン宇宙飛行士は多くいたので、選ばれた地質学者は訓練中は複雑な心境だったそう。
月面を車で探査し、オレンジ色の土を発見した。サーナン船長は、月面に娘(トレイシー・サーナン)のイニシャルを落書きしてきて、月面は風が吹かないので、この落書きは半永久に残る。 NASAは、米国民の注目を集めるために、アポロ計画史上はじめて、夜のテレビのゴールデンタイムにロケットを打ち上げる事を計画し、午後9時38分の打ち上げを予定したが、実際には打ち上げ30秒前に不具合によって打ち上げカウントダウンが停止し、実際に打ち上げられたのは夜中の12時30分近くであり、テレビ中継のスタッフは、3時間近くアドリブで話したりしてつないだ。