アポロ計画<アポロ11号写真集>

 2 アポロ11号の写真集


2-1 ●事前に砂漠で地質調査の練習を行った。(右、ニール・アームストロング船長(当時38才)、左 バズ・オルドリン飛行士 (アメリカ空軍大佐、39才))


 昭和44年(1969年)1月にアポロ11号の搭乗員に決定してから、7月の打ち上げまで、7か月間で1000時間の訓練を行い、その他にバックアップメンバーの飛行士3人がまったく同じ訓練を受け、支援メンバーの飛行士3人も参加して、正式メンバー(アームストロング、オルドリン、コリンズ)の影に6人の宇宙飛行士が支援していた。


2-2 ●実物大シミュレーターで月面上陸の練習(アームストロング船長)


 「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍」という有名なフレーズの”小さな一歩”とは、このオレンジ色のお皿から踏み出すことを意味している。当時、月の月面は「砂の海」である可能性が考えられたので、月着陸船が沈まないように、このようなお皿状のフロートが考えられた。背中の生命維持装置&船外活動服は、本物は合計で91kgあり、本物の装備で訓練していたという。この訓練では、目に入るものを的確に描写して報告したり、石を拾う練習をしたりしており、与圧した宇宙服は、パンパンに膨らんで硬く、手を開いたり閉じたりするのに、テニスボールを握りつぶす程度の握力が必要だった。

 月着陸船の開発当初は、月着陸船からロープで降りることになっていたが、重装備で登るのに難があったために、ハシゴが設置された。写真ではハシゴの下段は宇宙飛行士の膝あたりに来ているのが分かり、これが設計通りのハシゴの位置であるが、アポロ11号の月面着陸の際は、予想以上に着陸に燃料を使いすぎ&あまりにもソフトな着陸だったので、月着陸船の脚部分が想定よりも縮まず、ハシゴの下段位置がかなり高いところとなった。 

 この実物大シミュレータの他に、着陸訓練用のシミュレータもあり、訓練ではシミュレータのアクシデント発生担当班が、起こりうるアクシデントを想定して、「トラブルによって宇宙飛行士を殺す方法」を試し、事故で死なないように、それらのアクシデントに対処する方法を考えた。


2-3 ●実物大シミュレータで岩石採取訓練(アームストロング船長)

月面用のスコップも、岩石用コンテナも、すべて専用に開発された。


2-4 ●月へ出発するために船外活動服に着替えるアームストロング船長。 


 打ち上げ時の急減圧に備えて船外活動服を着用していた。この服は、着る方法にもマニュアルがあり、背中のジッパーなどは同僚の助けが無くては着用できない。よって、一つ一つチェックリストを読み上げて着用し、きちんと機能するかのテストに1時間以上かかった。また、打ち上げに際しては2時間以上前に、この船外活動服に着替えて、打ち上げ時の急減圧時に、血管内の窒素が気化する(いわゆる潜水病)に備えて、体内の窒素を減らしていた。

 この写真は、まだヘルメットを装着していないので、打ち上げ2時間前以上だということが分かる。アームストロングが手にしているヘルメット(いわゆるバブルヘルメット)はガラス製ではなく、戦闘機の窓に使用されるポリカーボネート製(プラスチック)で、ガラスは割れる危険性があるが、ポリカーボネート(CDやDVD,ブルーレイディスクの素材)は透明度が高く、軽くて変形しても割れない特徴がある。

 バブルヘルメットの内部後ろ側に白い面があるのは、この端面から酸素が顔前面に向かって供給されるようになっているから。ちなみに、映画「インターステラー」の中盤で、宇宙飛行士同士がヘルメットをぶつけあって相手のヘルメットを割るシーンがあるが、本物はプラスチック製なので、実際にはぶつけあって割ることは不可能である。

 アームストロングが来ている宇宙服(船外活動服)は、服と首、腕の赤色、青色リングが一体になっているように見えるが、実際は、宇宙服内部の固い硬殻構造を白い「断熱&耐隕石衝突衣類」が覆う構造になっており、内部の硬殻構造のせいで、アームストロングの体格が良いように見える。

 適切に月に行くタイミングは28日ごとに訪れ、太陽光が月面を約12度で照射している時がもっとも望ましく、それより角度が小さいと影が長くなりすぎる&寒すぎる、太陽の照射角度が大きすぎると月面が真っ白になり高温になりすぎるという。アームストロングが被っているのが通称”スヌーピー・キャップ、スヌーピー・ハット”で2個のマイクと2個のイヤホンが内蔵されている。


2-5 ●サターンロケットに乗り込む3飛行士(打ち上げ3時間前ぐらい)。前からアームストロング船長、コリンズ司令船パイロット、オルドリン月着陸船パイロット。

 打ち上げに際してはチェック項目が450あり、カウントダウンは28時間前から始めた。写真で宇宙飛行士達が、履いている「黄色い靴」は、宇宙服の靴を保護するための「地上歩行用カバー」。手にもっているトランクは、宇宙服が密閉されているので、地球上で窒息しないように酸素を送る装置が入ったトランクで打ち上げ前のみに使用し、宇宙船に乗ると宇宙船のシステムとホースを接続する。


2-6 ●ロケットに乗り込むアームストロング船長。うしろはコリンズ飛行士(米国空軍中佐(後に大佐に昇進、当時38才)、服が指令船パイロット用)

 手にもっているトランクは、簡易型生命維持装置。”通気性のない完全密閉された着ぐるみ”を着た状態なので、窒息防止&体温が上がらないように生命維持装置はかかせない。月司令船に乗り込む場である「ホワイトルーム」は無菌状態に保たれており、乗り込みを手伝うスタッフと乗員3人以外は爆発の危険があるために周囲には誰もいないので、ロケット発射場(ケープ・ケネディ、(和風にいうとケネディ岬)、現在はケープ・カナベラルという名称。ちなみにヒューストンは別の街にある。)は、とても静かだという。

 当日、アームストロング夫人( 後に離婚 )は、月司令船のメーカーであるノース・アメリカン社が保有するクルーザーに招待されて大衆から逃れてフロリダ沖で打ち上げを見守った。打ち上げロケットには24時間以上前から2700トンの液体酸素と液体水素が推進剤として注入されており、何らかのトラブルで爆発したら、消火するのに数日はかかると考えられていた。よって、上昇用エレベータのとなりに高速降下用のエレベータがあり、即座にコンクリート製の地下豪に逃げ込めるようになっていた。

 その地下壕は、巨大な火災が発生し、瓦礫のせいで救助に時間がかかることを想定して、アポロクルーとスタッフが1ヶ月生活できるだけの食料や日用品が備蓄されていた。この脱出風景は、映画「メン・イン・ブラック3」で見る事が出来る。

 NASAは公的機関であり、アポロ11号ミッションも、行政機関から見ると「月への出張」扱いとなる。よって、後年、オルドリンが公開した出張精算書によると、ヒューストン⇒ケープ・カナベラル⇒月⇒太平洋(空母USSホーネット)⇒ハワイ⇒ヒューストンの移動になり、ヒューストンから月ミッションを経てヒューストンまでの移動費用、宿泊費用は軍が負担し、自宅からヒューストンまでの往復の自動車のガソリン代金(当時33ドル、現在の日本円にすると2万5千円ぐらい)が支払われた。

 宇宙空間に出ると、強力な太陽光にさらされるので、1時間に1回転の割合で、宇宙船を回転させて宇宙船が均一に加熱されるようにしていた。この操作を飛行士達は「バーベキュー・モード」と呼んでいた。

 月面着陸中及び月からの離陸中に、不具合が発生した場合は、コリンズ飛行士がアームストロングとオルドリンを救出する方法が18種類考えられており、コリンズ飛行士は、これら18種類の方法をマスターする必要があった。


2-7 ●オルドリン飛行士が着陸船から出てくる場面。(1969年7月21日、日本では午後0時近く、ニューヨークでは午後11時ごろで、着陸自体はニューヨークで日曜の夕方4時17分)

 アポロ11号で飛び立つ前からアームストロング達は、着陸地点周辺の地形を多数の訓練(訓練では、事前の調査によって着陸地点の風景が直径5mの石膏模型によって再現されており、シミュレータで何百回も訓練していた。)によって熟知していた。着陸地点は、月の赤道近くの「静かの海」という何もない場所で、ニューヨークのマンハッタン島の半分ぐらいのエリアに着陸する計画だった。

 船外活動服のデザインは変更されていないのに、出口の扉が設計変更で小さくなったので月着陸船から出るのに苦労した。写真から分かるように出入り口のハッチの大きさは81cm角しかなく、かさばる宇宙服&生命維持装置を背負った状態では、出入りするだけでも大変な状況だった。当時の状況を、かなり正確に再現したBBCによる再現フィルムでは、アポロ11号の3人の飛行士達は月面軌道上で、UFOらしきものを目撃したらしい。

 ただし、この事実を地球に報告するとUFO探索が主要任務になるだろうとの事で、地球に報告はしなかった。月にはコンピュータ制御で自動着陸する予定だったが、コンピュータが直陸させようとしていた場所はクレーターの中だったので、アームストロングは手動操縦に切り替えて平らな場所を探して着陸したが、その時は着陸用燃料が残り2%を切っていた状況だった。目標の着陸地点よりも離れた場所に着陸したので、着陸当初は自分たちがどこに着陸したかは不明で、結局、地球から着陸地点を割り出して翌日の月司令船とのランデブーに備えた。

 月面に立った人達の報告によると、重力6分の1の世界は、上下の間隔が混乱することもなく、体が軽いために無重力空間より快適に過ごせるという。

 オルドリンは月着陸船パイロットという名称であり、この名称からすると月着陸はオルドリンが操縦しそうな感じであるが、実際にはコンピュータが自動で着陸する操作を見守るのが仕事で、コンピュータが間違った場所に着陸するのを訂正する操作は船長が行った。月に着陸した時、衝撃で月着陸船(地球では重さ14.7トン、月面では2.45トン)が壊れていないかチェックするのに6時間費やした

 月面には巨大な石やクレーターもあり、月着陸船が岩やクレーターにひっかかると横転したり、再離陸出来ない可能性もあった。また、オルドリンは秘密結社フリーメイソンのメンバーで信仰心が篤く、NASAの許可を受けた(月面で特定の宗教儀式を行うのはアポロ8号の事件で懲りていたので、儀式をやるなら秘密裏にやることで了解していた。)上で、月面で聖餐式を行うべく、 ヨハネの福音書を写した小さなカード、聖餅、黄金の小さな聖餐杯、赤ワイン少量を持参し、月面着陸後、「一人聖餐式」を行った。

 この儀式は、アームストロングには知らせていなかったので、アームストロングは「何を始めたのか」とびっくりしたという。アームストロングが月面に出るためにルナ・モジュールのハッチを開けようとしたが、着陸の衝撃のためか、ハッチはスムーズに開かず、力づくでこじ開けた。ただし、ハッチは極限に軽量化されているので、ハッチが変形すると、今度は、きっちりと閉まらなくなる危険性があった。ハッチは外側にハンドルがないので、月面に出る際には「閉まってしまわないよう」に半開きにして船外活動を行った。

 当初の設計では、月着陸船の脚部分は、着陸の衝撃を吸収して、写真よりもっと短くなるハズだったが、着陸に際して予定よりも燃料を消費して軽くなっていた&着陸があまりにもスムーズだったので、予定よりも脚が長い状態で固定したために、ハシゴ部分が予定よりも高い位置で固定された。

 アームストロング船長が、月面に立った後、緊急事態で早急に月面を離れなければならない事も予想されていたので、まずは、月の砂、石を拾ってヒザのポケットに収納し、その後、余裕を見て観測機器を設置した。ちなみに、この際に手っ取り早く採取した月の砂と袋は2016年頃、NASAの手違いによって宇宙関係グッズとしてオークションで11万円で落札され、NASAは返却を希望したが、裁判によって落札者の所有が確定し、約4億円でオークションにかけられている。

 オルドリン飛行士は、アームストロング船長の14分後に月面に立った。 オルドリンは月着陸船から外に出て、月面に立つまでに時間があったので、「ハシゴにつかまっている間に、おしっこをした」そうで、「人類史上はじめて月面上で、おしっこをした人間」である。


2.1 < アームストロング船長とオルドリン飛行士の関係 >

 オルドリンは、父が米国ロケット工学の父、ゴッダードの教え子にあたり、マサチューセッツ工科大学で宇宙航行学で博士号を得るなど生粋のエリートである&ジェミニ計画で数時間、船外活動(いわゆる宇宙遊泳)した実績もある(一方、アームストロングは船外活動の実績はなかった)、人類で初めて月面に立つのは自分がふさわしいと考えていて、計画担当者に直訴したこともある。

 月面上陸の順番にあたっては、オルドリンは少し変わり者&軍所属であるために2番目、アームストロングは当時、NASA所属の民間人であり、極限の状況判断に優れているテストパイロット出身なので1番目になったという伝説も流れているが、実際には、アポロ計画の順番で、たまたまアームストロングのクルーの番になり、月着陸船の出入り口構造の関係で船長が先に出ることになったのが事実とされている。

 アポロ計画の船長は、同僚クルーを選ぶ権利があり、アームストロングはオルドリンを、バックアップのジム・ラベルと交代させてもよいとの打診を受けたが、ジム・ラベルはジェミニ計画で船長の経験があり、船長経験者のプライドを考慮&オルドリンはランデブーのプロ(ドクターランデブーというニックネームがついていた)であることから、オルドリンとともに月面着陸することを選択した。当時から「誰が最初に月面に降りるか」は注目の的であり、当時のインタビューでオルドリンは「月面に月着陸船で二人同時に着陸するのだ」とコメントしている。

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 人類がはじめて月に立つことは、20世紀最大の科学的偉業であり、世界的な一大イベントであったので、当時、約6億人がラジオやテレビで見守り、月からのテレビ中継が実現したことも驚異的な出来事だった。当時のアメリカの報道では、7月20日(日曜日)、21日(月曜日)の新聞・ラジオ・テレビは、アポロ11号のニュース一色となったが、23日の夕方には報道も落ち着き、アポロ11号のニュースは最新情報やまとめ記事として時々取り上げられるだけになっていた。


2-8 ●有名な足跡写真。

 オルドリン飛行士の足跡(この写真を撮影したのもオルドリン)で、これを撮影することは事前に決まっていた。ほぼ真空状態で風が吹かない月面では足跡は半永久に残るという。月の土は、風、水による風化がないので、微細に割れたガラス片のように尖っており、流動性に劣るために細かい濡れた泥のような状態であり、宇宙飛行士が歩くと( 地球上で体重80kgとして、月面では6分の1では体重13kg )、1-2cm沈んだという。月着陸船( 地上では14.7トン、月面では2.45トン )では、場所によって最大20cm程度、着陸時に脚部が土に、めり込んだという。

 この足跡は、記念ではなく、地質学者に月の砂の性質を見せるために撮影したもので、実際には踏む前、踏んでいる途中、踏んだ後の写真が残っている。


2-9 ●星条旗に敬礼するオルドリン飛行士。(1969年7月21日)これも撮影することが事前に決まっていた。


 この写真は、一見すると星条旗を見ているように見えるが、高解像度写真のオルドリンの顔部分を拡大すると、カメラ側を向いている。月面から離れる時も大きなリスクがあり、使用される上昇用ロケット(1機しかない)は、確実性を担保するために開発にあたっては1000回近く動作試験を行ったという。背負っている生命維持装置は、4時間分の酸素、通信装置が入っており、地球では重さ54kg、月面では9kg。着ている船外活動服は、地球では28kg、月面では4kg程度。飛行士の体重が地上で80kgとすると、月面では、13kg程度。人間も含めて、地上では合計162kgが月面では27kgになっている。

 船外活動服を着ている状態では、黙っていると背中の生命維持装置の機械音が常時聞こえるのみだという。星条旗は、Annin Fagmakers社製で、レーヨン生地で作製されており、当時5ドル50セント、現在の価値にして約3600円(実質的な経済価値としては7200円程度)でNASAが購入したものであり、月面での昼は二週間あり、昼間は100℃、大気がないので直接、太陽光からの強烈な紫外線を既に40年以上浴びているので、現在では色あせて真っ白になってボロボロになっていることが予想されている。

2-10 ●月着陸船の設置状況。月着陸船は砂にあまり埋まっていない。オルドリン飛行士。

 月には大気がほとんどないために宇宙空間から超高速の微粒子が減速せずに降り注ぐととともに、月面の昼は+200℃、夜は-200℃になるために着陸船の脚にまで保護フイルムで覆っている。月面での船外活動が、ほどよい温度の時間帯(月面の夜時間帯)につくように、計算してから地球を出発したので、写真中の光は月着陸船によるライト光である。


2.2 <これは一人の人間にとっては~ >

 アームストロング船長の有名な言葉、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」の「小さな一歩」というのは、上記の「金色の丸いお皿(フッドパッド)」から足を踏み出す事を言っている。ちなみに、有名な「これは一人の人間にとっては~」というメッセージは、NASAの月面活動リストに予定はなく、アームストロング自身の思いから出た言葉で、アームストロングの弟の話によると、事前に地球で考えていたセリフだったという。

 当時の通信状況の悪さや、管制センターが興奮して騒々しかったので、アームストロングの「これは一人の人間にとっては、~」のセリフが、地上では「これは人間にとっては、~」に聞こえて放送され、後に「これは一人の人間によっては、~」に訂正された。アームストロングが月面に立つ最初の人間と発表されて以来、「最初に月面で何を言うつもりか」は、世間の関心を引き、アームストロングの自宅には、聖書やシェイクスピアの一節を含めて、さまざまな言葉を提案する手紙が届いていたという。

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2-11 ●アポロ計画でとても有名な写真。オルドリン飛行士。

 左手を曲げているのは、手袋内側に記してあるチェックリストを見ている時に撮影したためと思われる。大概の写真で、この写真からオルドリン飛行士の部分だけトリミングして掲載していることが多い。実際には手前右側に見えている長さ3mの棒状のコンタクトセンサーの埋まり状態を観察している写真であり、月面着陸時には、このセンサーが月面に設置したと同時にロケットエンジンを停止させるようになっていた。

 このセンサーは、月面に激しく着陸して、月からの帰還用のエンジンを壊さないため用であり、このセンサーが作動した高度で月降下用エンジンを停止させるとちょうど良い降下速度になるようになっていた。

 月面では、やることが分単位であらかじめ決まっていた。飛行士の胸の部分の箱は、生命維持装置のコントロールボックス。月面用ブーツは、月面の熱や寒さに耐えるために、アルミ蒸着したプラスチックフィルム13層とガラス繊維12層を交互に重ねたもので、靴底はガラス繊維のフェルト、シリコンゴム、金属製布で作られている。特徴的な金色のバイザー(お面)は、大きいので、横を向いても動かず、写真をとる時点でオルドリンがカメラを見ていたかどうかは不明である。

 宇宙服の気圧は大気圧の3分の1であり、純酸素で満たされている。大気と同じ1気圧では、宇宙服が風船のようにパンパンに膨らんで、動きにくくなるとともに、アポロ宇宙船、月着陸船内が1気圧であると、機体強度が余計に必要となって打ち上げロケット重量が加速度的に重くなるので、1/3気圧になるように設計された。

2-13 ●月着陸船の脚に残して来た記念プレート。この脚部分は永久に月面に残るものの一つ。



 地球の東半球と西半球の地図、3人の飛行士とニクソン大統領の署名、そして「西暦1969年7月、惑星地球から来た人間が月面に初めて足を踏み降ろしたことをここに記念する。我々はすべての人類の平和のために来た」と記述されている。

2-14 ●月着陸船の脚部分



2-15 ●月着陸船の後部と地球。


2-16 ●月着陸船の脚部分。伸びている棒は月面に接触した事を知らせるセンサー。

 月着陸船は、徹底した軽量化のために、手作り感満載で、ハリボテに近い構造をしている。月着陸船の着陸にあたっては、真上から落下することが大事で、着陸に際して水平方向にぶれると脚が折れる可能性があった。月面に着陸の最終タイミングとしては、ホバリングで月面まで近づき、長さ1m程度のセンサーが月面に接触  すると、月着陸船内のランプが点灯し、そのタイミングで降下エンジンを切ると、ちょうどよい感じでソフトランディングする仕組みだった。

 脚部分の写真を撮影しているのは、月着陸船のような重い物が月に着陸するのは初めてだったので、着陸の状況を調べるためと、脚部分が上部ステージ(月から離陸する部分)の打ち上げに障害がないかを調べるため。


2-17 ●月着陸船の後ろのトランクから様々な観測機器を取り出して設置している場面。


2-18 ●月面に、様々な観測機器を設置している場面。

 オルドリン飛行士の手元は月面地震計。腕部分の装置は地球からの距離を精密に測定するためのレーザー反射装置。その奥の遠くの棒状のものは白黒テレビカメラ。この頃は、小型の白黒テレビカメラも画期的だった。月面は重力が6分の1なので、スコップで砂を集めるのも一苦労で、スコップで砂を持ち上げると、ハズミで約半分の砂が周囲に飛び散ったという。風も水もない月面では、10万年前に来ても、100万年後に来ても基本的に同じ風景であるといわれている。


2-19 ●月面での初めての船外活動を終了した直後のアームストロング船長。(当時38才 )

 普段は冷静なアームストロングも、約10年かかって故ケネディ大統領の約束「人類が月面上陸を果たす」事で興奮し、写真を良くみると目が充血している。また、地球出発から3日後であるので、無精ひげも生えている。


2-20 ●月面での船外活動を終了した後のオルドリン飛行士。(当時 39才)

 一般に、船長はミッションの成功に責任を負うことから、月面での活動を楽しむ余裕はなく、飛行士の方が感動や楽しむ傾向があるとされ、船長は究極に疲れることからミッション終了後は、二度と宇宙飛行はしない場合が多い。月の砂は非常に微細で尖っており、船外活動後は、船外活動服からほこりを払うために数時間かかり、ルナモジュール内で、ヘルメットを脱いだ際には、火薬やおもちゃのピストルのようなニオイがしたという。(これは高真空の宇宙空間に存在した金属鉄が船内で酸化した際のニオイと考えられ、地球でも鉄棒を握った後に、手が匂う現象( 金属鉄が微量に溶けて、酸化してサビになる )と同じ現象であり、月面到達以前は、この金属鉄が宇宙船内の酸素と反応して炎上するのではないかと心配する研究者もいた。

 アポロ11号では月面では2時間船外活動し、不要物(生命維持装置、食べた食品の袋、尿の詰まった袋など )を月面に投棄した後、7時間の睡眠(アポロ11号では、ベッドはなく、オルドリンは船外活動服を着たまま壁にもたれかかって寝た、アームストロングは上昇用エンジンカバーの上に座って機器にもたれかかって寝たが、それ以降のミッションでは、良い睡眠をとるためにハンモックが用意された。アポロ15号以降では船内で宇宙服を脱いで裸で寝られるまでに改良された)をとった後、2時間半の離陸準備を終えてから月面を離れた。月面着陸から、およそ22時間後の事で、アポロ11号では、船外活動は安全のために月着陸船から約60m以上離れることはなかった。

 この際、月面離陸用のエンジンを作動可能にするブレーカーの先端が外れて転がっており、ペン( アポロ計画では、宇宙使用のボールペン(Fisher space pen, AG7)とフェルトペン(Duro Pen company, Duro Marker Pen, Rocketモデル)を一人2本所持していた。 )の先 、正確にはフェルトペンのペン先を使ってブレーカーを押し込んだとされる。 実際には、スイッチが使えなくても月面離陸用のエンジンを作動する方法はあったので、誰も心配しなかったという。その際、離陸のジェット噴流によって月面に立てた星条旗が吹き飛んだ。

 人類初の月面着陸では、上昇用エンジントラブル(完璧に作動するように、自己発火性のロケットエンジンを使用し、燃料の強い腐食性のせいで、事前にエンジンテストが出来ず、常に一発勝負となるエンジンだった。)で離陸出来ずに、永久に月面に留まる事態も想定されており、その際は、まず大統領から家族に電話があり、その後、用意された手紙が家族に届けられる仕組みになっており、このルールは、当然、宇宙飛行士達にも知らされていた。

 月面上空で待機していたマイケル・コリンズ飛行士は、離陸できなくなった月面の二人を残して、一人地球に帰る訓練も行っていた。

 地球帰還に使用したルナ・モジュール上部は、月周回軌道に放置され、その後、数週間後に月重力によって月面に衝突したと見られている。結果的に、アームストロング船長は合計2時間13分間、オルドリン飛行士は1時間42分間、月面を歩いた。

 昔、「(テレビ番組)なんでも鑑定団で、鑑定士が「アポロ計画では月から離陸するために名札以外は、月面宇宙服さえも宇宙空間に捨ててきた」と言っていたが、実際には、月の砂、岩の他に宇宙服、カメラや小物などを地球に持ち帰っており、小物などはアームストロング船長の死後に自宅から多数発見されている。ちなみに、これらの品はアームストロング船長個人の記念品として死ぬまで保存してあり、2018年に遺族によって一部がオークションにかけられた。


2-12 ●アポロ11号で月面から帰還する際に、アポロ宇宙船内部からから見た地球

 月面&宇宙空間から地球を見ると、地球は満月の約40倍の明るさがあるという。月に向かう宇宙船内では、高速で移動しているにもかかわらず、「動いている」という実感がないそうで、まるでシミュレータに載っている感覚だという。アポロ宇宙船には、宇宙飛行士の体調管理を含めて、数百という項目がテレメトリーを通じて地球に送信されて不具合がないか監視されていた。


2-22 ●アポロ11号で月面から帰還する際に、アポロ宇宙船内部からから見た地球

 宇宙ステーション、スペースシャトルの飛行高度からは地球全体は見渡せないので、この風景を直に目で見たのは月に行った累計で24人程度。


2-23 ●海上に着水し回収を待つ飛行士達と回収要員(一番左の人物)。

 月司令船は時速3.9万kmで大気圏に突入し、大気との摩擦熱は2800℃に達した。大気への再突入は突入角度が大事で、5.3°より浅いと司令船が大気にはじかれて二度と軌道に戻れない。7.7°よりも深いと強力なGが発生し、海に着水する前に飛行士たちが脳や内臓の重さによってつぶれてしまう。月司令船(コマンドモジュール)は、形状はシンプルな三角錐だが、重心が少し偏っているので揚力が発生するようになっており、内蔵の小型エンジンを噴射することによって、ある程度、飛行コースをコントロールすることが出来た。

 高度約121kmから大気の影響を受けて減速を初め(この際、宇宙飛行士には最大で6.35Gの加速度がかかる)、高度7kmから2つの減速用パラシュートが順番に開き、速度を時速200kmまで減速し、高度3kmで小型パラシュートによってメイン・パラシュート3基が引き出されて、最終的には時速35キロでハワイ沖に着水。(7月24日 午前11時50分) 打ち上げから6日間経っているにも関わらず、予定よりも1分早いだけの正確さだった。このあとハワイ沖の司令船回収チームが近づいて、司令船の周りに浮き輪を設置してクルーを回収した。

 この時期(アポロ11から12号ぐらいまで)は、月から未知の細菌を持ち込むことが懸念されたために検疫係が飛行士と宇宙船内を消毒し、ヨウ素液で体をこすられ、マスク付きの防護服(生物隔離服)の着用が課されるとともに、月司令船の外部にも月や宇宙空間で地球外の生命体が付着した可能性があるとして、消毒液であるポピドンヨード(ヨウ素)を機体に散布した。


2-12 ●月面着陸ミッション完了に喜ぶヒューストン管制センター

<管制状況 > 管制センターにある制御卓(コントロール用机、コンソール)は、ジェミニ計画時は約20台、アポロ計画時には240台あったという。ちなみにフライト(ミッション)の指揮官は船長にあり、飛行管制センターは飛行士の要請にしたがって忠告を与えるだけの役目。地球から月までは通信するのに片道1.3秒かかるので、月から返事が来るのに最短で2.6秒かかった。アポロ計画ではロケットの打ち上げ時には300人の技師と管制官が発射センター(ケープ・カナベラル、和風にいうとカナベラル岬)に詰め、その他の場所では、あらゆる緊急事態に備えて宇宙船製造企業関係者1500人以上が待機し、ヒューストンでは100人が飛行管制センターで常時待機した。

 飛行士からの質問には20秒で答えるルールになっており、与えられた20秒のうちに、バックルームの専門家と話し合って解決策を提示していた。アポロ11号では、ジーン・クランツが月面着陸担当の飛行主任を務めたが、飛行主任が一つの色を身に着けるという習慣はマーキュリー計画の最後の飛行からアポロ計画まで続いた。映画「アポロ13号」でジーン・クランツが白いベストを新調して見せるシーンがあるが、あれはクランツの管制官チームカラーが白だったからであり、クランツの管制官チームは「ホワイトチーム」と呼ばれていた。

 テレビで見ている分には、宇宙飛行士達がアポロ宇宙船を操縦して、月まで行っているように見えるが、実際は異なり、アポロ計画では、宇宙飛行士は実態としては「お客さん」状態であり、「コンピュータによる月面までの自動飛行において、何かあった時に手動で操作するだけだった」というのが真実である。マーキュリー計画初期の宇宙飛行士達は、ロケットを自分で操縦することにこだわったが、サターンロケットなど、強力なロケットが開発されるにともない、ロケット加速中に人間が操縦できるようなヒマはないのが、実態で、実際はトラブル発生時に「打ち上げ中止=非常脱出」を操作するのみだった。

 アポロ宇宙船にはアポロ誘導コンピュータが月司令船と月着陸船の2台設置されており、これらのコンピュータはヒューストンの管制室を通じてつながっており、地球から遠隔操作出来るように、月司令船と月着陸船と同じ操作卓が管制室にも用意されていた。

<通信関係> 飛行中は世界中の追跡ステーションで通信担当として数千人が関わっていた。テレビ中継システムでは、地球の軌道上にいるときは統一Sバンドと呼ばれる周波数帯の電波でNASAの追跡基地に信号が送られ、月の近くから中継するときはオーストラリアのキャンベラ、カリフォルニア州のゴールドストーン、スペインのマドリッドの3つの追跡基地に建てられた高さ約26mのアンテナで信号をキャッチする仕組みになっており、アポロ16号以降は、高さ約64mの巨大パラボラアンテナが設置されて信号強度が向上した。アポロ11号の中継の際に、キャンベラ通信所でドラマがあったようで、この出来事は後に、映画「月のひつじ」で再現されている。


2-24 ●空母ホーネットに到着した飛行士達。未知の細菌の可能性があるために生物隔離服を着て移動検疫室(隔離施設)に直行。




 当時は、月面に未知の細菌、ウイルスがいるかもと予想されていたので、衛生面でも命がけの冒険だった。アポロ11号からアポロ14号の検疫を通じて、宇宙飛行士の安全性が確認されたので、アポロ15号以降は検疫プロセスが解除された。


2-25 ●船上で大統領栄誉礼の儀式



2-26 ●儀式終了後に飛行士達をねぎらうニクソン大統領。


 窓の上部には「空母ホーネット+3」とあり、3人多く乗っているという意味。左からアームストロング、コリンズ、オルドリン飛行士。月面着陸に成功したのが1969年7月で、ニクソンが大統領に就任したのが、1969年1月。もともとアポロ計画は、ケネディ大統領の決断によって始まり、リンドン・ジョンソン副大統領(ケネディ暗殺後に大統領に昇格)が担当だった。

 ジョンソン大統領はベトナム戦争の泥沼のあおりを受けて、大統領選に再出馬せず、結果的に次の大統領がニクソンだった。ニクソン大統領は、宇宙開発に関心は薄く、アポロ12号以降でアメリカ人の関心が薄れてくると、アポロ16、17号の打ち上げ中止を提案した。アポロ12号でも同じ空母ホーネットが回収に使用され、窓の上の文字は「THREE MORE LIKE BEFORE(前回と同じように3人多い)」と、くだけた表現になった。


2-27 ●隔離施設に入ったまま、輸送機でアメリカ本土ヒューストンの「月物質受け入れ施設」まで空輸された。



 宇宙飛行士は、NASAの職員。イコール公務員なので、宇宙行く時も「宇宙へ出張」となっていた。その出張手当ては当時で1日3ドルだったらしい(今でいうと2万円ぐらい?)。また、月から帰還してハワイ沖に着水し、ハワイに入国した際、税関で税関申告書を書かされ、出発国「月」、持込物 「月の石、ほこり」と記述した書類も残っている。

2-28 ●8月11日まで隔離施設(月試料受け入れ研究所)で3週間(21日間)過ごして、徹底的に検査されて体調の変化を見た。

 左から、コリンズ、オルドリン、アームストロング飛行士。月試料受け入れ研究所では、ミッションの詳細を報告するとともに、バーで飲んだり、映画を見たり、トランプをやったり、エクササイズして過ごし、医師や広報官、及び、誤って月試料にさらされた研究者までもが隔離された。宇宙開発初期の宇宙飛行士達は、軍のパイロットやテストパイロット出身が多く、基本的には一匹狼タイプが多く、海軍出身とか空軍出身などの軍人同士の方が仲がよかった。

 また、ミッションを成功させることが最優先で、ミッションを成功させるために選ばれ、飛行まで体調などの面で何事もなかったメンバーが結果として飛行したので、このメンバーがアポロ11号ミッション終了後も、頻繁に連絡を取り合ったというわけではない。この写真でも、それぞれの性格(もの静かな性格のアームストロング、熱中しやすいオルドリン、気楽なコリンズ)が現れている。


2-29 ●アポロ11号で月面から持ち帰った石、砂の運搬作業。

 写真の後方に、当時の車を見ることが出来て、現在でも色あせて見えないサターンロケットと対照的である。ちなみに、この時期に日本ではトヨタ自動車の「初代カローラ」が発売された。月からは月面で真空のまま、箱に詰めて、NASAの月試料受入研究所(建設費 当時で800万ドル)に運ばれた。アポロ11号の着陸地点は、静かの海と呼ばれる月の黒い部分だったので、月の石は黒い微細な玄武岩のほこりにまみれており、見た目は煤けた石ばかりだった。当時、月の石、砂は、未知の微生物がいることも考えて厳重に管理されて、月面に立った宇宙飛行士でさえ、地球に戻った後はガラス越しに見るだけだった。アポロ計画で月から持ち帰った小さな石については、その後、ニクソン政権によって当時のアメリカ全50州と海外135ヶ国に進呈された。各州が受け取った月の石はアクリル樹脂の中に埋め込まれ、州旗とともに木製の盾に取り付けてあった。アポロ11号によって採取され、海外に進呈された石のうち、現在では7割が所在不明になっているという。アメリカ政府はアポロ17号ミッションの終了後にも再度、月の石を親善目的で各州と他の国に送付したが、これらも現在は多くが行方不明になっているという。これは、アポロ計画当時、「これから人間は何度も月に行くようになって、月の石は珍しくなくなる」という感覚でいたからだという。参考ながら、地球では、2種類の月の石が販売されており、一つは月由来の隕石である。現在でも地球と月の間には月の石が浮遊しており(月には大気がほとんどないので、月に隕石が落下すると、容易に月の石が宇宙空間に飛び出し、その後長い時間をかけて地球に落下する)、これが地球に隕石として落下し、石の組成から「これはおそらく月の石である」というものが販売されている。一方、明らかにアポロ計画で持ち帰られた石については、アメリカ政府が進呈した石以外は、「国の文化財」扱いなので公式には、販売出来ないことになっている。

2-30 ●ニューヨークでの凱旋パレード。

 左からオルドリン、コリンズ、アームストロング飛行士。3人は地球帰還後、妻を同伴してNASA主催の世界親善ツアーに参加し、45日間で24か国を回った。