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古代中国 清朝皇帝に関する読本
楠本 慶二 著 (必要に応じて更新 )
目次>-----------
1. 紫禁城 (故宮博物院)
2. 清朝の皇帝一覧
3. 清朝皇帝の食事風景、周囲回り
4. 清朝皇帝の子供の数と次期皇帝の決め方
5. 清朝皇帝の夫人達と選び方
6. 清朝皇帝の一日
7. 皇帝の日常生活の場> 養心殿、三希堂(書斎)
8. 清朝皇族の寿命(生きた年数)
9. 清朝のしきたり
10. 清朝皇帝の末路
11. 清朝皇帝、宮廷の服装と見分け方(皇帝服、ドラゴンローブ、龍袍(ロンパオ、りゅうほう)、朝服(チャンパオ))
12. 皇帝関連の印鑑(国璽)
13. 倉庫
14. 乾隆帝時代の庶民の生活状況
15. ラストエンペラー 愛新覚羅 溥儀の年表
16. 文学、映画、ドラマで詳しく知る
17. あとがき
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1. 紫禁城(しきんじょう)、現在は故宮博物院
紫禁城とは、天帝(創造主)が住んでいる星とされる北極星を紫微星(しびせい)、北極星周辺を巡る星座の辺りを紫微垣(しびえん)と呼んだのに由来する「紫宮」、及び「天帝の命を受けて世界秩序の維持に責任を持つ皇帝(天の子供の設定ということで、天子という)」の宮殿たる禁城(自由に入るのを禁止された城)の二語を合わせて「紫禁城」と呼んだことに由来する。
現在、北京にある紫禁城は、明朝第三代皇帝 永楽帝(えいらくてい)の命令によって西暦1407年に着工し、総数100万人で13年かかって1420年に完成した。 現在の紫禁城は、約1000m、横幅約760m、10m以上の高い城壁によって守られており、敷地総面積は72万平方m。
現在の紫禁城には800棟の建物があり、部屋数は9999.5と言われている。大部分は黄色の瓦で葺かれている。 ちなみに、黄色(正確には明黄色)が皇帝及び皇后の色とされるのは、中国語で黄と皇は共に「ホワン」と発音に由来している。赤は力と運まれ、光を表現している。 そのうち、黄色と赤色で紫城禁止が世界の中心で光り輝いていることを表現している。
建物は木造で、主に楠木(普通のクスノキではなく、木目が美しく特殊な繊維構造によって腐食しにくい金絲楠(キンシナン)という楠木)で建てられており、これらの巨木は主に広東など中国南方地方から水路を経て3~4年かけて取り寄せた。
煉瓦(レンガ)は江南や山東から運ばれ、1億個以上使用され、太和殿前の広場には地下からの敵の攻撃に備えて7層にわたってレンガが敷き詰められている。
石材は北京郊外から選ばれ、特に大きい石材(例えば250トンの石材)については、一里おきに井戸を掘り、冬が来るのを待って道路に水をまき、氷を張ってその上を滑らせて1000頭のロバで1万人が28日間かけて運んだと言われる。
紫禁城は、外廷と内廷に大きく分けられ、外廷は大臣、料理人、役人、護衛など限定された人が入場することが許されていた。 一方、内廷は宦官、宮女、召使いなどの限定された人しか入場することはできず、内廷に用事のある人は「腰牌」と呼ばれる札をもらって初めて入場することが許された。
後述のように、清朝においては「しきたり」によって皇帝の毎日の生活が決められていた。北京は緯度が高いので寒く、夏は蒸し暑かった等の理由によって清朝中期以降の皇帝達は紫禁城で生活することを嫌がり、康熙帝(こうきてい)は熱河(現在の承徳市)の離宮、乾隆帝(けんりゅうてい)は円明園(頤和園の隣)、西太後(せいたいこう)は頤和園(いわえん)で一年の大部分(4月~9月)を過ごしていた。紫城禁以外では「しきたり」は大幅に緩和され、大臣の謁見以外はある程度自由になっていた。 しかし、紫禁城以外の生活が長くなると、秦上文で大臣から諌められていた。
明朝(みんちょう、明王朝)、清朝(しんちょう、清王朝)では、紫禁城の中は天上世界ということになっていた。
現在、中国の象徴として有名な天安門は、当時、紫禁城の入口として天と地をつなぐ境であり、天安門は皇帝の意思を記した勅書(ちょくしょ)を発布する場所となっていた。鳳凰の置物の口から落とした勅書を受けとり、そこで勅書を認めた。 勅書はその場で別の紙に書かれ、印刷後、全国に配布された。 その際、天安門前の開けた場所には文武百官と慕われる大半の臣下たちが、この式典のために整列していた。 このイベントは金鳳頒勧告(きんぽうはんしょう)と呼ばれた。
参考文献>「紫禁城史話 中国皇帝政治の檜舞台 中央公論新社」、「紫禁城散策いろいろ事始め 凱風社」、「食在宮廷、学生社」、「素顔の西太后、東方書店(1987)」、「北京の紫禁城」今日中国出版社
現在、紫禁城は故宮博物院と呼ばれており、故宮とは「昔の宮殿」を意味している。
紫禁城にかつてあった宝物については、歴史的経緯もあって、現在、北京の故宮博物院その他、南京博物院、及び台湾にあり、台湾では国立故宮博物院という施設で展示されている。
簡単というと、台湾の国立故宮博物院には、運びやすい宝物、かつ当時価値が高いとみなされた宝物があり、北京の故宮博物院は、重い物、価値が低い物、紫禁城自体がメインである。歴代中国の書画、工芸品を見たいなら台湾の国立故宮博物院に、紫禁城及び皇帝の生活空間を体験したいなら、北京の故宮博物院に行かれることをお勧めする。
2 清朝の皇帝一覧
清朝(清王朝)> 清朝は、漢民族の王朝ではなく、現在の中国東北部にいた狩猟民族が打ち立てた異民族王朝。 当時、満州族の人口は多く見積もっても100万人いなかったと考えられており、初代ヌルハチは部族を統一し、武力によって明朝を倒して(一部の漢人による協力もあった。)清朝を打ち立て、当時2億人の漢民族を管理した。第2代皇帝ホンタイジの頃までの皇帝は、弓矢などの武芸は得意だったが、蒙古文字が読み書きできる程度であった。
初代 ヌルハチ(1559-1626)
1616年にハーン位(王位)に就き、国号を大金とした(前に金王朝があるので後金と呼ぶ場合もある)。1625年に盛京(=現在の瀋陽)で国を立ち上げた。出身部族である女真族は姓が無かったので、王になったあと、漢字の姓で愛親覚羅(あいしんかくら、中国読みでは、あいしんぎょろ)とし、女真族は文殊菩薩信仰があり、「文殊菩薩」(もんじゅぼさつ)からとって中国東北部を満州(まんじゅ)と考えた。この頃は、1592年から1598年に豊臣秀吉が朝鮮出兵を行っており、清朝前の明朝の注意が日本に向けられ、中国東北部の警備が緩かったので、これも清朝成立のきっかけの一つとされている。
2代 通称ホンタイジ(皇太極)(1592-1643)。在位1626~ 1643
ホンタイジとは皇太子という意味で本名ではない。 清朝初期は、生まれた順で皇帝になっていたが、これでは王子の間で諍いが多く、中期は皇帝にふさわしい王子を事前に選んで、後に発表される制度だった。
3代 順治帝(じゅんちてい、1638-1661) 北京の紫禁城に7才で居住し、24才で天然痘で病死。
聡明で中国古典や文学書を読む、書画骨董を愛するなど文人としての面もあった。
4代 康熙帝(こうきてい、1654-1722) 在位1661~1722
生まれつき強靭な体力に恵まれ、酒もタバコもたしなまず、17、18才頃は毎日血を吐くほど勉強したという。 朱子学に傾倒し、古典文学、歴史書を勉強するとともにヨーロッパ人宣教師からラテン語、数学、天文学、物理学まで学んでいた。
5代 雍正帝(ようせいてい、1678-1735 ) 在位1722~1735
6代 乾隆帝(けんりゅうてい、1711-1799) 在位1735~1795
清朝の全盛時代を作った人物で、文武に興味を持ち、生涯に4万数千種の詩を作った。在位時に支配下の地域の言語、モンゴル語、チベット語、トルコ語も目を通していたという。
7代 嘉慶帝(かけいてい、1760-1820) 在位1796~1820
8代 道光帝(どうこうてい、1782-1850 ) 在位1820 ~1850
9代 咸豊帝(かんぽうてい、1831~1861) 在位1850~1861
西太后(せいたいこう、西太后はあだ名で、正確には慈禧太后(じきたいこう)と呼ばれていた。「せいたいごう」と呼ぶのも間違い)の夫。
10代 同治帝(どうちてい、「どうじてい」と呼ぶ場合もある。1856~1875) 在位1861~1875
西太后の一人息子。幼くして皇帝に即位したので、西太后と共同で治めるという意味で「同治」帝としたとされる。
11代 光緒帝(こうちょてい、こうしょていと呼ぶ場合もある。1871 ~ 1908 ) 在位1875~1908
西太后によって3才の時に皇帝にされたので、若い頃は西太后の指示通りにしていたが、青年期に自我に目覚め、中国を近代化させるために、西太后へのクーデターを画策したが発覚し、皇帝でありながら死ぬまで軟禁された。 皇后(西太后の姪)は、将来を考えて皇帝制度の廃止の決断を行ない、始皇帝以来の中国の皇帝制度を廃止した。後に、この判断を悔やみ、一年後に44歳という若さで病気で倒れて崩御した。 (真偽は不明だが、「私のような不幸な妃を、もう作らない」という願いを込めて、皇帝制度を終結させようと発言したらしい。)が、崩壊後、「封建時代を終了させた人」として国葬扱いとなり、近代、評価されつつある。
12代 宣統帝(せんとうてい、1906~1967) 在位1908~1912
ラストエンペラー愛新覚羅・溥儀(あいしんぎょろ・ふぎ、アイシンギョロ・プーイー)は、西太后によって2-3才で擁立された正統な中国最後の皇帝である。(その後、袁世凱が自称「皇帝」を名乗った時期がある) 在位期間はわずか4年であり、自分の意思で退位したわけではなく、実際は、西太后の足跡を継いだ隆裕皇太后(りゅうゆう こうたいこう) 光緒帝の皇后で、西太后の姪)が国の将来、皇族の今後を考えて皇帝退位の決断を行った。隆裕は、光緒帝の従姉(いとこ)にあたり、西太后によって皇后に推薦されたが、光緒帝からは愛されず、不遇な人生をおくったが、崩壊後「始皇帝以来の皇帝政治、封権時代を終了させた人」として国葬扱いを受け、近代では再評価されつつある。
3. 皇帝の食事風景、身の回り
< 食事風景 >
明の時代は、永楽帝(えいらくてい)が北京に連れて来た料理人が山東人であったため中国、山東料理が主流。
清代初期は、清朝の故郷である満州料理と山東料理が並んでいた。皇帝が飲む水、お茶に使う水、料理に使う水はすべて、北京西郊外の玉泉山から専用の車で毎日運んできて、皇帝は玉泉山、豊沢園、湯泉などでとれる黄、白、紫の3色の老米、至る所から貢がれた米を食べ、皇帝専用に乳牛50頭、皇后専用に乳牛25頭が飼われていた。
乾隆帝(けんりゅうてい)の頃になると料理が徐々に豪華になっていき、乾隆帝の時期で朝食と昼食の毎回、100品の料理が並び、清朝末期の西太后の頃は毎回(朝食と昼食)、最高の贅沢を作った360品の料理(毎)回、お粥だけで50種類以上)と100種類を越える点心が並んでいたとされる。300点以上の料理と聞くと贅沢を尽くしているように聞こえるが、中国には「医食同源」という言葉があるように、実際には、あらゆるものを少しずつ食べて健康を保つ、中国全土から珍しいものを満遍なく取り寄せることによって皇帝の権威を保つ、中国全土の流通網を整備するという理由もあった。その結果、 4000種を超える料理と400種を超える点心のレシピがあった。
しかし、ラストエンペラー溥儀(ふぎ、プーイー)の青年期は、既に皇帝を退位しており、財政的問題、及び儀式の簡略化によって溥儀の好みに応じて現在と同じような数品の中華料理や洋食だった。
宮廷の料理には厳密な決まりがあり、かつて一度でも皇帝が食べた料理については、調味料、材料、誰が作ったか等を詳細に献立表に記録しており、時代を超えて、いつでも味が変わらないようにしていた。皇帝専用の料理人は100人以上、その他、皇后、貴賓専用の料理人はそれぞれ10人いた。 宮中の料理人は基本的に世襲制で清朝300年間ほとんど家系の変化はなかった。
現在の中華料理は、多人数で回るテーブルで大皿料理を食べるという場合が多いが、「回る丸いテーブル」は日本人が発明し、中国で流行したものであり、満州料理は日本食と同じように一人一皿の料理が基本である。
食事時間は朝食が朝6-7時頃、夕食が3時頃であり、この2回が正式なもので、その他、12時ごろには軽い軽食、夕方6時ごろには酒と簡単な点心が出された。 食事の場所は特に決めず、皇帝の気の向いたところで、すぐに食卓が広がった。
皇帝が食事することを伝えると、身なりを整えた宦官(かんがん、当時、宦官は“太監”、若い宦官は小太宦と称していた)達が大小膳を高く評価、龍の模様がついた机を運んできた。
皇帝は宴席を除くと、一人で食事するのが基本で、料理が着くと、おつきの者が各料理の上に置かれた「小さな銀の板」が毒で変色していないかを調べた。 これは当時は毒と反応して銀が変色すると信じていたからである。
その後、皇帝が席に着くと料理の蓋が一斉にとられて食事を開始した。 当然、これらの料理はすべて食べられるはずも無く、ほとんどの料理は、その後、皇后、皇貴妃、お付の者達に分け与えられた。
食事に使う食器は、官窯(かんよう)で製作された皇帝の象徴である黄色の磁器、白い玉(ぎょく)で作ったお茶碗、箸、金の箸が使用され、客には銀の食器で提供された。同様に内と外が黄色いのは皇帝、皇太后、皇後用で、内側が白く、外が黄色い容器は皇貴妃用、黄色地緑龍は貴妃と妃用、藍色地黄色龍は賓(ひん)用、緑地紫龍は貴人用、五彩紅龍は常用として使用されていた。
宮廷では、牛は農作業用という理由から食べることはタブーであり、現代の中華料理に牛肉を使ったものが少ないのはこの辺の事情に由来する。
毎日の皇帝の食事のメニュー及び、どれだけ食べたかは、すべて記録され、文書として保存されていた。
参考文献>「紫禁城散策いろいろ事始め」凱風社、「溥儀紫禁城の廃帝」東方書店、「紫城禁史話」中公新書、「食在宮廷、学生社」、「北京の紫禁城」今日中国出版社
<周囲を巡る>
昔の紫禁城には、井戸はあったが、基本的にトイレはなかった。よって、しびん、おまるで済まし、宦官、宮女がすべて後始末をしていた。 当時は、調理、お湯沸かしはすべて石炭を使用していたので、お湯を沸かすのも大変だった。
紫禁城内には井戸が72あり、生活用水は井戸水が基本であったが、皇帝が水を飲む、お茶に使う水、料理に使う水はすべて、西郊外の玉泉山から専用の車で毎日運んできた。
当時、「宦官(かんがん)は人ではない、しゃべる動物=生殺与奪は主人の自由」という考えだったので、皇后、側室達は宦官の前でも平気で裸になっていた。 お風呂は日本のように「肩まで浸かる」タイプではなく、大きなタライの中で、お湯をかける程度であったので、当然シャンプーなどはなく、女性は、特殊な櫛を使って頭のフケを宦官に取らせていた。
宦官、召使の中には「起居注」係がいて、帝の言行や食べた料理、誰が見たなど生活をすべて記録し文書で保存していた。
皇帝が寝ている時はお付の宦官、召使が交代で一晩中、警護にあたっていて朝4時に皇帝を起こしていた。西太后の晩年は、寝室の外に宦官が6人一晩中見張っており、寝室内には宦官が2人、召使いが2人、老女中が2人、時にはさらに女中が2人夜通しで眠らずに西太后の睡眠を見守っていて、朝5時に西太后を起こしていた。
皇帝が自分で歩く場合以外は、基本的に輿(こし、御輿(みこし))に乗って移動することが基本であり、正装した宦官8人で担ぎ、別の宦官4人が先導し、12人の宦官が後ろから皇帝の使用する服、椅子、宦官等を罰するための竹棒などを持って歩いていた。
始皇帝の時代は馬車を使うこともあったが、清時代には近場への皇帝、皇族の移動には「輿」が用いられ、この輿は乗り心地が悪く、実際に西太后は輿から転落したことがあるらしい。紫禁城から出る時には、皇帝の象徴である黄色い砂(黄砂)を5cm程度の厚さで道にまいて皇帝専用の道を作って、(実際には砂が舞わないようにまいて少し湿らせていた)そこを正装した宦官達が神輿を担いで皇帝を運んだ。
参考文献> ●故宮博物院14 工芸美術 NHK出版、「溥儀紫禁城の廃帝」東方書店、「素顔の西太后、東方書店(1987)」、「西太后汽車に乗る、東方書店(1997)」
エクセルはNHKドラマ「蒼穹の昴」公式サイトから引用------
西太後のエステ> 西太後は美肌を目指して毎朝、母乳を飲んだという。 母乳を提供する5人の女性が宮中にいた記録が残されている。 実際には母乳が肌に良いとする科学的根拠はないらしい。 8種類の漢方を使った乳液、特製シャンプー、歯磨き粉なども作らせている。ドラマでは、玉石でできた美顔ローラーを使用する西太后が描かれている。 肌の血行を良くし、新陳代謝を促進する効果があるとして、いつも愛用していたという。
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4. 皇帝の「子供の数」と次期皇帝の決め方
現代感覚では長男、または二男がスムースに世襲したように思うが、実際には違った。
記録によると清朝中期の康熙帝(こうきてい)(1662年頃)には、息子(皇子)その他に、娘(公主(こうず))が20人いて、無事に大人に育ったのが8人である。 清朝においては、平均すると息子が10人生まれて6人育ち、娘が7人生まれで3人が育ったという。 宮廷という最高の医療環境下においても、当時の医療レベルでは約半分の子供が病気で夭逝する時代だった。
康熙帝の次の皇帝である雍正帝(ようせいてい)は皇四子だった。成人男性は皇帝一人だったので、成人した子供たち(皇帝の兄弟や叔父、甥は王爺(ワンイエ)と呼ばれた。)は、紫禁城の北にある王府(皇族用の住居)で暮らしていた。それぞれの王府には150-200人ほどの使用人がいた。
皇帝の子として生まれた男の子は、出産直後に生母から離されて乳母に渡され、子供一人について保護母8人、乳母8人、その他雑役(食事、行水、オムツ係など)40人によって育てられ、離乳すると保母や乳母の代わりに、何人かの宦官が養育係として配慮した。 乳母も人間であるので母乳が出るのは出産直後に限られており、事前に「身元のはっきりした出産直後の女性を複数」確保していた。
6歳になると皇子は決められた衣冠を身に着けて宮廷の行事に参加しなければならなかった。
子供が代々15歳で結婚し、子供が生まれるとどうなるか。 順調に行って、孫が出来るのが早くて30歳、ひ孫が出来るのが45歳、玄孫(やしゃご)が出来るのが60歳ということになり、実際、長生きした乾隆帝は玄孫(乾隆帝も含めると5代目)がいて、記念に「五福五代~」 「5代後の子孫まで見られるのはとても幸せ)」という印鑑を作っている。
皇子が皇帝に選ばれると、皇子の妻は、自動的に皇後、皇帝の生母は皇太后(正確には前皇帝の妻が東の皇太后になるので、皇帝の生母は西の皇太后になる)に選ばれた。
昔の中国では女の子は「子供の数に数えない」という風習であり、皇帝の女の子(これは公主と呼んだ。公主は和風というと姫。公主の由来は三公(特定の大臣)が、主催して姫の結婚式を行っていたから。)は年頃になると貴族と結婚させて、宮廷から出していた。
基本的には、清朝中期ごろには後宮には皇后、貴賓、宮女、召使いを含めた数百人の女性達、皇帝の幼い子供達、千人に近い宦官、そして唯一の男性である皇帝が死ぬまで生きていた。しかし、いつまでも権力の座にいてはいけないという名目で生前に引退し上太皇となった例はある。 皇帝が死ぬと、ある特定の場所に隠されていた遺言書によって次の皇帝が指名される制度なので、例えば雍正帝(ようせいてい)は即位する46才まで紫禁城外で暮らしていた。
清朝以前は、おつきの宦官大臣や母親側の親族(息子、親戚が幼くして皇帝になると権力をふるえるから)に、そそのかされて腹違いの息子同士が次期皇帝の座を狙って、いがみ合った状況だったので、この反省から、清朝中期には、皇太子をたてず、皇帝が息子の性格、力量などを見ながら生前に次期皇帝を決めて文書にして、特定の場所に隠して、皇帝が死んだその遺言状態で皇帝継承を決めていた。しかし、清朝末期には西太后(西太后(せいたいこう)はあだ名。正確には慈禧太后(じきたいこう))が次期皇帝を事実上決定していた。
参考文献>「西太后 大清帝国最後の光芒 中公新書 中央公論新社」、「雍正帝―中国の独裁君主中公文庫」、「図録【紫禁城歴代の秘宝故北京宮博物院展~日中平和条約締結10周年記念~】昭和63年/西武美術館」
「北京の紫禁城」今日中国出版社には、秘密建ちょの実際の文書が写真で掲載されている。
5. 皇帝の夫人達と選び方
清朝の制度に関しては、皇帝の后(きさき)については、皇后の次に、皇貴妃、貴妃、妃、賓(ひん、正確には女編に賓という漢字)、貴人、応答(とうおう)、常在(じょうざい)というクラス分けがあった。よって、有名な楊貴妃は(楊)貴妃であり、第三クラスの婦人であることがわかる。また、「珍妃の井戸」で有名な珍妃(ちんひ)も第四クラスの婦人ということがわかる。
康熙帝の頃から定員制となり、皇后は一名、皇貴妃は一名、貴妃二名、妃四名、賓(ひん)六名、貴人、応答、常在には収容はなかったとされる、皇后が後宮の内治を担当し、皇貴妃~賓客まで13人が内治を補佐していたが、実際にはこの定員は目安で制限を受ける訳ではなかった。清朝の平均としては皇帝一人当たり約24人の夫人がいた。 しかし、清朝後期になると、奥さんの数は減り光緒帝は皇后、妃2人の計3人。 ラストエンペラー溥儀(宣統帝)は最初に皇后と貴妃で2人で、後に貴妃は離婚した。
皇帝、皇后、後妃クラスの奥さま達は別々の建物に住んでいた(清朝後期の同治帝や光緒帝の時期は、皇帝と同じ養心殿の別室に住んでいた。また同治帝が幼い時は、西太后や東太后も、養心殿に住んでいた時期がある)が、貴人以下のクラスの奥さま達は他の妃とともに寝起きしていた。
彼女達は、クラスに応じて、住む場所、宦官の人数、毎年支給される手当の金額、儀式時の座席の順番、会見時の洋服のデザイン、色などが決まっていた。これらの後のうち、皇后が一番ランクが高いもの、皇后は皇帝と同じ場所で飲食、寝起きする訳ではなく、皇后専用の建物で別々に暮らしていた。
皇太后が存命である時は、親、先祖を大切にする儒教の影響から、皇帝、皇太后は毎朝、(生みの親でなくても)皇太后の宮殿に出かけてご機嫌をとり、皇太后が挨拶を済ませたのを確認してから、貴賓達が皇太后に挨拶に行っていた。
当時は、女子は教育は不要という考えから、大半の後は読み書きが出来ず、後宮に入って、刺繍をしたり宮女を相手におしゃべりをしたり、御用学者から歴史、書画をならったりしてヒマをつぶす生活をしていたが、騎馬民族である満州族の伝統にならって女性も乗馬、武術訓練した。しかし、西太后は父親が中堅官僚であったため当時の婦女としては珍しく、公文書の読み書きが出来た。
また、当時は紫禁城内でパグやチンのような小型犬を飼うことも流行し、犬を飼う部門もあって、数百頭が飼育されていた。
基本的に妃に離婚という概念はなく、皇帝が死ぬと死ぬまで香を炊いて仏像を拝む生活になった。一生、紫禁城で暮らすことになったので、歴代の婦人の中には、将来を悲観して紫禁城の外の池に身を投げた人もいるらしい。 皇帝が代わると、前皇帝の皇后、妃達はすべて「東朝(とうちょう)」と呼ばれ、皇帝と東朝は黙っていないが儒教の礼節の一つであり、「東朝」はすべて東朝宮、紫禁城でいうと慈寧宮(じねいきゅう)に引っ越した。
清朝以前では、宮女として後宮に入っても、功績のあった家臣として下賜されることもあったが、清朝期では、後宮に入った後は、基本的に庶民の世界に戻る事はほとんどなく、親族の体調が悪い時などは、親族が1ヶ月程度、後宮の中で過ごすことが認められた程度であった。清朝貴族の間では、後宮に娘を取られないように、意図的に娘の出の事実を隠したりした例がかなりあった。
皇帝が死去した場合、皇后は皇太后(こうたい)という名前で呼ばれた。 有名な西太后(せいたいこう)は、最終的には咸豊帝(かんぽうてい)の第二夫人となって、後宮の西の建物に住んでいたから西太后と呼ばれ、皇后(第一夫人)は東の建物に住んでいたので東太后(とうたいこう)と呼ばれた。
歴史的には皇帝と離婚した後もおり、それはラストエンペラー愛新覚羅・溥儀(アイシンギョロ・プーイー、あいしんかくら・ふぎ)の二番目の夫人(順番的にも皇后、貴妃、妃の順番でいうと淑妃であり、上から三番目)であった文殊(ウェンシュウ、ぶんしゅう)である。裁判を起こして再婚しないとの約束で離婚後、平民となり小学校の教師となった後、別の男性と結婚した。
<選び方>
晋(しん)の武帝時代には、1万人の宮女が住む広大な後宮を羊に引かせた車によって巡回し、羊が足を止めた部屋で一夜を過ごすとされ、宮女達は、自分の部屋の前に羊の好物である塩を盛った。
明(みん)時代には女子の品徳や家柄などは関係なく、容姿によって後妃を選んで(明末期は宮女9000人、お世話になる宦官は10万人)、皇子を産ませたので、皇帝の当たり外れが大きかった。 清朝では、女子の品徳と家柄が重視され、建前上は容姿によって選ぶことはなかった。選考システムは「選秀女」と呼ばれ、旗人(きじん)と呼ばれる、日本でいう旗本、大名家の娘は義務として必ず「選秀女」に参加しなければならなかった。
「選秀女」は3年に一度行われ、11~20歳、平均すると14-16歳の娘が参加させられた。 基本的には皇帝が自分で選ぶが、皇帝が幼い場合は皇太后が自分の都合(皇太后の一族であるとかの理由)によって選んでいたとされ、美人が選ばれる決ことはなかった。
上記の「子供の数」と関係するが、「どの奥様に子供が何人生まれるか」というのは、「皇后だから子供が一番多い」という訳ではなく、奥様の容姿や性格によってかなり偏りがあった。清時代は、漢族、満州族、モンゴル族など八旗の中と呼ばれる8部族に貴族がいて、旗人(貴族)同士では婚姻、土地の売買が許されていたが、その他の部族における庶民(例えば漢族の貴族と庶民)との結婚は許されなかった。
参考にした文献>「西太后 大清帝国最後の光芒」 中公新書中央公論新社、「食在宮廷、学生社」
6. 清朝皇帝の一日
朝> 皇帝が紫禁城にいる間は、午前4時頃に起床しなければならなかった。 皇帝が幼少で、政治を担当していない時は少し遅く起きた事ができた。
皇帝が起きて、宦官が付き添って、まずは風呂(沐浴)に入った。 その後、軽い朝食(おやつに近い)を食べてから、宦官がかつぐ輿(御輿、みこし)に乗って大臣達の「早朝の謁見」にのぞんだ。 ちなみに、「朝廷」という言葉は、朝一番に会議を開いていた事に由来する。
謁見が終わって、寝室に戻って一眠りした後、仏陀を拝んだり、先祖の功績を記した本と教戒の言葉を載せた本を各一冊読んだ後、7~8時ごろに朝食(料理100皿~)をとった。服を着替えて乾清宮に出て、大臣と打ち合わせたり、地方から届けられた上奏文に目を通し、軍機処(政府)に指示を出していた。日課が終わるのは午後3時頃で、その後は自分の好きな場所で夕食をとった。
昼> 3時ごろ夕食をとった後は、清朝のしきたりにしたがって、1時間ほど昼寝した。 その後は、学者を呼んで話を聞いたり、皇太后、皇后、妃賓たちとおしゃべりしたり、宮内で劇を見たり、読書したり、詩文を作ったり、経典したり、宝物を愛でたりしていた。
夜> 5時以降は、晩の軽食や酒膳をとり、その後、お経を読んだりして、しばらく休んで寝ていた。 皇帝が未成年の場合は、皇帝が一旦お酒を飲んだところで、宦官がそれ以上飲むのを止めていた。
「清朝のしきたり」によると、皇帝が皇后、貴賓のいる宮殿に行くと、皇后、貴賓は、宮殿の前に並び、ひざまづいて出迎えなければならなかった。よって、こういうのは面倒なので、実際には皇帝が後妃の宮殿に行くことは少なく、妃を夜に寝床に呼びたい時は、夕食時に専門の宦官が、それぞれの妃の名前が付いた札を持ってくるので、皇帝が「夕食を○○妃に賜る」という札をかざして指名していた。 実際には、妃を呼ばない日もあった。
呼ばれた妃は、生理中でないことを確認した後、宦官、女官達によってタライの香油のお風呂に入れられ、体を清潔にした後、裸のまま羽毛の布にくるまれて、宦官達によっておぶられて皇帝の元に行った。これは、危険物を持っていないかチェックするためである。 呼ばれた妃達は、一晩中、皇帝付き添っていることはほとんどなく、ある程度の規定の時間が経ったら、宦官が声をかけて、その妃は宦官に背負われて退室し、別部屋で寝ていた。妃の管理が出来ないと「本当に皇帝の子か?」という確認が出来ないので、専門の宦官が「何月何日皇帝は誰と寝た」を記録に残していた。
西太后の晩年は、寝室の外に宦官が6人一晩中見張っており、寝室内には宦官が2人、召使いが2人、老女中が2人、時にはさらに女中が2人夜通しで眠らずに西太后の睡眠を見守っていて、朝5時に西太后を起こしていた。
これら皇帝の言行、行動、食事などについては、「起居注」係の宦官が生活をすべて記録し、文書で保存していた。 紫禁城内にある歴史档案館(れきしとうあんかん)には、明清両朝500年の皇帝の公式記録および宮廷の生活記録が1000万冊保存されているという。
紫禁城には、歴代の宝物が保存されていたが、明朝期の戦乱によって多くの宝物は散逸した。清朝になると、特に乾隆帝が中国各地の名品を購入し、また、各地の権力者が名品を献上することが多かったので、数百万の宝物が所蔵されていたが、これらは、時代の経過とともに宦官などが持ち出して私腹を肥やすなどして減少したが、エンペラー溥儀が退位した時点でも80万点は残っていたとされる。
以上のように、清朝に関しては「しきたり」によって毎日の生活が決められていたので、清朝中期以降の皇帝達は紫禁城で生活することを嫌がり、康熙帝は熱河の離宮、乾隆帝は円明園、西太后は頤和園(いわえん)で一年の大部分を過ごしていた。 紫禁城以外では「しきたり」は大幅に緩和され、大臣との謁見以外はある程度自由になっていた。
その他> 宮廷内宮では一日中、香が焚かれていた。 これは、風呂に入る回数の少なさ、宦官の生理現象(日常的な尿漏れに由来する臭気)等由来の匂いをごまかす意味が多かった。
7. 清朝皇帝が寝起きした場所>養心殿、三希堂(書斎)
養心殿(ようしんでん)> 養心殿が建てられたのは明時代で、清朝ではじめて、紫禁城で暮らした順治帝が、ここを書斎及び執務する場所と決めて生活をはじめ、康熙帝、雍正帝、乾隆帝、同治帝も、ここで暮らして、ここで逝去した。広さにして4畳半くらいの場所であった。 当時の清王朝(18世紀の中国)は、全世界の総生産額の20%を有する経済大国であって、皇帝は望めば何でも手に入れられる状況であったが、実際に暮らすこととなると養心殿でも大きすぎるくらいに感じていた。溥儀が皇帝を退位するのを決定した文書にふさわしい場所は東暖閣で、実際には溥儀は当時6才なので、先帝(光緒帝)の皇后である隆裕皇太后が、溥儀の退位を決め、ここで署名した。西暖閣の一角には、乾隆帝の書斎として有名な「三希堂」がある。
三希堂> 三希堂は、当初は皇帝小書斎(広さにして2、3畳ほど)であったが、詩文や書画に精通していた乾隆帝が36才の時、晋時代の書家「王義之」の本「快雪時晴帖」、王献之の本「中秋帖」、王進の本「伯遠帖」の3つあったことを喜び、乾隆帝自身が「伝説であること(希賢)、聖人であること(希聖)、天人であること(希天)」を望むという意味も込められて命名した。冬になると、この小部屋で「三希」を広げて鑑賞し、詩作にふけっていた。 乾隆帝は、王義之といった史上の名筆を数多く臨書(真似書き)し、「快雪時晴帖」は100回ほど臨書したと書いている。
参考文献>「紫禁城の女性達中国宮廷文化展 西日本新聞社(1999)」、「素顔の西太后、東方書店(1987)」、「食在宮廷、学生社」「最後の宦官秘聞、NHK出版」、「図録 北京故宮博物院清朝宮廷文化展」
8. 皇帝の寿命(生きた年数)
順治帝(じゅんちてい)24歳、康熙帝(こうきてい)69歳、雍正帝(ようせいてい)58歳、乾隆帝(けんりゅうてい)89歳、嘉慶帝(かけいてい)61歳
道光帝(どうこうてい)69歳、咸豊帝(かんぽうてい)31歳、同治帝(どうちてい)19歳、光緒帝(こうちょてい、こうしょてい)38歳
宣統帝(せんとうてい) ラストエンペラー溥儀 61歳
皇帝と言えば、当時(100-300年前)は医学が発展していなかったこと、乾隆帝の89歳は例外として60歳前で死亡する例が多かった。当時の皇帝たちは、毒殺を非常に恐れており、実際の診察では、まず複数の医師に診てもらって、その中から病気を皇帝が選び、薬を飲む際は皇帝の目の前で医師とおつきの宦官に薬を飲ませて何も起きないことを確認してから、薬を飲んでいた。
参考にした文献>
「西太后 大清帝国最後の光芒 中公新書 中央公論新社」、「乾隆帝の政治の図像学 文藝春秋」、「素顔の西太后、東方書店(1987)」
9. 清朝のしきたり
○皇帝から言葉(命令)を受け取った時、及び皇帝の言葉が伝えられた時はひざまずく。
○皇帝の前では、だれも座ってはいけない。
○皇帝は宴会時は除き、基本的に一人で食事する。
○皇帝の食事(残しもの)を賜る時は、皇帝の前では、皇后達の自分の宮殿で食べることはできない。
○皇帝は天帝の代理人だから、その言葉は法律と同じ。
○品物を受け取った時は、叩頭(土下座で頭をすりること)する。
○皇太后、皇后以外の貴賓(きひん、賓は正確には女編に賓という漢字)は宮中では偉くないので、女官達は第二夫人以下に挨拶しなくてよい。
○宮廷では毎月2、3日劇を上演するが、皇帝又は皇太后の許しが無い限り、貴賓達は観劇出来ない。
○皇帝から問われない限り、宦官は皇帝と話すことかできない。 皇帝から求められたら、1分以内に椅子、お茶を用意すること。
○宦官は北京から40里以上は出てはいけない。宦官が逃げたら捜索隊を出して連れ帰って処罰する。
○宦官は宮女と話してはいけない。 話す場面が見つかると処罰される可能性がある。
○おつきの宦官、宮女以外は貴賓達と顔を合わせることは出来ない。道で貴賓達を見ると後ろを向いて通りを過ぎるのを待つ。
○皇帝と皇后は自分用の特別の椅子だけに座る。
○皇帝が歩きたいと言えば、お付も歩き、輿(こし、みこし)に乗ると言えば、女官も女官用の輿に乗る。
○皇帝に向かって話すときは、「私は~」ではなく、「しもべは~」という。
○死刑を宣告された者の死刑執行時には、皇帝が毎年行われる行事にて、天界に「今年は○○を処刑し天に送り返しました」と報告する。
○宮中の遊びにおいて絶対に皇帝に勝たない。皇帝に気づかないようにうまく負けること。うまく負けると金品などの報酬が得られた。
○二品以上の位の清朝官史の娘は14歳以上になったら必ず宮廷の宮女オーディションに参加させる。
○牛は農業に必要な動物なので、牛肉は食べてはいけない。
○清朝では、女性は男と一緒の時の服装では手首さえ見せない。
○皇太后(皇帝の母親格)が生きている限り、皇太后は皇帝より偉い。
○庶民は皇帝の行進を見てはいけない。 紫禁城外において、皇帝の行進ルートが分からない時は、庶民を追払い、黄色い砂を厚さ5センチメートルほど敷き詰めて、皇帝の道を用意しておく。 皇帝は庶民と基本的に話さない。
○天子(天帝の、子孫という意味)=子供は、皇帝一人であるとの前提なので、皇帝が決まると兄弟はすべて臣下。
参考文献> 「素顔の西太後、東方書店(1987)」)、「西太后汽車に乗る、東方書店(1997)」
10. 皇帝の末路
王朝(例えば明朝から清朝)が変われば、後の王朝は「天命の正義」を得たとして、組織的に墓を暴いて、宝物を没収することが歴代行われてきた。
例えば、乾隆帝、西太后の墓は1923年に国民政府の軍隊によって暴かれ、死後130年を経た隆帝の口から大きな真珠が取り出され、副葬品の多量の宝物は略奪され、遺体の頭と胴体は分離された。西太后の場合は、数万個の真珠や宝石を縫い付けた礼服を剥ぎ取り、裸にされて放置され、大量の副葬品は持ち去られ、その後、海外に流出したとされる。
その他、光緒帝は側近にそそのかされて西太后へのクーデーターを画策、計画がバレて、満州族の戒告(家長(この場合は西太后)のいいつけに従い)死ぬまで20年近く軟禁され、西太后の死の前日に毒殺されたと言われている。最近の調査によって毒殺されたことは、ほぼ事実である。 ちなみに、晩年の西太後は、自分を「老仏爺(ラオフイエ)」と呼ばせるなど、自分が仏であると自称しており、自分の死期が近いことを知って一緒に、あの世に連れて行ってやろうとしたという説もある。
ラストエンペラーとして知られる宣統帝(溥儀)は、民間人になった後、がんに侵されたが、文化大革命時に「庶民を長年苦しめた元皇帝」という理由で積極的に治療が実施されず死期を早めたとされる。
参考文献>「紫禁城史話 中国皇帝政治の檜舞台 中央公論新社」、「裏中国史 墓どろぼうは金持ちへの道」
11. 皇帝、宮廷の服装 (ドラゴンローブ、朝袍(チャンパオ)、龍袍(りゅうほう、ロンパオ))
清代中期以降(康熙帝(こうきてい)あたりから)の皇族の服装は、乾隆帝の時代に完成した『大清会典』(だいしんかいてん)という法律によって、皇族も臣下も、役人として着用することは厳しく規定されていた。 明黄色(レモン色)の朝袍は皇帝、皇太后、皇后および皇貴妃のみが着用を許され、その他の妃達も必ず自分の格にあった服装をしなければならなかった。
清時代は男は清朝様式の服装(満州族の格好)であり、女は従わなくてもいいという決まりだった。よって、女性服には満州族の服(チーパオ、現在のチャイナドレスの先祖)に漢民族の特徴が入ったものや、漢族の女性は伝統的な漢族の服(上下が分離したもの)を着ていた。これは昔から男は外で働き、女性は家の仕事をして、一日中家に軟禁状態だったという状況&女性は政治的に影響を及ぼさないとの考えからであった。
清朝成立初期には、満州族特有の髪型である辮髪(べんぱつ)を嫌う漢人(儒教では親からもらった髪やヒゲは切らないのが伝統)が続いたが、辮髪をしていない男の首を頭に下げて進軍する部隊が現れたり、辮髪した役人が朝廷の高位につけられたので、その後は皆、辮髪をするようになった。辮髪は、清朝初期は頭頂部の一部に髪を残すだけ(キン肉マンのラーメンマンを参照)だけだったが、清朝後期になると、おでこ部分だけを剃るタイプになった。
代表的なものを簡単にいうと、
皇帝、皇后の最上礼服> 朝服、朝袍(チャンパオ)(朝廷の服)
皇帝用> 朝服は、朝会や祭祀などの重要な典礼の際に着る服。 明るい黄色(鶏卵の黄身色)で、ふともものあたりに9匹の龍が刺繍されているもの。 赤い朝服は春分の日の儀式用。冬服は、縁に毛皮(ボア)がついていることが多く、夏服は全体的に粗い生地(ガーゼ生地)で製作、春秋用はシルクで製作されており、日本でいう西陣織(南京雲錦(うんきん)織物)で作られたものもある。皇帝用だけは必ず胸の金龍の左右に「王の象徴である斧と弓」が刺繍されている。
皇后用> 皇后の朝服は、明るい黄色(鶏卵の黄身色)で首から腋にかけて黒いラインが入っているのが特徴。 見た目は、皇帝の吉服と同じで、ヒザの辺りから虹色になっている。 、西太后の服は、西太后が実質皇帝であったために、皇太后の朝服にも、皇帝のシンボルである弓と斧を刺繍させていた。
著作権の関係で、画像は載せられないので、朝服を見てみたい人はグーグルの画像検索で「dragon robe」を入力すると見れることが出来る。また、グーグル検索で「乾隆帝」を画像検索しても見る事ができる。ちなみに、皇后、妃は、 「朝廷の母親、妃」として理想化して、皆同じような顔に描いており、本人に似ていない。
皇帝が祭事に着る服には、十二章という、君の備えるべき美徳を象徴した十二の文様が表された。 その一つが龍の文様で、龍が変化することから、君子も時勢に応じて柔軟な政治をするという意味。 十二章は神話時代「舜帝」が定められる。 以下は引用(京都国立博物館のHPから。
引用> --------------------------------------
-中国の吉祥文様- 龍袍 (りゅうほう、ロンパオ)
キモノにもいろいろな吉祥文様(きっしょうもんよう)が見られますが、お隣の中国でもさまざまな文様に吉祥の意を託し、人びとの幸福や長寿を祈りました。
宮廷という公の場で着る龍袍は、着る人の認識によって色が異なります。選択がはっきりと分けられた社会では、着ている人の位置が一目でわかるように色分けされました。杏黄(きょうこう)(琥珀(はく)色)、皇子(こうし)は金黄(きんこう)(オレンジ色)、以外の人びとは青色を着ました。女性の場合も、皇后(こうごう)は明黄、次の位の第二夫人は金黄などと区別されたのです。
龍袍の文様は、その名前の通り龍が中心です。 龍は言うまでもなく想像上の動物ですが、万能の神として神格化され、めでたい兆しとなる最高の動物として人びとに敬愛されました。 そして、その威厳に満ちた姿は世界を治める天子、とりあえず皇帝のシンボルとして衣服を飾ったのです。 金色の龍が9匹います(襟袖口や黒地にいる龍は数えません)。 胸と背と両肩には正面を向いた4匹の龍、腰の前後には2匹の龍が向いています。これで8匹です。もう1匹、服の前に合わせた時、下になる部分に隠れています。
天を駆ける龍のまわりは、雲でです。この雲は形が、きのこの一種である霊芝(れいし)に似ていることから霊芝雲と呼ばれ、不老を象徴する瑞雲(ずううん)です。中国では富貴長命(ふきちょうめい)のような形にできないめでたい言葉を、漢字の音を借りて、形のあるものに現れることがあります。
蝙蝠(こうもり)は、「蝠」が「福」と同じ発音であることから、幸福のシンボルとなるのです。「卍」は「万」と同じ発音です、蝙蝠が卍をくわえると「万福」です。桃は「寿」のシンボル(注>伝説の仙人(仙女 西王母の長寿のシンボルが桃。) )であり、桃をくわえた蝙蝠は「寿福」と意味します。 黄色い龍袍を見てください。 雲間を飛ぶ蝙蝠はどれも紅色(べにいろ)(ピンク色)です。その他にも篆書体(てんしょたい)の「寿」など見慣れない文様が広がっていますが、いずれも吉祥の意味をもつ文様です。
龍袍の裾には大海原が露出され、波の間から四方に山岳が突きでた山があります。この海と山との組み合わせは「海水江牙」と呼ばれ、国家を統一するという意味があります。また、海は宝蔵(ほうぞう)の源であり、それを示すように吉祥の意味をもつ「八宝(はっぽう)」が波の間に漂っています。 八宝、ついでに8つの宝物は、仏教や道教などによっていくつかの組み合わせがありますが、龍袍の波間に漂う八宝は仏教の伝説にもとづく宝物が多く見られます。
八宝>
[1] 妙なる音を出し気運を開く法螺(ほら)
[2] 円転してやまない法輪(ほうりん)=輪廻転生
[3] 人びとを守る宝傘(ほうさん)
[4] 人びとを病気や困難から救う天蓋(てんがい)
[5] 汚泥に染まらない清らかな花を咲かせる蓮華(れんげ)
[6] 福智円満な宝瓶(ほうびょう)
[7] 堅固で邪悪を退ける金魚(きんぎょ)=中国語で魚は利と同じ発音でお金が儲かるという意味もある。
[8] メビウスの帯のように終りがなく長寿を意味する盤長(ばんちょう)
一度、龍袍全体を見てください。袍の大海には岩山がそそり立ち、海から生まれたかのように波間に八宝が見つかり、天は龍をはじめ、吉祥を寿ぐ様の文でいっぱいです。 華麗な色彩と寓意に満ちた龍袍は、中国的な精神世界を表しているのです。
<引用終わり>------------------------------------------
皇帝、皇后の礼服>吉服
皇帝や皇帝など慶祝行事などの宴席で着用する服。ひざから下が「虹のうねったようなデザイン」になっているのが特徴。 皇帝、皇后の吉服は明るい黄色でデザインは似ているが、皇帝の服には皇帝の象徴である弓や斧が刺繍され、女性用は、吉とか喜喜という漢字や鶴、蝶々、こうもりなどの刺繍が入っていることが多い。
皇族、大臣、高級宦官の礼服
一見すると皇帝の吉服に似ているが、斧や弓を刺繍しない分だけ、胸の竜が大きく刺繍されている。龍の爪の数は清朝初期には厳密に守られていたが、清朝中期以降は規律が緩くなり、家臣は5本爪の龍を蟒(まん、うわばみ:爪を持つ龍に似た大蛇)と言い張って蟒袍(まんぱお)として着ていた。 実際には、公式の席では、この礼服の上に、皇族は丸い金龍紋、文官、武官はそれぞれの品位を示す四角い刺繍(補子、ゼッケン)を付けた上着を着ていた。
一般役人、儀礼用の礼服(官服)
清朝後期、西太后ぐらいの時代になると織物製の官服が盛んに作られるようになり、下級役人、儀礼用は官服も、織物で作られるようになった。清朝からアイヌ人に下賜されて日本で見られた官服は日本では蝦夷錦(えぞにしき)・山丹服(さんたんふく)と呼ばれていた。
おおまかにいうと、刺繍製ロンパオは製作に恐ろしく手間がかかるので皇族用、織物製ロンパオは下級役人用という感じだった。
朝服、吉服の色規定>
明黄色(鶏卵の黄身色)>皇帝、皇后、上太皇(生きながら退位した皇帝=実際には乾隆帝しかいない。)、皇太后、皇貴妃
琥珀色> 太子(=ちなみに、皇帝生存中に皇太子(=次期皇帝)を決定すると、他の皇子達は気になるので、清朝中期以降は、生前に皇太子は決定しなかった。)
オレンジ色> 貴妃、皇子
青色> 大臣、役人、宮中上級宦官の龍袍(ろんぱお)は胸の龍の模様が大きいのが特徴
さて、「五爪の龍は、皇帝のみ、四爪の龍は大臣、三爪の龍は、大臣よりも格下がついた」と言われるが、それは明王朝の話で、清朝後期になると、臣下が五爪の龍袍(ろんぱお)でも、龍ではなく蟒(まん、大蛇)と言い張って蟒袍(まんぱお)を着ていた。
皇帝、皇后、貴賓の日常着>常服、便服
皇帝、皇后は、儀式の時だけ、礼服に着替え、それ以外は便服と着られる服を着ていることが多かった。謁見がある時は、一日に何度も着替えていた。例えば黒地に黒で皇族の証の双龍紋が精密に刺繍)で刺繍されている場合が多く、裏地は皇族専用のロイヤルブルー(明るい水色)が多い。「紫禁城刺し(フォービドゥン・ステッチ、フォーセブン・ステッチ、フォービデュン・スティッチ)」という状態のパイル刺繍(現代の高級タオル地と同じ)が施してあることが多く、この刺繍は紫禁城のお姫様の服のみ許された刺繍方法である。
男用か女用の区別> 「龍袍(ろんぱお)」、「蟒袍(まんぱお)」は、男用、女用があり、色、模様が似ている、区別しにくいが、基本的には、股部分まで深い切れ込みがあるのが男用、切れ込みがほとんどないのが女性用とは思えばよい。また、鶴や寿、吉など多く構成しているのは女性用が多い。
皇族用の服の例 > 清王朝、後期(西太后中期)、皇帝の姪クラスか宮女(お手伝い)用の女性用の吉服
皇族の着る服は、紫禁城内の工房で作られ、刺繍するためだけに400人の職人、龍のゼッケンを金の糸で刺繍するためだけに50人の職人が雇われており、1着作るのに平均2.5年かかり、全盛期の乾隆帝の服は5年かかって作っている。清朝後期までは絹糸の生産から染色、製糸まですべてを皇族用に用意していた。作り方としては、皇族の体型を測定してから、一枚の布の決められた場所に、龍専門、模様専門、花専門の人が縫っていく流れ作業だった。南京で作られていた皇族用の織物(雲錦織物)は、主に絹と金箔で作られ、龍文様などの凝った服は一日に5-6センチしか作れないので皇帝用の凝った服は作成するのに10年以上かかったという。清朝後期になると機械織機が導入され、下級役人は機械織物製の官服を着ていた。
化粧、ファッション> 未亡人は、口紅をしない習慣であり、実際、皇太后となった西太后の写真では口紅をしていないのがわかる。 一方、皇太后以下の女性は素顔は宮中の規則で許されなかったので常に礼儀正しく気をつけていた。た、古代より中国では、ほっそりした指が美人とされていたので、爪を2cm程度伸ばすのが習慣となっており、伸ばした爪を保護するのに貴金属製の爪カバーをすることもあった。
服装>
男>満州族の伝統的な髪型である辮髪(べんぱつ)で、清朝初期は、後頭部の一部(10円玉程度の面積)を残して髪を剃り、残した髪を伸ばして三つ編みにするスタイル。 具体的には漫画「キン肉マン」が出てくるラーメンマンの髪型。映画「ラストエンペラー」は清朝末期の話で、映画で、よく見る辮髪(べんぱつ)スタイルは清朝後期のスタイル。 清王朝成立初期は、漢民族は辮髪を嫌ったが、辮髪していない首をぶら下げた辮髪の宣伝隊が、街中を回るようになって、すぐに辮髪スタイルが普及したという。
女>伝統的な満州族の女性の髪形は、両掴頭(りょうはとう)といい、頭の真ん中で髪を両方に分けるスタイル。清朝後期になると、巻いた髪の位置が高くなっていき、宮廷では大拉翅(だいろうし)のようなミッキーマウスの耳のようなカツラを使うスタイルに変化した。清朝では、男は満州族スタイルに従わせたが、女性は満州族スタイルでなくてもよいとされていたので、髪形の規制もゆるかった。
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<法律で定められた清朝の服装規定>
以下の文は、NHKドラマ「蒼穹の昴」公式サイトから引用した。
清朝では『大清会典』(だいしんかいてん)という法律によって、皇族も臣下も、役人として着用する服装は厳しく規定されていた。
宮廷で着用する礼服は「朝袍(ちょうぽう)」と呼ばれていた。明黄色の朝袍は皇帝、皇太后、皇后および皇貴妃のみが着用を許された。皇帝の朝袍には5本の爪を持つ龍やコウモリなどの吉祥文様が刺繍され、龍の服「龍袍(ろんぱお)」とも言われた。
臣下は「蟒(うわばみ:爪を持つ龍に似た大蛇)」の刺繍をほどこした「蟒袍(まんぱお)」を着用しました。
また公式の席では、臣下は蟒袍の上に補服(正確には、褂(ほかい):ブークァと発音、胸と背中に補子(ほし、ブーズーと発音)というゼッケンのような刺繍を付けた礼服)と呼ばれる外衣を着なければならなかった。
さらに皇帝も下も朝珠(ちょうじゅ)と言われる数珠を首から下げ、朝靴(宮廷出仕のためのブーツ)を履き、帽子の上に宝石を付けたキャップを被らなければならなかった。
【大清会典で細かく決められた服装規定の一例】
帽子につける宝石 文官補の図柄 武官補子(ぶかんほし)の図柄
一品官 ルビー 鶴 麒麟(キリン)
二品官 珊瑚 鶏 獅子(しし、ライオン)
三品官 サファイア 孔雀 豹(ひょう)
四品官 ラピスラズリ 雁(かり、ガン) 虎
五品官 水晶 雉(キジ) 熊
六品官 シャコ貝 オシドリ 彪(ひょう:小さな虎)
七品官 金 おおしどり 犀牛
八品官 陰文金メッキ花 うずら 犀牛
九品官 陽文金メッキ花 れんじゃく 海馬
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下級宦官の仕事着> 西太后時代の写真によると、宦官は、豪華刺繍入りのロンパオを着ているが、下級宦官は無地、生成り(クリーム色)の満州服で、自分の給料や先輩宦官に使える用事で仕事着をまかなっていた。映画「ラストエンペラー」では籠をかつぐ宦官は赤い礼服や黒い日常服(中華服)を着ているので、上級宦官は、TPOに合わせて着替えていたのかもしれない。
参考文献>「北京故宮博物院展 紫禁城の后妃と宮廷芸術」図録 セゾン美術館 1997年
12. 皇帝関連の印鑑(国璽)
清二十五寶璽(しんにじゅうごほうじ)とは、乾隆帝が1746年に定めたもの。 それまでは、三十九枚の宝璽が宮廷に存在していたが、十四枚ほどは乾隆帝によって「義に気づいて広くではない」とされたため、瀋陽の倉庫に閉じ込められた。意思決定された二十五枚の宝璽は、国務上実際に使われるという目的以外に、乾隆帝が「大清国が二十五代まで続いてほしい」との願いも込められていた。 そして、乾隆帝以降。二十五宝璽は改められることはなかった。
具体的な写真が見たい場合は、中国故宮博物院のサイトから「二十五寶璽」のキーワードで検索するといいでしょう。
清朝、乾隆帝中期に整理されて新しく作られた25国璽(こくじ)、
皇帝の行政用の印鑑の詳細>
清二十五寶璽(しんにじゅうごほうじ、二十五方御寶)の印面と印の素材
1 大清受命之寶、(白玉製(白色) > 明朝が滅び、清朝が天命を受けた証
2 皇帝奉天之寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) > 皇帝が天命に従う正義という証
3 大清嗣天子寶、(金製) > 天の基準によって清朝が運営するという証
4、5 皇帝之寶 2個、(檀香木製と石製(満州文字のみの印面)) > 勅書と赦免を公布する時に使用。
6 天子之寶、(青玉製(非常に薄い)) >神を祭る文書に使用
7 皇帝尊親之寶、(白玉製(白色)) >皇帝の功徳を為すため称号を決める文書に使用
8 皇帝親親之寶、(青玉製(極めて薄い緑色)) >皇帝が親族を昇進させる時に使用
9 皇帝行寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) > 皇帝が品物を下賜する時に使用
10 時に 皇帝信寶、(青玉製(極めて薄い緑色)) > 皇帝が注目兵する使用法
11 天子行寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) > 皇帝が少数民族を王侯や大臣に封ずる時使用
12 天子信寶、(黒玉製(薄墨色)) > 少数民族地区や所属国に出す勧告書に使用
13 敬天勤民之寶、(白玉製)> 謁見に来た官吏を戒める時に使用
14 制誥之寶、(青玉製) > 5品以上の官員を戒める時に使用
15 敕命之寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) > 6品以下の官員に勅諭を出す際に使用
16 垂訓之寶、(碧玉(へきぎょく)製(黒玉に近い灰色)) > 国家の威力を宣伝する時に使用
17 命徳之寶、(黒玉製(薄墨色))>軍功を称える文書用法
18 欽文之璽、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) > 文化・教育を重視する文書の使用
19 表章經史之寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) > 古訓を崇める文書の使用
20 巡狩天下之寶、(青玉製、淡い緑色) > 皇帝が首都以外の地方を巡視する時に使用
21 討罪安民之寶、(青玉製、淡い緑色)>討伐を公布する時に使用する
22 制馭六師之寶、(黒玉製(墨色)) > 一斉の行動を正す時に使用
23 敕正萬邦之寶、(青玉製、緑灰色) >外国人に知らせる時(外交文書)に使用
24 敕正萬民之寶、(青玉製、うすい緑色、黒の筋入り) > 全国の民衆に知られる文書の使用
25 廣運之寶 (黒玉製(墨色)) > 皇帝が自分で書いたものに対して使用
これらの他に、皇帝の個人用印鑑は多数ある。 同様に、皇帝が見たという印鑑(○○御覧之寶)、皇帝が書いたという印鑑(○○御筆之寶)、等々。
参考文献> 「北京の紫禁城」今日中国出版社
13. 倉庫
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〇 古代中国「殷王朝」後期の場所は、現在の安陽市。
〇字(あざな)と号(ごう)>過去の中国では同輩又は目上の人の実名を口にしたり、その文字を書くことがきわめて不敬なこととされ、人は、他者が自分を呼ぶ時の名前をあらかじめ用意していた。「字(あざな)」は男は「冠礼」という成人式にあたる儀式で、恩師や一族の長老などにつけてもらうものであり、実名の漢字と意味的関係がある文字が「字」に選ばれた。例えば諸葛亮孔明は、「諸葛家の亮」という名前が本名で、亮が明るいという意味なので、「孔(はなはだ)明るい=孔明」となずけられた。つまり、「名前は諸葛亮、字は孔明」という意味。一方、政治的な状況などから、芸能界の芸名のように自分でつけた名前が「号(ごう、屋号などの号)」であり、清王朝を倒した辛亥革命で知られる孫文は、日本に避難時に表札で見かけた中山(なかやま)という性が気に入り、号として、日本名「中山キリ」と名乗っていたのが、現在、台湾などで中山~という名称で残っている。このように実名の漢字であり、使用できない漢字を忌(いみな)といい、例えば唐の第2代皇帝太宗は名前が世民といったので、世と民が使えなくなり、仏教では観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を観音菩薩(かんのんぼさつ)と呼ぶようになった。
〇光緒帝の側室であった珍妃として知られている写真は、別人のものであり、珍妃の写真は存在しない。光緒帝の写真も存在しない。西太后へのクーデターに参加したとされる珍妃は西太后の命令によって処罰され、お付きの宦官、宮女は殺害された。
〇光緒帝の側室で、珍妃の姉の謹妃は、珍妃、光緒帝、西太后、隆裕皇后亡き後、西太后と同じ行動をとったが、溥儀にうとまれ51才で病没。
〇
〇西太后(正確には、慈禧(じき)皇太后、晩年の正式名称はもっと長いが略)は27才で、東太后(慈安(じあん)皇太后)は25才で皇太后(こうたいこう)、次代皇帝の母親になった。東太后は45才まで生きて西太后より早く死んだので、毒殺とも噂されたが実際には脳卒中だったらしい。
紫檀木>木材の紫檀は、中国名で青龍木とも呼び、高級な彫刻材料となり、清宮廷の器物には紫檀で作ったものが多い。
皇帝御筆> 皇帝自身が描いた書や絵を「御筆(ぎょしつ)」と呼び、例えば乾隆帝なら「乾隆御筆」というハンコが押されていることが多い。
印鑑の材料> 印鑑の材料としては田黄、鶏血石が最高級品とされ、田黄は同じ重さの金(ゴールド)に匹敵するとされた。
筆>皇帝用の筆は浙江省の湖州産のものとされた。
秘閣(ひかく)、筆閣>文人が筆で字を書く時に腕を置く道具で、清時代は書斎机を飾った工芸品になった。
堆朱(ついしゅ)> 朱の漆を塗っては乾かし、塗っては乾かしして100回程度厚塗りして、彫刻したもの。 昔は、「漆を厚塗りには時間がかかるので、親が塗って子が彫刻する」くらいのペースで作られていたという。
硯(すずり)>硯の石材は端渓石など「四大名硯」が有名だが、松花江石は中国吉林省の松花江の河畔で採取され、ここは清朝発祥の地であるため、清朝内定の正式硯とされ、産地は立ち入り禁止とされた。実際には、松花江石は硯としては使いづらい、装飾用として陳列されることがほとんどであった。また、高価な玉(ぎょく)製の硯も残っているが、硯として使いにくいので、実際には装飾物だった。
紙> 紙は、筆や硯に比べて出現したのはずっと遅く、前漢時代くらいからであり、秦の始皇帝時代には、文字は木簡、竹簡、絹に書いていた。明清時代の紙は安徽省の宣紙が主流で、紙を加工した紙は蘇州が主要な産地だった。
14. 乾隆帝時代の庶民の生活
以下の情報は、「マカートニー奉史記」筑摩書房、昭和22年発行の文章から。 1792年にイギリス(大英帝国)のジョージ三世は、当時、大英帝国と世界を二分していた中国清王朝の乾隆帝に、ジョージ・マッカートニーを大使として派遣した。マッカートニー大使は、総勢120名以上で約1年間かかって、禁紫城に謁見に行ったものの、中国からは大使扱いではなく、朝貢使扱いにされ、中国皇帝に謁見する際の会談「叩頭の礼(土下座して頭を9回地面にこすりつける)」を巡って対立したあげく、結局、一行は目的を果たせずに帰国した。 著者アンダーソンは、軍艦ライオン号(当時は帆船)の航海士で、大使一行に同行した際に、詳細に記録を残し、後年、見聞録が1795年に英語で出版された。約210年前の清王朝時代の治安を知る上で貴重なものである。
○パン> 小麦粉を練って、蒸気で蒸すだけの「蒸しパン」というか饅頭。 酵母を使ったり、窯で焼いたりしない。
○肉に対する感覚> 動物の肉なら何でも、あぶって食べる。
○髪型> 男は、後頭部の一部を残して、すべて剃っていて、長く伸ばした髪を編んで、その先をリボンで結んでいる。
○服装> 昔は、カラフルな服を来たのは、貴族以上で、庶民は男女も同じような生成りの服を着ており、髪型(辮髪)と足(纏足)で男女を見分けていた。
○女性の足を纏う足(てんそく)について> 清王朝は、北部の少数民族である満州族によって成立したので、中国の伝統である纏足の習慣はなく、度々、禁止令が出ていたが、効果はなかった。
○お茶>茶畑はたくさんあったようだが、高価であり、庶民は口にすることはなかった。
○芝居>芝居の舞台に女性は出られなかったので、女型は、宦官(かんがん)が演じていた。
○庶民の食事>肉は細かく刻み、根菜や葉物と一緒に油で揚げて、醤油や酢をかけて食べるのが基本的なおかずで、毎回同じものを食べる。みんなが車座に座って、櫃からご飯を自分の茶碗にとって、油であげた野菜をおかずに、がつがつ食べる。これ以上のごちそうは、精進日や祭りでしか食べられなかった。
○おやつ>当時の庶民の一般的行動かどうかわからないが、夕方になると裸になって、服にたくさんついたノミやシラミを、そのまま、おやつがわりにおいしそうに食べていた。
○コメの炊き方> コメを、よく洗った後お湯に入れて、ふやかした後、皿にのせて上から蓋をして放置。 そうすると表面が乾燥してカリカリになるので、この状態でご飯として食べる。
○建物>ガラス窓はほとんどなく、窓の木格子には、礬水紙(どうさし、ニカワとミウバンを溶かし込んだ液を紙にしみこませたもの)が貼ってあり、上流家庭は絹を貼っていた。
○刑制度> 重大犯罪では、最後の裁定権は皇帝にあった。
○墓関係> 棺はすべて寸法が決まっていて、非常に長くて重く、蓋は紐で括り付けた。棺は棺が隠れる程度に浅い場所に設置した。 大きな都市では共同墓地が存在し、田舎では人が死ねば屋敷の一角に、屋敷を持たない庶民は死んだ場所に埋葬し、金持ちは、生前に自分用の墓(棺が入るサイズ)を準備していた。
○街の乗り物> 上流家庭は人が運ぶ担ぎ(こし)。お金持ちは馬やロバが引張る幌車。
○乾隆帝の円明園での様子>皇帝の輿は、20人で担ぐ。 皇帝ということで特別な目印やバッジをつけているわけではない。家臣(下級役人)の着ている服は、いつでも同じ物(青色の服が基本で、帯はいつも腰に巻いているが、宮中は帯はせずに、だらりと自然に垂れたまま。)であり、TPOに応じて交換する訳ではない。
○タバコ> この時期、喫煙は、子供から大人まで行われており、タバコが伝染病の予防効果を持つと信じていた。
○水>黄河の水は、不純物が非常に細かく、相当の砂を含んでいるが、当時の庶民は、この水をそのまま飲んだり、料理に使っていた。
○昔の香港、広州あたりのシナ人の気質について> 他の地域のシナ人と比較すると正直さという点で、まるで違う、「極度に破廉恥」。
○奴隷制度>外国から奴隷を買う奴隷制度は存在せず、シナ人同士で奴隷関係にある。
参考文献> 「マカートニー奉使記」 1947年刊行 筑摩書房
15. ラストエンペラー 愛新覚羅 溥儀関係の年表
1835年 西太后誕生
1871年 光緒帝誕生
1874年 レジナルド・ジョンストンがスコットランドで誕生
1883年 さいてん(光緒帝の弟、溥儀の父親)誕生
1906 溥儀、婉容(溥儀の皇后)誕生
1908年 光緒帝(享年37才)、西太死後去(享年73才)、溥儀2才で皇帝に即位
1912年 辛亥革命によって、6才で清朝皇帝を退位(袁世凱が革命派と取引して自分の大総統就任と交代に、紫禁城内だけで清朝が継続するという提案をした。)
1915 宮中のいざこざから溥儀(当時9才)の乳母が紫禁城を去る。
1919年 ジョンストン(45才)から英語を学ぶ(13才)
1917 清朝軍人だった張勲の取り組みによって再び清朝皇帝に贈られるが12日間で終了
1920 譚玉齢誕生(溥儀の3番目の妻)
1922 溥儀、16才で、婉容(溥儀の皇后)、文繡(第二夫人)と結婚
1924 謹妃(光緒帝側室)自害。溥儀、紫禁城を追われる。 李淑賢誕生
1925 紫禁城が故宮博物院になる。溥儀が天津日本租界に移るのをきっかけにジョンストン帰国。
1928年 李玉琴誕生
1931年 文繡離婚を決意
1934年 28才で満州国皇帝就任
1935年 一回目の訪問日(29才)
1937 溥儀、31才で譚玉齢と結婚
1938 ジョンストンがスコットランドで死去(享年64才)
1940 第2回目訪問日(34才)
1942 譚玉齢、病気で死去(享年22才)
1943 溥儀、37才で、李玉琴(溥儀の4番目の夫人)と結婚
1945年 39才で満州国皇帝を位退し、ソ連軍に拘束される、以後、5年間ハバロフスクで拘留生活、李玉琴は離婚を表明
1946年 婉容 アヘン中毒の果てに延辺で死去(享年40才)
1950 44才で撫順戦犯管理所に入り、以後9年間拘留生活
1953年 文繡 平民となって餓死に近い状態で死去(享年44才)
1959 特赦で釈放(53才)、北京に戻る
1960年 北京植物園に配属(半日労働、半日学習)
1962 溥儀、56才で李淑賢(溥儀の5番目の夫人)と結婚
1964 溥儀、腎臓障害
1966年 文化大革命が始まる
1967 溥儀、北京で腎臓関係の病気で死去(享年61才)
1997 李淑賢 死去(享年73才)
2001 李玉琴 長春で死去(享年73才)
参考文献>「溥儀 変転する政治に翻弄された生涯」、日本史リブレット人099、山川出版社
この本には、溥儀による伝記「わが半生」は、3種類存在して内容が極めて異なっていると記述されている。
16. 文学、映画、ドラマで詳しく知る
< 紫禁城の詳細、歴史を知りたい >
以下の51冊の中で特におすすめの本→ ●「北京の紫禁城」今日中国出版社
>本200ページのうち、120ページが紫禁城内のカラー写真で、各部の写真満載、故宮博物院の職員が記述しただけあって、解説も詳しく、とても便利な本。
1● 「紫禁城史話 中国皇帝政治の檜舞台」 中新書 中央公論新社 (777円)
>清朝の歴史が詳しく分かりやすく書かれた良い本。
2 ● 「紫禁城散策いろいろ事始め」 凱風社 (1800円)
>故宮博物院内の個々の場所ごとに、わかりやすい文章で解説してある。
この本は、現在は「北京故宮散策事始め」と改題して出版されている。
>皇帝服を着た袁世凱の写真
3 ● 「中国世界遺産の旅 1 北京・江北・東北」 コンセプト 5695円
>紫禁城、万里長城、皇帝陵墓、頤和園(いわえん)の写真がいっぱい。
<清朝、中国の歴史が知りたい>
4 ● 「NHKスペシャル 故宮至宝が語る中華5千年」 NHK出版
>中国の先史時代から清までの宝物をわかりやすく解説。
5 ● 「横山光輝作の漫画中国シリーズ」
>歴史順というと、「殷周伝説(殷、周時代)」、「史記(周~秦~漢)」、「項羽と劉邦(秦~漢)」、「三国志(魏、呉、蜀)」の順。個人的には「史記」をお勧め。
6 ● 「素顔の西太后」 東方書店 (1500円)
> 西太后の女官として2-3年仕えていた人による本。
7 ● 「西太后汽車に乗る」 東方書店(1890円)
>西太後が汽車で奉天に先祖参りした際の記録。汽車で、毎食100皿の西太後の食事を作るために、50台の「かまど」を車両に設置し、150人(かまど1台につき3人)の料理人を列車に乗せていたなど、面白い描写があった。
8 ● 「西太后 大清帝国最後の光芒」 中公新書 中央公論新社 (800円程度)
>悪女と記述されることが多い西太后の生涯を、多くの資料(約60点)を元に客観的な視点から詳しく記述している。
9●「西太后秘話 その恋と権勢の生涯」東方書店
>西太后及び宦官 李連英の生涯を中心に記述。
10 ●天子―光緒帝悲話 (単行本) 徳齢(著) 東方書店
>西太后の女官として勤めた著者が、「世間で言われているほど光緒帝は無能ではなかった」ということを主張するために書いた本。
11●雍正帝―中国の独裁君主 (中公文庫) (文庫)
>著者の思い入れが強すぎて辟易。
12 ● 「乾隆皇帝」 二玄社
>乾隆帝時代の政策、工芸、建築など詳細に紹介。38ページにおぶ白黒写真、四庫全記録目録などが充実。
13 ●最後の宦官秘聞 ラストエンペラー溥儀に仕えて NHK出版 2520円
宦官として宮廷にいた人から見た宦官の日常。
14 ● 「溥儀1912-1924 紫禁城の廃帝」 東方書店 (2300円)
>中国最後の皇帝(ラストエンペラー) 愛新覚羅・溥儀の退位後、紫禁城を追い出されるまでの日常と写真。
>珍妃、姉の瑾妃(台湾の故宮博物院の有名な白菜の玉の持ち主)の写真。光緒帝の皇后隆裕太后(西太后の姪)の写真。
15● 「中国文明史図説10 清 文明の極地」 創元社 (3200円)
>写真が豊富で清朝全般を浅く広く学ぶには良い本。
16 ● 「乾隆帝の政治の図像学」 文春新書 文藝春秋 (840円)
>後半は著者の専門に偏っている感じ。
>香妃の肖像画3枚
17 ●食在宮廷(食は宮廷にあり) 学生社; 増補新版(1996/06) 2500円~
>ラストエンペラー溥儀の弟、溥傑に嫁いだ日本人女性(愛新覚羅 浩)による宮廷料理の紹介(作り方)と宮廷の生活の紹介。
<皇帝の宝物を精密写真で見たい>
18 ● 「紫禁城の女性たち」 中国宮廷文化展図録 1999年
>宮廷の皇后、皇貴妃たちの装飾具の写真がいっぱい。
19 ● 「北京故宮博物院展 紫禁城の后妃と宮廷芸術」図録 セゾン美術館 1997年
>いろいろな皇帝服、皇族服、宮廷の宝物。
20 ● 『ドラゴンの解読:清朝時代の中国における身分衣装』、オレゴン大学出版、1983年
「龍袍(ろんぱお)」、「蟒袍(まんぱお)」が120点(カラー50点)の写真で紹介。宮廷衣装に関してはこれが最も詳しい。
21 ● 「中国服飾五千年」 商務印書館 学林出版社 共同出版 (中国語の本)
>秦から近代までの中国の服の変遷を多彩な図と写真で紹介。
22 ● 「図録 西太后展」
>西太后の身の回り、食生活、美容道具など。
23 ● 「図録 北京故宮博物院展 清朝末期の宮廷芸術と文化」 2006
>清朝初期、西太后、溥儀の日常の生活用品や宮廷服を紹介。
24 ● 「故宮博物院展 紫禁城の宮廷芸術」図録 西武美術館 1985年
>宮廷、誕生日の絵巻、仏教関係がメインで宝物は少ない。
25 ● 「改訂版 国立故宮博物院案内」 郁朋社 (2940円)
>、書、絵、陶磁工芸器など一品ずつ解説。
26● 「別冊 太陽台北故宮博物院」普通社 (2625円)
>新石器時代から清まで宝物を紹介するとともに、国立故宮博物院時代について紹介。
27 ●「故宮博物院秘宝物語―中国四千年の心をもとにして」淡交社 450円~
>故宮博物院の宝物の背景を詳しく文章で解説。例えば有名な本「蘭亭序」の創作の背景など。
28 ●「これだけは知っておきたい故宮の秘宝」二玄社 (2100円)
>故宮博物院の宝物の背景を詳しく文章で解説。
29●芸術新潮 2007年01月号[雑誌] (雑誌) 台湾国立故宮博物院特集
>前半は故宮の宝物特集。主に書画に偏っている感じ。後半は、故宮と関係なく一般の記事。
>綺麗な書体で刻印された「乾隆帝の皇帝印の写真」は貴重。
30 ●故宮博物院14 工芸美術 NHK出版 (2063円)
>人間の技とは思えないような宝物を大きな写真でたっぷり紹介。
31●故宮博物院15 乾隆帝のコレクション NHK出版 (2000円~)
>稀有の宝物コレクターだった乾隆帝に絞って、コレクション品を大きな写真で紹介。
32 ● 「図録【紫禁城永久の秘宝北京故宮博物院展~日中平和条約締結10周年記念~】昭和63年/西武美術館」西武美術館発行/'88年
>乾隆帝の金の御璽(ぎょじ)。今風に言うと印鑑、印章。
33 ● 「図録日中国交正常化10周年記念 北京・故宮博物院展」西武美術館、朝日新聞社 1982
>万遍なく記述してある。
34 ● 「図録 日中国交正常化20周年記念 紫禁城の至宝 北京故宮博物院展」東京都・東京ルネッサンス推進委員会 1992
> 皇帝の玉璽、雍正帝の各種コスプレ図、象牙を編んだゴザ。
35 ● 「文物光華 -故宮の美- 国立故宮博物院中華民国80年」 台湾国立故宮博物院発行(日本語)1985
> 台湾の故宮博物院発行。書、絵画、印の解説に注目をおいた感じ。
36 ● 「図録 故宮開院70周年記念 北京故宮博物院名宝展 紫禁城と中国4000年の美の秘宝」 東京富士美術館 1995
>美しい刺繍を施した宮廷服のクローズアップ写真。
37 ● 「図録 日中国交正常化40周年記念 地上の天宮北京・故宮博物院展」 20 11
>清朝、西太后あたりの日常の生活用品や宮廷服を紹介。
38 ● 「図録 北京故宮博物院 清朝宮廷文化展」 日中友好会館 1989
>皇帝が生活していた養心殿の詳細、筆、墨、硯。
39 ● 「名古屋城天守閣復元30周年記念図録 北京故宮博物院 清朝宮廷文化展 」 名古屋城天守閣展示場 199 0
>皇帝が生活していた養心殿の詳細、筆、墨、硯。
40 ● 「世界の博物館21 故宮博物院 紫禁城と中国4000年の文物」 安全 1978
>すごい文物というのは少ないが、陶磁器などが作られた背景などの解説が豊富です。
41 ● 「図録 故宮織選抜卒」 中華民国国立故宮博物院出版 1973
> 絵画、掛け軸と間違えるほど精緻な織物と刺繍の作品集。
42 ●中国陶瓷見聞録 ダントルコール東洋文庫(景徳鎮、官窯という史実か統計)
>立ち読みした程度ですが、漢文みたいでお勧めしない。
43 ●「北京の紫禁城」今日中国出版社
>本200ページのうち、120ページが紫禁城内のカラー写真で、各部の写真警戒で、故宮博物院の職員が記述しただけあって、解説も詳しく便利な本。
444●「マカートニー奉使記」 1947年刊行 筑摩書房
>西暦1790年代にイギリス大使として乾隆帝を訪問した人物の日記。
45 ●紫禁城 The Forbidden City (写真集) 紫禁城出版社
>豊富な写真とともに少しずつ説明が載っている。
46 ●「図説 北京3000年の悠久都市」 河出書房新社
>建築が本体だが、紫禁城時代から毛沢東時代までの変遷を解説。
47 ●映画「ラストエンペラー」
>この映画が中国、清王朝時代に興味があって、きっかけになった。 最近は、ブルーレイ版も販売している。
48 ●中国製作「ラストエンペラー」
>当時の宮中の生活の様子、人々の服装、西太后晩年の呼び方「老仏爺(ラオフイエ)」で呼ぶなど忠実に再現している。
49 ●映画「真説西太后」
>この映画も、おおまかに歴史に忠実に描いている。西太后の若い時期がテーマ。
50●「チャイナドレス文化史」
>清朝崩壊以降のチャイナドレスの変遷が詳しい。
51 ●「溥儀 変転する政治に翻弄された生涯」、日本史リブレット人099、山川出版社
>歴史学者が書いた本なので、歴史的にほぼ完璧な記述。 正確な清朝末の歴史を知るにはいい。
17. あとがき
映画ラストエンペラーで中国の皇帝に興味を持ち、その後、旅行で北京の故宮博物院に行った事で、中国最後の清王朝の生活、文化、服装に魅了されました。これまでに、北京2回、上海1回、西安2回、桂林1回、蘇州1回、香港2回、中国圏という意味で台湾2回、シンガポール2回行きましたが、味わい深く良い所でした。
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漢字の倉庫> 嘉慶帝(かけいてい)、光緒帝(こうちょてい、こうしょてい)、順治帝(じゅんちてい)、道光帝(どうこうてい)、咸豊帝(かんぽうてい)、同治帝(どうちてい)、宣統帝(せんとうてい)、康熙帝(こうきてい)、雍正帝(ようせいてい)、乾隆帝(けんりゅうてい)
「古代エジプトの世界」を楽しむ
楠本慶二 著
永久掲載、更新停止。消さない事。何度も復活させた。
はじめに>
個人の趣味として、古代エジプト関係(主に古代エジプト人の生活)の情報を集約。古代エジプト関係の本、動画など、約80資料から選び出した知識の集合体。
古代エジプト時代は、ピラミッド時代、ツタンカーメン時代、クレオパトラ時代が、ごっちゃに語られることが多く、多くの人は時間軸があやふやになっていることでしょう。ピラミッド時代、ツタンカーメン時代、クレオパトラ時代は、それぞれ1000年の隔たりがあり、ツタンカーメン王時代に「ピラミッドは太古の遺物」との記述があるほど時代が離れており、巨大ピラミッド作りを一生懸命やったのはクフ王時代あたりからの約500年間というのが真相。ツタンカーメン時代は、古代エジプト文明が栄えたあたり。クレオパトラ時代はギリシャ系王朝で、ローマ帝国の属州になる寸前の古代エジプト文明の最終段階という感じ。
古代エジプト文明は、270-500万人程度の人口規模で、紀元前3000年頃から古代ローマ帝国に征服されるまで、3000年間、王国時代が続きました。古代エジプトは日本の3倍の面積があるが、大部分は砂漠で人間が住めるのはナイル川周辺のみ、面積は北海道より狭いとされています。テレビの影響のせいか、日本には古代エジプト好き人間が多く、推定100万人以上の古代エジプトファンがいるそう。
目次>-----------------------
1 古代エジプト関係の歴史年表
2 ツタンカーメン、黄金のマスク
3 ピラミッド関係
4 古代エジプト関係の知識
5 お勧めの古代エジプト本のリスト
5.1 古代エジプト関係の動画>
5.2 古代エジプト全般の本>
5.3 ツタンカーメン関係の本>
5.4 ヒエロ・グリフ関係の本>
5.5 古代エジプト関係の本>
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1. 古代エジプト関係の歴史年表>
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30万年前 アフリカ、ボツワナあたりで突然変異?で、現人類の祖先が誕生し、気候変動によって樹上生活から地上生活を余儀なくされ、ライオンなどの肉食動物から逃れるために、走ること、手を使うことを覚える。
先王朝時代 下エジプト地域(ナイル川下流、ファイユームA文化、メリムダ文化、ゲルゼー文化)、上エジプト(ナイル川上流、ターサ文化、バダリ文化、ナカダI文化、ナカダII文化)
紀元前9000年頃(B.C.9000年、約1万1000年前) 現在のイラクあたりで、シュメール人によってシュメール文明が成立
新石器時代(紀元前5000年頃) ナイル川中流ナカダ地区(ルクソールから見て真北方向、ナイル川を越えた西岸あたり(街クスの対岸)、ナカーダ、英語で書くとNaqada)で文明(ナカダ文化)が発達し、その後、エジプト全域に広がった。
紀元前3500年頃(約5500年前) 現在のイラクあたりで、古代メソポタニア文明が成立。
古代メソポタニアではライオン(獅子)が守り神とされており、この発想がエジプトのスフィンクスや、獅子、沖縄のシーサー、神社の狛犬に影響を与えているといわれている。
紀元前3000年頃(約5000年前) 初期王朝時代 ナルメル王(=メネス王)が王朝を統一、メンフィスに都を定める。
この時代、すでにヒエロ・グリフの原型が完成していた。一年を365日とする民衆暦を採用する。デン王の頃に、上下エジプト王の称号の使用がはじまる。ペルイブセン王時代ごろにオシリス神話が誕生。この頃のヨーロッパは狩猟社会だった。ナイル川周辺は、上流は急流地帯、下流は外国勢が地中海を渡って襲う事もなく、ナイル川西岸は砂漠地帯、ナイル川東岸は沼地と砂漠があり、外国から侵略しにくい地形なので、古代エジプト文明が5000年に渡って継続し、ナイル川の氾濫によって自然に毎年、豊かな農地が出来るので、ヒマな時に農民はピラミッド作りを行う事が出来た。王朝統一前は都市毎に守護神がいて、王朝の変遷とともに国家の守護神は変化していった。
BC2680年頃 王=神とされ、絶対王権が確立 第3王朝ジュセル王が宰相イム・ヘテプ(イムホテップ)に命じ、サッカラに階段ピラミッド(三角ピラミッドの先祖)を造営
紀元前2550年頃(約4550年前) 古王国時代(第3-8王朝時代) 第4王朝 ギザの三大ピラミッド建造(クフ王、カフラー王、メンカウラー王)
ギザの大スフィンクスも、このころ建造(顔はカフラー王とされるが、現在では、スフィンクスの立地状態から見て、三大ピラミッドよりも古い時期に建造されたという説もある。)
ピラミッドは墓ではないとされるが、周辺にクフ王の親族、臣下の墓が多数あるのは事実であり、ギザ周辺にも90以上のピラミッドが存在しており、この時代は王=神なので、「神は死なない」ということで、ピラミッドは神殿の一部かもしれない。大まかには、クフ王の大ピラミッドが最も北側にあり、王朝が更新されるに従ってピラミッド群は南下(ナイル川上流方向)して建造されている。当時の人口は、約500万人程度と考えられており、現在の日本の大都市ぐらいの人口で、ピラミッドや高度な調度品を作製していた。この時代、来世を生きられるのはファラオのみと考えられており、庶民はピラミッド建設に協力することで、永遠の命にあやかりたいと考えていた。この時代、すでに官僚組織が出来上がっており、1600以上の称号が存在していた。
BC2500年頃 太陽神ラーの信仰が盛んになり、太陽神殿が造られる。
BC2300年頃 エジプトの砂漠化が始まる。
BC2040年頃 中王国時代(首都 リシュト) テーベのアメン神と太陽神ラーが習合し、アメン・ラーとして国家神となる。
この時代になるとファラオの権力も地に落ちて、庶民も来世を生きる事を望むようになった。
BC2000年頃 第12王朝アメン・エムハト一世 即位。この頃、青銅がメソポタミアからもたらされる。
第13王朝は、約150年の間に70人の王が即位したらしい。
BC1700年頃 アジアから異民族のヒクソス(ヒクソスは異民族の支配という意味のギリシャ語)が侵入し、異民族王朝が成立(第15、16王朝)。馬、戦車がもたらされる。
BC1570年頃 新王国時代 第18王朝 テーベのアアフメス王がヒクソスを駆遂、王都をテーベ(現在のルクソール (アラビア語)、古代エジプトはワセト、テーベはギリシア人がギリシアの有名な都市国家、テーバイにちなんで呼んでいた)とする。
この頃から王墓と葬祭殿が分離して造られるようになる。エジプトでガラス製品が作られるようになる。
BC1520年頃 トトメス1世が王家の谷に墓を作る。(「王家の谷」は、ヒエロ・グリフを解読したシャンポリオンが名づけた。有名ではないが、「王妃の谷」、「貴族の墓」というのもある)
BC1479年 ハト・シェプスト女王 即位(20年ぐらいの治世)
この時代ぐらいになると、王も墓を用意して、来世で生前と同じ生活が出来るように準備している。ハト・シェプスト女王は、王位を奪ったトトメス3世が成長すると、王座から降ろされて晩年の様子は不明。この時期にガラス製品がエジプトにもたらされ、その後、王宮付属の工房でのみ生産される。
BC1420年頃 伝説によるとギザの大スフィンクスが、後のトトメス4世(8年ぐらいの治世)の夢に出てくる。
「私を砂から掘り出したら、お前を王にしてやろう」と告げ、実際に掘り出すとスフィンクスが発見されて、トトメス4世は実際に王になった。いわゆる「夢の碑文」。ちなみに、ギザの大スフィンクスは、砂漠の端に建造されており、過去に何度も砂に埋没している。
BC1360年頃 第18王朝 アメン・ヘテプ4世(アメン・ヘテプとは「アメン神は満足する」という意味の誕生名。17年ぐらいの治世)が宗教改革を断行。
アメン神を廃しアテン神を国家神としてアマルナに遷都。自身の名前もアクエン・アテン(アテン神に有益なものという意味)に改名。ちなみにアメン・ヘテプ3世は自分の等身大や巨大な彫像を1000体以上作らせたという。
スメンク・カー・ラー王即位(3年ぐらいの治世、現在ではスメンク・カー・ラーはアクエン・アテンの妻、ネフェル・ティティが女王になった時の即位名といわれている。)
BC1350年頃(3350年前) 第18王朝 ツタンカーメン王 即位
ツタンカーメンは、アクエン・アテンの子どもで、アクエン・アテンと王妃ネフェル・ティティとの6人の娘の一人、アンケセ・ナーメン(ツタンカーメンよりも2才年上)と結婚した。当時の人々の平均寿命は栄養失調のために22才。アメン信仰を復活させ、メンフィスに遷都。
アイ王即位(4年ぐらいの治世、アイはネフェル・ティティの父親)
軍の総司令官であるホルエムヘブが即位
軍の総司令官パラメセスがラムセス1世として即位。
BC1279年頃 第19王朝 ラムセス二世 即位
ラムセス二世は、66年10か月、エジプトを統治し、7人の王妃と多数の側室を持ち、92人の王子と、106人の王女がいた。ラムセス二世の亡き後、13番目の王子メルエン・プタハが即位。ちなみに、旧約聖書で出てくるファラオは一般にはラムセス二世と呼ばれることが多いが、メルエン・プタハの遺体は溺死したような形跡があるので、聖書の記述が真実と仮定すればメルエン・プタハ王の時代と推定されている。ラムセス二世はカデシュの戦いでヒッタイトに勝利したような壁画を残しているが実際は負けに近く、その後、大きな軍事遠征はしなかった。
BC1275年頃 モーゼ(モーセ)に率いられてヘブライ人がエジプトを出る(旧約聖書中のいわゆる「出エジプト」)
BC1070年頃(3000年前) 末期王朝時代 第22王朝 リビア系の王が下エジプト(カイロ地域)を支配 、首都ブバスティス
この時代は、宮廷内の権力闘争や外敵の侵入が続き、政情が不安定&墓泥棒が横行したので、立派な墓は作られず、秘密の墓に大人数のミイラがまとめて埋葬されるようになり、昔は墓の壁面に描かれていた模様は人型木棺の表面に描かれるようになっていた。
この時代頃からファラオ(大きな家という意味、日本で大家さんと同じ感覚)という言葉が登場する。
BC751年頃 第25王朝 ヌビア(現在のスーダン付近、古代エジプトではクシュと呼んだ)の王がエジプトを統治 、首都テーベ
BC664年頃 第26王朝 首都サイス アハメス王即位
アハメス王は、早朝の数時間、政務に集中し、昼からは遊んで暮らしていた。記録によると「一日中、仕事のみしている人間は、やがて狂うかアホになるのを見てきたので、仕事と遊びを使い分けているのだ」と語っていた。
BC500年頃 第27王朝 アケメネス朝ペルシア時代 ヘロドトスがエジプトを訪ねて、ピラミッドの記述をする。
ヘロドトスの時代においてもピラミッドは2500年経過しており、日本でいうと日本の建国神話を語るぐらいの古さ。
BC404年頃 第28王朝 首都サイス
BC400年頃 第29王朝 首都メンデス
BC332年頃 マケドニアのアレクサンドロス大王(アレキサンダー大王 、アレクサンダー3世)に征服される。ヘレニズム時代、ギリシャ系国家、首都アレクサンドリア、マケドニア王家
BC305年頃 アレキサンダーがバビロンで33才で病死すると彼の帝国は分割統治されるようになり、エジプトはアレキサンダー系の将軍 プトレマイオス(ギリシャ人)が王(ファラオ)となる。プトレマイオス朝時代。首都アレクサンドリア(アレキサンドリアという名前の都市は当時20以上あったが、エジプトのアレキサンドリアが最も繁栄していた。)
BC196年頃 ロゼッタ・ストーンが刻まれる。(ロゼッタ・ストーンは黒の玄武岩に刻んだもの)
BC30年頃(2000年前) 古代ローマ帝国の属州となる。
古代ローマ帝国のオクタヴィアヌスにアレクサンドリアを占領された後、クレオパトラは自害。クレオパトラは「父の栄光」という意味で、ギリシャでは一般的な姓。エジプトのファラオ時代は終了。この頃には古代エジプトの宗教的思想、ミイラに施す模様の意味が、すでに理解不能な状態になっており、「ただの伝統的模様」となっていた。この時代、仕事の都合で出身地を離れて暮らす人も多く、出先で死亡した人はミイラにされて故郷に戻るようになり、ミイラに死者の名前、両親の名前、出身地などを記したラベルをつけて運搬されていた。古代ローマ帝国は人口の増加によってナイル川デルタ地帯の豊かな穀倉地帯に目をつけており、エジプトの属国化を狙っていた。
西暦0年--------------
350年頃 アレクサンドリアで著名な女性天文学者 ヒュパティアが生きていた時代。
「映画 アレクサンドリア」で当時の様子が描かれている。この頃からヒエロ・グリフが死語となり、だれも分からないようになる。
395年頃 ビザンツ帝国領になり、エジプトは東ローマ領となる。この頃にミイラ作りの伝統が終了。
642年頃 イスラム軍が侵入し、カイロを首都と定める。エジプトのイスラム化
820年 アッバース朝の第7代カリフ(=太守) アル・マムーンがクフ王のピラミッドを探検(その時開けた穴は現在、観光客の入り口)
クフ王のピラミッド内部で財宝は一切見つからず、アル・マムーンは、財宝を別の場所から調達して見つかったようにふるまったという。
1000年頃 イスラム教徒が寺院建設の材料にするために、ギザの三大ピラミッド表面の白い化粧岩をはぎとりはじめる。
1303年頃 大地震が起きて、ピラミッドの外壁が大幅に崩壊。
イスラム教徒が寺院建設の材料にするために、ギザの三大ピラミッド表面の白い化粧岩をはぎとる。(現在のピラミッドの外観になる)
1790年 フランス人学者 ジャン・フランソワ・シャンポリオンが「フランスのフィジャック」にて本屋の7番目の子として生まれる。
1798年 ナポレオンのエジプト遠征
1799年 ナポレオンのエジプト遠征中にエジプトのロゼッタ(街の名前、現在はアル・シラードという名前)にて、ロゼッタ・ストーン(石碑の一部で、ヒエロ・グリフの解読には20年かかった。)が発見される。この石はもともとはデルタ地帯のサイスという街にあったものだが、船のバラスト(おもり)として利用され、港町ロゼッタで廃棄されたと考えられている。ロゼッタ・ストーンはナポレオン軍の要塞の工事中に将校によって発見されたが、その後、戦利品としてイギリスに移り、現在、大英博物館にある。
1819年 ルクソール神殿のオベリスク1本がフランスに寄贈される(パリのコンコルド広場のオベリスク)
1822年9月14日 フランス人学者 ジャン・フランソワ・シャンポリオン、失業中にロゼッタ・ストーンをきっかけにヒエロ・グリフの解読に成功
1832年 フランス人学者 シャンポリオン、コレラで逝去 (享年41才)
1866年 第5代カーナボン伯爵 生まれる。カーナボン卿とは爵位の名称(貴族の称号)で、本名はジョージ・ハーバート。
1874年 ハワード・カーター(Howard Carter)、イギリスのケンジントンに生まれる。9人兄弟の末っ子。父は優秀な動物専門の画家。
1890年 考古学者 ニューベリー教授が18才のカーターを連れてエジプト調査する。
1907年 カーナボン卿、カーターのスポンサーになる。
1922年 ハワード・カーター49才でツタンカーメン王墓を発見 (90年前)
10月28日 ハワード・カーター ルクソールに到着
11月4日 ツタンカーメン王墓の入り口を発見
11月26日 ツタンカーメン王墓の中身をはじめて確認。1925年に棺が開けられるまで、副葬品の移動、記録、保存、包装作業に時間がかかった。
1923年 4月5日 カーターのスポンサー カーナボン卿 蚊にさされたのが原因で死去(享年56才)
相続税を支払うために、カーナボン卿のエジプト・コレクションの大部分はニューヨークのメトロポリタン博物館に売却される。
1925年 11月11日午前9時15分 ツタンカーメン王 約3500年の闇の中から再び光の世界に現れる。
カーターは1700点をこえる出土品を十分な学問的観察を加えながら記録にとり、10年かかってカイロのエジプト博物館に収めた。
1932年 カーター 英国に帰国 独身を通し、ツタンカーメン関係の学術報告書作成に専念する
1923、1927、1933年 ハワード・カーター 発掘の報告書を出版 「The Tomb of Tut-Ankh-Amen」, London
1939年 ハワード・カーター死去(享年66才)(73年前)
カーターは、カーナボン卿の娘、イブリンとのロマンスも噂されたが、一生独身を通し、生前は公式に表彰されることもなく、ツタンカーメン王の墓の発見という名誉以外、高級住宅街に住んではいたが、たいした財産もなく、ガンで亡くなった(自宅2階で、タンが絡まり亡くなった状態で発見されたという説もある)。葬儀の際の参列者もわずかだったという。 母国イギリスでは、ツタンカーメン墓の発見者としてはカーナボン卿のみ(実際、墓発見当初はカーナボン卿の所有物扱いだった)が評価され、カーターはアメリカで評価されてアメリカで講演活動を行っていた。
ちなみに、ハワード・カーターのお墓は、ロンドン郊外 ウインブルドンの近く、パットニー・ヒース(Putney Heath)地区、パットニー・ベール・セメタリー・アンド・クレマトリウム(Putney Vale Cemetery and Crematorium)という墓地にあり、畳一畳ぐらいの大きさしかない。
カーターは、ツタンカーメンのミイラの博物館への移動に断固反対し、現時点でツタンカーメンは自分の王墓で眠っている唯一の王。この時代は、エジプトは完全にイスラム化しており、イスラム教では偶像崇拝は禁止されているので、古代エジプト時代の遺物は、エジプト古物商の店頭に、お土産品として販売されていた。
1941年 ツタンカーメンのマスクのヒゲ部分がマスクと接着される。
墓の発見当時はヒゲはとれており、1941年までは別々に展示されていた。
1944年 マスクのヒゲ部分が外れて修復される。
1965年 ツタンカーメンの黄金のマスク来日 「ツタンカーメン展」 東京国立博物館、朝日新聞社
ツタンカーメンの黄金のマスクなど、特に貴重な物は、飛行機の墜落、船の沈没などの事態を想定して、現在ではエジプト国外に貸し出される予定はないという。
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2. ツタンカーメン王、黄金のマスク
ツタンカーメン王の概略>
ツタンカーメン王(墓番号KV62、正式な発音としてはトゥト・アンク・アメン王。英語ではTut-ankh-amun。ツタンカーメンとは、Tutan-khamunと、区切るところを間違って読んでいることに由来している。英語では、King.Tutとか、Tutankhamunと記述されている場合が多い)は、紀元前1323年頃(3300年前)の古代エジプト第18王朝の王。ちなみにツタンカーメンとは「アメン神の生きた姿」という意味で誕生名。即位名としてはネブ・ケペル・ウー・ラー。当時は母親が分娩の時に口にした言葉をもとに子供の名前をつけるのが習慣であるが、母親が分娩直後に「アメン神の生きた姿」と叫んだかどうかは、かなり怪しい。
当時の人名は生まれた子に対して神の庇護を祈る短い文の形式だった。9-10歳で即位し、19歳程度の若さで亡くなったとされ、10年程度という短い治世であったために、埋葬当時、世間からすぐに忘れられ、結果として彼の墓は大規模な盗掘を奇跡的に逃れたとされる。王の長男だから、選ばれたというわけではなく、この時代は王女が世襲する時代で、当時はファラオは神扱いで神話では兄弟婚が普通だったので、王女アンケセ・ナーメンの結婚相手が必要で、異母兄弟であるツタンカーメンが選ばれて王になったというのが実情のようであった。真相は不明であるがアンケセ・ナーメンは、当時の習慣で父親の子供を既に産んでいたようで、ツタンカーメンよりも年上であり、ツタンカーメンが急死したあとは、祖父のアイと結婚させられている。
ちなみに、王家の谷の王墓はツタンカーメンのもの以外はほとんど盗掘されて、現在では何も残っていないとされる。しかし、ツタンカーメンの墓は埋葬直後に2度の少量の盗掘は行なわれていたらしく、墓に盗掘の修理を行った形跡が残っていた。当時の墓泥棒は、主に貴金属製品を盗み、貴金属以外は、当時、あまり価値が無かったので、日常品は奇跡的に現在まで残り、残っている副葬品に使用された金は1トンもあるという。
ツタンカーメンの墓は、規模的には当時の貴族レベルのもの(構造的には、王妃用であり、最近では義理の母、ネフェル・ティティ(この人は、ツタンカーメンの前のスメンク・カー・ラー王と同じ人と考えられている)用であると言われている)で、何らかの理由で先に掘ってあった貴族レベルの墓を改造して仕上げたらしく、第3の棺(木製の一番大きな棺)は、石棺に入らなかったので急場しのぎで、つま先が一部削られているほどである。また、壁画に黒いカビの跡があるのは、急いで壁画を仕上げて、封印したのでカビが生えたと言われている。
ツタンカーメンの棺を覆う何重もの大きな棺は、棺を墓に運び入れた後に、部品に分けて現場で組み立てられたと考えられている。従来は、ツタンカーメンの次の王であるアイの墓が、もともとはツタンカーメン用に準備された墓であり、ツタンカーメンの墓は、もともとはアイ用の墓だったと推定されていたが、最近では、墓の構造からツタンカーメンの義理の母(実の母はキヤと推定されている)であるネフェル・ティティが女王として即位してスメンク・カー・ラーになった後に亡くなって(ネフェルティティが先に死んだか、ツタンカーメンが先に死んだかは不明)埋葬されたスメンク・カー・ラーの墓の出口部分に、なんらかの事情によってツタンカーメンが埋葬されたという説が有力になっている。
ネフェル・ティティとは「美しい(ネフィル)者が訪れた」という意味で、顔立ちが伝統的な古代エジプト人と異なるので外国から嫁いだという説や、ツタンカーメンの後にファラオになったアイがネフェルティティの父親であるという説もある。ちなみにネフェル・ティティとネフェル・トイリは別人。
父親(DNA鑑定で判明済)のアクエン・アテン(イクナートン、イクナトンと表記される場合もある。幼少時はアメン・ヘテプ4世という名前で、ツタンカーメンの妻であるアンケセ・ナーメン(アテン信仰の頃の名前はアンケセ・パーテンで、アメン神信仰に復帰後はアンケセ・ナーメンに改名した)の父親、つまりツタンカーメン(母キヤ)とアンケセ・ナーメン(母ネフェル・ティティ)は腹違いの兄妹で結婚)は、累計で1000人以上いたエジプトの神様、及び神々のリーダーだったアメン・ラー神信仰を否定して、太陽(アテン神)のみが神とする宗教にしたことで有名で、息子であるツタンカーメンも幼少時はツタンカーテン(Tut-ankh-aten)と称していた。母親は、従来は「ティイ」と言われてきたが、最近では、外国から嫁入りした「キヤ」であると言われている。
この時代、ファラオなど王族は神と同じ扱いで血統を守るために兄妹の結婚は当たり前で、近親婚を繰り返したせいで、遺伝的欠陥を有するファラオが多く、ツタンカーメンが20才前で死亡したのも、これが遠因といわれている。ちなみに結婚といっても、形式的に結婚した(日本的にいうと王はだれ、王妃はだれというだけ)というだけで、一婦制ではなく血のつながらない複数の王妃(例えば、アクエン・アテンの妻としては、ティイ、キヤ、ネフェル・ティティが知られている。)が存在した。
父であるアクエン・アテン(墓番号KV55)の彫像を見ると分かるが、彫像が本当の姿を映しているのなら、長年の近親交配の影響か、かなり奇形の姿をしており、これが従来の神(アメン神)は自分を見捨てた、神に愛されていないと感じて、アテン神(=太陽)に宗旨換えするきっかけになったのではと想像されている。実際には、アクエン・アテンの父の代には、既にアメン神官の影響力が強くなっており、ファラオよりも影響力が強くなっていたので、アクエン・アテンがアメン神信仰を捨てる素地は出来ていた。
アクエン・アテンは、首都を砂漠の中に移し、それまでのアメン神神殿を破壊させた事で知られている。さらに、伝統的なエジプト表現をやめさせて、写実的な表現の彫像を作らせたので、その関係で、現在、有名なネフェル・ティティや特異な姿のアクエン・アテンの彫像が残っている。ちなみに、古代エジプトの本では様々な神が出てくるので多神教、アクエン・アテンが信仰したアテン教(太陽のみが神)が、歴史上初めての一神教と解説されている本があるが、それは間違いで、古代エジプトは元から一神教で、一神教の神様が様々な形の動物や神(マアトとかオシリスとか)の形で人間に現れるという意味が真実らしい。
アクエン・アテンの死後、影響力の低下を恐れたアメン神官達(この頃には神官の影響力はファラオに圧力を与えるぐらい強大になっていた)及び、かつて父に使えていた家臣のアイ(彼はツタンカーメンの次の王になったが、王になったのが60才過ぎだったので統治期間は4年。)の手によって、アテン神信仰から、アメン神信仰に戻されて、ツタンカーテンからツタンカーメンになった。アテン神教だったころの影響は、「ツタンカーメンの有名な玉座」中に、「太陽からの光を意味する複数の手」が出ていることに残っている。また、太陽を崇拝するアクエン・アテンの有名なレリーフにも同様の「手」が表現されている。小規模な二度の盗掘を受けた後でも、ツタンカーメンの副葬品は5400点以上あったとされており、それらの中で一番象徴的なものが黄金のマスクであろう。
古代エジプトにおいては、人の彫刻は、美術品や装飾品ではなく、死んだ人(彫刻のモデル)のカア(魂)が宿る場所となっており、ミイラの頭部は命が宿ると考えていたので、本人に可能な限り似せて作られており、古代エジプトの彫刻が、気味悪いほど人間そっくりの姿をしているのは、この理由による。ツタンカーメンの治世は約10年と短く、たいした業績もないのに、これだけの宝物が収められていたので、その他のファラオの墓には、膨大な財宝が収められていたと想像されているが、長年の略奪(墓泥棒だけでなく、別の王朝による略奪も当たり前)によって、現代ではほとんど何も残っていない。 (注>小規模といっても発掘したハワード・カーターによると副葬品の60%は二度の盗掘によって持ち去られているだろうとの事。(出典>ニュートン別冊、改訂版 新・世界の七不思議 p70、2003年、ニュートンプレス社)
ツタンカーメンの妻はアンケセ・ナーメン(墓番号KV21A)で、墓には、早産したと思われる、二人の娘(7か月の胎児、5か月の胎児)がミイラ化されて収められていた。父アクエン・アテンは、アテン神にのめり込むあまり、アメン神の神殿を破壊することもあったので、アメン神信仰に戻ったツタンカーメンの時代に憎まれ、ツタンカーメンもアクエン・アテンの娘の一人と結婚したので異端者一族の一人として見なされ、意図的に、アクエン・アエンとともに歴史の表舞台から記録や遺跡が抹消された。
ツタンカーメンの遺体、墓について>
ミイラには心臓が入ってなかった。>
心臓は来世での「最後の審判」時に「秩序(マアト)を象徴したダチョウの羽」との重さ比べに必用なものであり、さらに、魂が帰ってきて生き返るのに必要なものであるが、ツタンカーメンの遺体には存在しなかった。これは、ツタンカーメンが戦闘中に死亡して、遺体がひどい損傷を受けており、心臓が保存できなかったためと考えられている。通常は心臓とともに心臓スカラベも入っているのだが、ツタンカーメンの場合は入っていなかったらしい。
遺体が焦げて?いた。>
これは遺体の防腐用にアマニ油がミイラの布にかけられており、アマニ油は濡れた状態では自然発火しやすいので狭い棺の中で自然発火したので遺体が燻されたと考えられている。もしくは、オシリス神は豊穣の神、冥界の支配者であり、ナイル川の氾濫によって運ばれる黒い土と同じように、オシリス神の体も黒や(再生を意味する)緑色になっていることが多いので、ツタンカーメンの体も黒い樹脂で加工されていたという説もある。事実、ツタンカーメン墓の出土品にも体が黒色の彫像が何点かあるので、やはり意図的に黒く塗装されていたのだろう。
埋葬直後に洪水で埋まった>
エジプトのテーベ(現在のルクソール)付近は、毎年、秋に台風のようなものが発生し、砂漠に鉄砲水が発生する。「王家の谷」というように、谷部分の中央、最も標高の低い部分に、ツタンカーメンの墓は位置するので、ツタンカーメンは春に埋葬(春に咲く矢車菊の首飾りが残されていたことから推定)され、夏に盗掘され(秋の洪水前に盗掘)、秋には鉄砲水によって入口が1mほどの土砂に埋まったために、その後、3000年も盗掘を逃れることになったらしい。ちなみに、現在の「王家の谷」の王族の墓の入り口に壁が設置されているのは、この秋に起こる鉄砲水が王墓に侵入するのを防ぐための防水壁である。
性器が勃起した形になっていた>
カーターの記録によると、ミイラの性器には金製の男根カバーがはめられており勃起した表現になっていた。これは豊穣の神オシリスに近づけようとしたものと考えられている。さらに、遺体は不必要に大きく切り刻まれており、これもオシリス神が弟セト神に殺害されてバラバラになった後、妻のイシス女神が遺体を回収して一つに戻したという神話に近づける工夫と考えられている。
墓には130本の杖が入っていた>
装飾用ではなく、使い込んだ杖もあったことから、ツタンカーメンは20才という若さにも関わらず、生前、杖を日常的に使用していたと考えられている。遺体の検査では、生まれつき、足が内側に曲がっている&二人の娘も早産で無くしていることが判明している。これは長年の近親交配による遺伝的欠陥の影響であろう。ちなみにフンドシも150枚、金メッキしたサンダルが47足収められていた。王のミイラの頭には冠帯、両腕は手首にかけて、すべて覆うようにびっしりと多数の金の腕輪、指と足指には個別に金の鞘で覆われて、金のサンダルが履かせられていた。また、ミイラの下にはファイアンスのビーズで作った動物の尻尾(ライオンの尻尾、=スフィンクスがライオンと人間のキメラであるように、儀式時にはファラオもライオンの格好をしていた。)の飾りが置かれていた。
〇ツタンカーメンの墓の発見の経緯>
発見に貢献したのは、当時12歳のフセイン・アブドルラスール少年。フセインは発掘作業員のまとめ役だった祖父らといつも現場を訪れていた。フセインが、ロバに乗って作業員用の水を運んでいたところ、ロバがつまずいた拍子に水がめが壊れ、大量の水がこぼれた。その時、地中の墓へと続く階段があらわになったという。カーターに功績をたたえられ、出土した首飾りをかけてもらったフセイン少年の写真が存在する。エジプト少年に少年王が発見されるのも結果的に何らかの縁があったのかもしれない。
●黄金のマスクは何から出来ている、どうやって作ったかを分析
黄金のマスク、王の姿の基本デザイン> 古代エジプト、特にツタンカーメン王時代には、王は、冥界の王オシリスの息子、ホルス神(人の体にハヤブサの頭の神)+それにギザの大スフィンクスに象徴されるライオン+オシリス神がごっちゃになった感じの姿をしていた。付け髭(2本の紐で留めた。)はオシリス神の姿、胸の飾りはホルス神(ハヤブサ)の翼に守られている姿、ネメスという頭巾はライオンのたてがみをイメージしており、「繁殖力と力の象徴であるオス牛のしっぽ」のようなものを腰からおしりにかけてぶら下げていた。
古代エジプト人は、初期王朝時代から国を守る、神聖にして勇猛な力を持つものとしてファラオをライオンに見立てていた。ライオンは太陽神アメン・ラーが毎朝生れ出るのを助けると考えていたので、ギザの大スフィンクスも東を向いている。 古代エジプト神話によると、神は銀の体に、金の肉、髪はラピスラズリ(ラピスラズリは深い青色で、これは夜空の色を意味している。水色はナイル川の色を表している。)、太陽と月の目を持っているとされており、王の体が金で、髪、頭巾の柄がラピスラズリ風の青(天然石のラピス・ラズリを加工するのは大変なので軟らかい青色ガラスが使用された。)なのは、この神話に基づいている。輝きを失わない黄金は永遠、太陽光線、神の肉体を象徴している。ちなみに、当時、銀は国外から輸入されていたので金の二倍の値段であり、金鉱石を加熱すると金属としてドロドロ出てくる金とは異なり、銀は酸化銀(主に黒色)を還元して作らなければいけなかったので、貴重な金属と考えられていた。
黄金のマスクはネメスと呼ばれる頭巾と顔の部分は別に作られており、リベットで接合されている。黄金のマスクの耳たぶをみると、イヤリング用の大きな穴があるが、当時、イヤリングをしていたのは女性か子供であり、ツタンカーメンが発見された時には耳の大きな穴は金箔で埋められていた。つまり、頭巾部分は女性用(おそらく義母のネフェル・ティティ用、ネフェル・ティティは夫アクエンア・アテンが亡くなった後に、女王スメンク・カー・ラーとして即位している)に作られたものであり、その後、「顔部分だけ入れ替えて」王に仕立てたとされる。黄金のマスクにはコブラとハゲワシの飾りがついているが、ハゲワシは女性用の飾りであり、棺の他に収められたツタンカーメンの像はコブラの文様だけであるので、棺が女性用だったことを物語っている。 事実、ツタンカーメンの第二の棺の顔は、ツタンカーメンよりもネフェル・ティティに似ており、もともとはネフェル・ティティ用の棺だと推定されている。当時、王族などの丁寧なミイラを作成するには70日間かけるとされてたが、豪華な人型棺などを仕上げるのに時間がかかるので、職人たちは日常的に棺を作製していて、「王族が死んだ時に顔部分だけを本人に似せて作ってはめ込む」方式をとっていたと考えられる。また、黄金のマスクの肩部分にある王名も、スメンク・カー・ラー(ネフェル・ティティが女王に即位した時の名前)という名前を、むりやり消してツタンカーメンに刻み直した跡も発見されている。ちなみに、ツタンカーメン墓の構造自体も、入り口のトンネルから右曲がりに出来ており、これはこの時代女性王族の墓の形式なので、墓はネフェル・ティティ用に作られており、現在も、ツタンカーメンの奥に、財宝と共にネフェル・ティティが女王スメンク・カー・ラーとして眠っているという説が有力になっている。
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地金部分>
マスクの地金は23金程度の純度の高い金。24金が純金なので純度は約96%。純金では強度が弱いので、意図的に銅を添加して、強度を確保していると考えられ、基本的には2枚の金の板を叩いた後、焼きなましして金属内部の応力を緩和した後に張り合わせてある。つけヒゲ、コブラ、ハゲワシ、胸飾り部分も後付けで、つけヒゲは釘のようなもので顔部分に固定されている。
ちなみに、「X線分析装置による遺跡・文化財の分析「ツタンカーメン王黄金のマスク」雑誌「金属」2007年9月号」の図4では、「黄金のマスクの内側の写真」が載っている。表とは異なり、裏側は金の地金がそのまま出ているだけだが、これは貴重な写真だろう。
金はさびない、朽ちないので死後の世界に旅立った後も永遠の命が得られると信じていた。また、太陽の黄色をイメージしているともいわれており、ファラオは金製品を体中に纏うことによって神性を醸し出していた。ツタンカーメンのミイラは金のマスク、手袋、指輪、サンダル、指サック、ペニスケース等が着せられていた。エジプトでは金はほとんど採れないので、これらの金はヌビア、現在のスーダン辺りから入手したといわれている。この時代、銀の存在も知られていたが、銀は他国から輸入しなければならなかったので、金よりも高価であった。
頭巾部分、ネメス>
帽子みたいに見える頭巾(ずきん)は、ネメスと呼ばれており、王がオシリス神であること、またはライオンのたてがみ (確かに、スフィンクスの体はライオンになっている)をイメージしているとの説もある。原型は亜麻製であり、質素なネメスは誰もが被っていたが、第4王朝以降にツタンカーメンの被っているタイプ(ツタンカーメンは第18王朝)が現れ、ギザの大スフィンクス(大スフィンクスはカフ・ラー王(第4王朝)のネメスの配色に似せて作ってあるとされる)も被っている。
ネメスを亜麻で再現してみると、型崩れするので、実際は革で作製していたのではないかとも考えられている。
ネメスの青い縞部分は、貴石であるラピス・ラズリ(当時は輸入品で貴重)に似せたガラス質の物質(練りガラス、おそらく低融点のソーダガラスにラピス・ラズリに似た色の顔料を混ぜたもの)を固めたものを、頭巾の柄に合うように三次元の形状で成型(くりぬき?)したあと、黒いタール又はニカワみたいなもの(透明な接着剤としては蜜ロウが使用された)で接着すると同時にすきまもニカワ(正確には蜜ロウ)でパテ埋めしている。
実際に、黄金のマスクの写真を見ると正面から見て右肩部分に青い縞が抜けているところがあり、そこから、色ガラスの厚み&黒い接着剤の跡が見える。しかし、柔らかいガラス状ファイアンスを使用したとしても、所定の形に立体的にくりぬくのはとても時間がかかったことだろう。ちなみに、青い縞模様は後ろの首の所で収束するような作りになっている。
ちなみに、頭巾の独特の形状(横に広がった形状)は、ライオンのタテガミを表現しており、これはツタンカーメンよりも遥か昔に作られたギザの三大ピラミッドの近くにある大スフィンクス(ライオンと王のミックスされた形状)が、同様のネメス頭巾をしていることからも分かる。古代においてスフィンクスは神と同一視され、ファラオはライオン(遺物の造形的にはチーター)をイメージした格好をしており、初期のファラオはライオンの尻尾をまねたものをおしりからぶら下げていた。(出典 古代エジプトCG世界遺産、双葉社)
ウェブサイトで調べてみると「七宝焼きのように鉛ガラスを流し込んで作った」という記述もあるが、これは実物をよく見ていない者の憶測に過ぎない。いくら低融点ガラスを使用したとしても、厚みのあるガラスを丸い立体形状に流し込むことは困難であり、ましてや、ただでさえ柔らかい金では、加熱すると強度がさらに弱くなるので、流し込んだ途端に変形してしまうだろう。
よって、ガラスを流し込んだという説は受け入れられない。また、事実、黄金のマスクの拡大写真をみると、青色ガラスの寸法が微妙に異なる(スキマがある)ものがあるので、やはり、その形に合わせて削ったというのが真実であろう。古代エジプトでは人工的にガラスを作製することが可能となっており、これは現代の透明なガラスとは異なり不透明なガラスで、これは「練りガラス」と表現されている。現代風に表現すると、「溶融の不完全な多孔質ガラスに色をつけたもの」で、これを削るのは簡単なので、ネメスの青い部分はこの「練りガラス、(ファイアンス素材の高密度版)」と考えられる。
コブラとハゲワシのデザイン>
頭巾上部に位置するハゲワシとコブラは上下エジプトの守護神であり、上エジプト国(ナイル川上流という呼び方、スーダン側)の守護神であるハゲワシは「ネクベト女神」、下エジプト国(地中海側、ナイル川下流という見方)の守護神コブラはウラエウス聖蛇であり「ウラエウス聖蛇は蛇のウアジェト女神の化身」を表しており 王族であることを示し、この時代、ツタンカーメンは両エジプト国を統一していた事を意味している。
ちなみに、ギザのスフィンクスは、今は崩落しているが、ヘビの飾りがついており、これはツタンカーメン以前の下エジプト (地中海側)を支配していた事を意味している。
これらのハゲワシ、コブラはオスかメスか分からないのに、なぜ、女神かというと名前に○○+トがついている(ネクベト女神、ウアジェト女神)、正確にはヒエロ・グリフの名前の最後にパンを示す記号がついているのが、女性を示すことが多く、有名な女王のハトシェプスト、女神マアト、女神セクメトも、皆、~トがついている。ただし、例外もあり、女神なのに~トとなっていない例もある。
コブラ部分の水色はアマゾナイト、赤色はカーネリアン、コブラの顔は紺色の色ガラスで出来ている。ハゲワシのくちばし部分はおそらく黒色のガラス。コブラの頭部分、ハゲワシの口ばし部分はどうやって作ったか不明。(くりぬいた?)カーネリアン(紅玉髄)や石英は東部砂漠から、ラピスラズリはアフガニスタン、トルコ石はシナイ半島、紫水晶はアスワン南部、緑長石はリビア砂漠から産出していた。
ちなみに、コブラとハゲワシの部分は王冠の一部のデザインであり、副葬品として【コブラとハゲワシのついた本物の王冠】が出土している。
一般に、王はコブラのみを王冠につけており、王妃はハゲワシのみを王冠につけている。実際、ツタンカーメンの彫像の多くは、コブラのみを王冠につけていることから、ツタンカーメンの黄金のマスクには、コブラとハゲワシがついていることから、このマスクは、ツタンカーメンの前に即位したスメンク・カー・ラー王(女帝=王妃 ネフェル・ティティ)のマスクを、顔の部分だけ、ツタンカーメンに差し替えたものと考えられている。
顔部分>
最近では、顔の部分だけ金の調合比を変えて色白にしてある事も明らかになっている。顔の表面には銀を混ぜた18金から21金程度の金がニカワ(正確には蜜ロウ)を接着剤として薄く塗られているらしい。特に、まぶた部分はアイシャドウのように特に白色が強調されている。顔の部分に純度の低い金粉をまぶして、ニカワで接着しているらしい。
黄金のマスクはネメスと呼ばれる頭巾と顔の部分は別に作られており、リベットで接合されている。黄金のマスクの耳たぶをみると、イヤリング用の大きな穴があるが、当時、イヤリングをしていたのは女性か子供であり、ツタンカーメンが発見された時には耳の大きな穴は金箔で埋められていた。つまり、頭巾部分は女性用(おそらく義母のネフェル・ティティ用(ネフェル・ティティとは「美女来たり」という意味))に作られたものであり、その後、何らかの事情(急死したから?)で顔部分だけ入れ替えて王に仕立てたとされる。
事実、ツタンカーメンの第二の棺の顔は、ツタンカーメンよりもネフェル・ティティに似ており、もともとはネフェル・ティティ用の棺だと推定されている。
目、マユ、耳>
目の白目部分は、従来は白色の水晶を切り出して作ったといわれているが、最近のX線調査によるとマグネサイト(MgCO3、炭酸マグネシウム)と呼ばれる白い酸化物を主成分としたものを蜜ロウで固めて作っているらしく、より本物らしくするために、裏側から赤い塗料を塗って、透過色で人間のように赤っぽく見えるように作ってある。
一方、黒目は、天然ガラスとして知られる黒曜石製。眉と目の縁は鉱物ラピス・ラズリの粉末をニカワで固めてあるらしい。ちなみに、ネメス頭巾の青いガラスは紺色であるのに対して、目及びマユは青一色ではなく、意図的にまだら模様が入っているのは何らかの意図があるのかは不明。また、よく見ると分かるのだが、目頭(涙が出る部分)、目じりも赤い顔料で塗られている。
ちなみに、ツタンカーメンは生前イヤリングをしていたので、黄金のマスクにも耳たぶに大きな穴が開いている。ツタンカーメンの他の彫像でも耳たぶに穴が開いているし、イヤリングも副葬品として発見されている。ただし、最近は、イヤリングをするのは女性か子供で王はしない習慣だった(ツタンカーメンよりも前のトトメス4世がファラオとしてはじめてイヤリングをして、その後ファラオもイヤリングをしていたとの説もある)ので、耳に穴があいているのは、何らかの理由で義母ネフェル・ティティ用の彫像を流用した可能性があるといわれている。
イヤリング自体は中王国時代末期から現れ始め、新王国時代に盛んになり、子供時代から、金製の重いイヤリングをしていた王族は耳たぶが6cmも伸びていたミイラが確認されている。
あごひげ(つけヒゲ)部分と首まわり>
大きな「つけヒゲ」は、冥界の王オシリス神と同体であることを意味している。古代エジプトの考えでは、ファラオは生きている時はオシリス神の息子、ホルス神と同じであると考えられ、死後は、最後の審判を経て、冥界の王、オシリス神と同じになると考えられていた。よって、ファラオは特別な儀式の時は、つけヒゲをつけてオシリス神と同じ格好をすることによって、民衆から神聖化されていた。
古代エジプトでは、衛生的な理由で男女ともに髪は短く切って、ヒゲも剃っており、長髪や髭面は、身分の低い階級とみなされていたが、オシリス神のような髭の形(先端が突出している形)は、オシリス神を象徴するものとして別格扱いだった。
低融点ガラスに水色の顔料粉末をまぜた、おそらくファイアンス(ガラス質陶器)をくりぬいて嵌め込んである。ここで驚くのがヒゲの部分の金細工の細かさである。立体的なヒゲの金色部分をこの精度で加工すること自体驚きである。また、よく見ると、胸飾りの一番首に近い部分は細かいビーズのネックレスが金細工で表現されている。
黄金のマスクを横からみると、顔(アゴ)を突き出しており、これはマスクをつけたミイラが首に大きなネックレスをしていたこと、及び王権の象徴である杖と竿を胸で交差させて配置するための工夫である。開封直後の写真(参考文献 ●黄金王 ツタンカーメンの素顔、ザヒ・ハワス著p27)を見ると分かる。また、マスクを横からみると異常に後頭部に奥行きがあるのが分かるが、これは当時、子供のころから頭を縛って、後頭部を異常に細長くしていた習慣に対応する。事実、参考文献 ●黄金王 ツタンカーメンの素顔、ザヒ・ハワス著のp30にツタンカーメンの頭部のCTスキャン図が載っており、異常に後頭部が長いのが分かる。
ちなみに、墓の発見当時はマスクからヒゲは外れており、1941年までは別々に展示されていたが、1941年にマスクとヒゲ部分が接着されて展示されるようになり、1944年と2014年にマスクのヒゲ部分が外れて修復されている。修理の際に、ヒゲ部分には「黄金製の管」が通っていることが明らかになっている。
ウセク型の胸飾り>
胸飾りは、ホルス神(ハヤブサの形をした神様)の羽根をモチーフとしており、マスクの両側の肩の部分に「外側を向いた2つのホルス神の顔」がある。王が二人のホルス神に優しく包まれているという感じ で、護符としての役割もあり、貴金属が散らばった金製の飾りが胸の前に来ると重さの関係で前に引っ張られるので、実際には背中側に重たい飾り部分(古代エジプト語でメニトといった)をつけてバランスをとっていた。
この形式はウセク型(Usekh type、簡便な首飾りはメナトと呼ばれる。)と呼ばれている。ちなみに、この胸飾りの本物もツタンカーメンの副葬品として発見されている。胸飾りの主要な部分は、金の地金の部分で入れ物の形を形成しており、アマゾナイト(水色)、青色ガラス(不透明ガラス、ファイアンス)(濃紺)、カーネリアン(えんじ色)のプレートを2-9本の筋に見えるように筋入れ加工してから、嵌め込んでいる。
一番外側のラインは鳥の羽先を表現しており、アマゾナイト、カーネリアン、紺色のファイアンスをくりぬいて、はめ込んである。この時代、ガラスやファイアンスは安い代用品として大量に生産された。
ネット上では七宝焼き(琺瑯)で作ったという説も流れているが、マスクの高精度写真&現在までに残されている作りかけの遺物によると、明らかに象嵌(ぞうがん)であることが分かる。
背中部分>
背中部分は22金程度の赤っぽい金合金で薄化粧をしており、「死者の書」の第151b章がヒエログリフで彫りこんであり、「このマスクが王を守護するものである」という意味のことが書いてある。
具体的には、「プタハ・ソカル神の光。アヌビス神が賞賛した者。トト神が称賛した者。汝(=マスクの事)の右目はセケテト船(=太陽の夜の船)、汝の左目はマネジェト船(=太陽の昼の船)、汝の両方の眉は九柱神、汝の額はアヌビス神、汝の後頭部はホルス神、汝の巻き髪はプタハ・ソカル神。オシリス神の前にあり、彼は汝の中から見る。汝は彼を正しい道へ導く。汝は彼のためにセト神(オシリス神の復活を妨げる邪神や邪悪な者)の一味を討つ。。。。」という意味が彫りこまれている。
胸飾りの装飾に比べて若干地味であり、このヒエロ・グリフ部分は時間がなかったので象嵌は中止したのだろうか。ちなみに、他の副葬品にはヒエロ・グリフに象嵌が施してあるものがある。
部品の切断と組み立て>
昔は溶接機もないので、顔の前面と後ろ部分の金の板同士をどうやって組み上げているのだろうか。実は「のりしろ部分」があって、物理的にカシめてあるのだろうか?
金を成型するための金属、例えば青銅(ブロンズ)は紀元前3500年(5500年前)、鉄は、紀元前1800年(3800年前)頃には発明されていたとされるので金板の切断、成型には問題はなさそう。実際、ツタンカーメンの時代には、金属鉄が存在しており、副葬品として鉄製ナイフ(錆びていない!)が発見されている。最近の研究では、この鉄製ナイフはニッケルの含有量が、同時代の鉄製品に比べて圧倒的に多い多いことから、隕石由来の鉄、いわゆる隕鉄を加工した物と考えられており、当時、砂漠で発見された隕鉄を加工したのであろう。
ちなみに、当時、鉄、銀は黄金以上に価値があったとされる。金は、金鉱石を加熱するだけで、純度の良いものがダラダラと流れ出てくる。(実際は、古代エジプトで使用された金は、砂漠でとれた砂金を使用したものが多かった。)しかし、銀は通常、酸化銀という黒い鉱石で産出し、なんらかの方法で還元して金属銀にしないといけないので高価だった。
また、鉄は当時のヒッタイトが製造技術を有しており、武器材料として見た場合、青銅製の剣は、靱性が低くて折れやすいのに対して、鉄製の剣は粘りがあるので折れにくく、戦争では圧倒的に有利な材料だった。(出典>ニュートン別冊、改訂版 新・世界の七不思議 p73、2003年、ニュートンプレス社)
成型は石器でも、木型でも出来るし。
ウィキペディアで調べると、青銅とブロンズは同じ金属(正確には固溶体、合金)で、古代日本とか古代中国の青銅器は濃緑色で、地味な印象があったが、あれは、経時変化によって、銅が空気中の水分と反応して酸化されて、炭酸銅となって緑色になったもの(ニューヨークの自由の女神も炭酸銅の色をしている)で、作製当時は、組成によってはブロンズ色(黄金色)に輝いていたそうだ。
ちなみに、ツタンカーメン時代の宝物にもブロンズで作製されたものがあり、用途に応じて純金、金箔、ブロンズを使い分けていたことが知られている。金製品は無垢のままでは日常使いには重すぎるので、金箔で中空の形を作り、金は柔らかいので形が崩れないように中に砂を詰めていた。
昔はブロンズと金の区別がつきにくかったので、無知な墓泥棒は、金色で大きくて重い副葬品から盗み出したらしい。つまり当時は金色に輝いていた青銅製の大きな副葬品から盗み出したということで、結果的に軽くてかさばる金メッキ、金貼り副葬品が残ったというのが事実らしい。
製作期間について>
ツタンカーメンのミイラは、マスクだけでなく、マスクよりも大きな壮麗な装飾された棺で三重に包まれ、それを五重の装飾された厨子で厳重に梱包していた。 ミイラを作るには70日間かかるそうで、これらの厨子も含めて70日で出来るものなのだろうか。よって、このマスク一つ作るためだけでも、何十人もの人間が関わっていたのだろうか。
古代エジプトでは、生前から自分の墓を用意していたそうなので、王の日常品、棺、マスクは、生前から用意していたのかも。ツタンカーメンのマスクについては、急死したので、埋葬&黄金のマスク作りに時間がなかったらしく、顔の部分だけツタンカーメンそっくりに作製し、それ以外は、前王スメンク・カー・ラー(ネフェル・ティティが女王に即位した時の名前)の黄金のマスクを利用している。ミイラ作りでは、いくつかの方法があったようで、王族は最高のミイラ処理が施されているので、3000年以上経った後でもキレイに残っているそうだ。ミイラ作りでは、よく「ナトロン」で遺体を乾燥させたという表現が出てくるが、ナトロンとはナイル川でとれる塩の事で、化学組成的には塩、重曹、炭酸ナトリウムの混合物らしい。
ちなみに、現在、テレビ、写真で見られるツタンカーメンの黄金のマスクは徹底的にクリーニングされたもので、棺開封直後は、マユ部分は外れ、目、顔部分は劣化して樹脂状になった香油にまみれた状態であった。写真を見たい方は、参考文献 ●黄金王 ツタンカーメンの素顔、ザヒ・ハワス著p27をご覧下さい。
目次>-----------------------
1 古代エジプト関係の歴史年表
2 ツタンカーメン、黄金のマスク
3 ピラミッド関係
4 古代エジプト関係の知識
5 お勧めの古代エジプト本のリスト
5.1 古代エジプト関係の動画>
5.2 古代エジプト全般の本>
5.3 ツタンカーメン関係の本>
5.4 ヒエロ・グリフ関係の本>
5.5 古代エジプト関係の本>
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3. ピラミッド関係
●エジプト、ギザの大ピラミッド(クフ王のピラミッド)は、4面体ではなく、実は8面体。 しかも建造当時は「真っ白で表面はツルツル」だった。
4角錐ではなく、8面体>
ギザの大ピラミッド群は「世界の七不思議」で唯一現存する建造物。 最近見た映画「「ピラミッド5000年の嘘」の中で紹介されていました。「ピラミッドがクフ王の墓」という設定では昔は20年で作らなければならず、これでは重さ2.5トン以上の石を、石と青銅製のノミで2分半で1個仕上げねばならない計算になるそう。
しかも当時は、車輪が発明されていなかったので、人力で、ソリを使ってすべて運びあげたらしく、ピラミッド上で石を加工した形跡はないので、石を切り出す時に各石の寸法まで正確に合わせていたらしい。ピラミッドに使用した石(褐色の石灰岩)は、大半はナイル川対岸の石切場から運び出し、高級な石はナイル川上流のアスワンから船で運搬し、増水期にピラミッド近くまで船で運搬していたといい、衛星画像を見るとナイル川のほとりにピラミッドがあることが分かる。
表面は特別に白い石灰岩を使用し、この石はデルタ地帯のツーラの石灰岩を使用した。また、「ピラミッド=墓」説も疑問が持たれ、過去には3つのピラミッドを建造した王もいるので、クフ王あたり以降のピラミッドでは、墓説は現在では否定されているが、周辺に家族用の小さなピラミッドも多数あるので、「王を記念した神殿の一部」というのが真実のよう。
最近では、ナイル川の氾濫時期(毎年7~10月)に農業が出来ない時のための公共事業として建設されたという説もあるが、最近の研究によると後方支援を含めて2万4000人分の仕事しかなく、当時270万人の労働人口(ほとんど農民)に対しては仕事量が少なすぎるという指摘もあり、この説も疑わしいらしい。
映画「紀元前1万年」などでは、ピラミッド建造に際してゾウが引っ張っているシーンがあるが、動物は気まぐれなので効率良く作業は出来ず、実際は訓練された人間が力を合わせて引っ張っていたらしい。エジプトは、午後がものすごく暑いのでピラミッド作りは午前中の5時間程度だったと想像され、クフ王、カフ・ラー王、メンカウ・ラー王のギザの三大ピラミッドの建造時期&建築精度が同じである事から、ピラミッド建造の専門家集団が住んでいたと推察されている。
建造時は外観は白色、国による解体の危機があった。>
ギザの三大ピラミッドは、建造当時は、表面は良質な白い石灰岩で覆われ、白色でツルツル。ピラミッドの頂点は金で覆われた”キャップ・ストーン”が置かれていた。しかし、1000年前ぐらいに、キリスト教徒が教会の建設に、その後、イスラム教徒が寺院の装飾、カイロ市内の建造物に使用するために表面の石灰岩を剥がしたので今のようなギザギザになり、昔の面影はカフラー王のピラミッド(3つあるピラミッドの真ん中のピラミッド)の頂上付近に、きれいに揃った化粧面に残っている。
クフ王のピラミッドは巨大なので現在でも大部分が残っているが、クフ王周辺の神殿、参道の石材はイスラム教徒らによって持ち去られて、現在ではほとんど消滅している。クフ王のピラミッドの頂上部分は、石が落ちてちょっとした広場になっており、人間が20-30人座れるだけの広さがある。そこには避雷針みたいなものが建っているが、あれは避雷針ではなく、木製の木枠で、建造時は木枠の先端までの高さがあったということを意味している。
スエズ運河を建設する際には、当時のイスラム系の王が、「石が足りないなら、ピラミッド群を壊して使用しろ。あれは古代の駄作だから」といって、困った学者、技術者がピラミッドを壊す費用の見積もりをしたら、スエズ運河建設の10倍の見積もりになったので破壊を免れた。
イスラム教では、偶像崇拝が禁止されているので、ピラミッドが異教徒の偶像と認定された場合、アフガニスタンの石造大仏のように、破壊されて姿を消していた可能性もあった。
クフ王のピラミッド>
ピラミッドはギリシャ語で、古代エジプト人はメルと呼んでおり、クフ王のピラミッドは「地平線はクフ」、カフ・ラー王のピラミッドは「偉大なるはカフ・ラー」、メンカウ・ラーのピラミッドは「神性はメンカウ・ラー」と呼ばれていた。室内には「王の部屋、女王の部屋、大回廊」とか名前がついているが、あれは後年に、西洋の研究者が勝手につけた名前であり、部屋の本当の用途を示しているわけではない。
クフ王のピラミッドの両隣には、巨大な船が分解して埋められていて、そのうち一隻は、復元して展示されている。最近まで、この船は死んだ王が、あの世との往復に使うための船で、「クフ王の太陽の船」と呼ばれていたが、その後、太陽信仰(王の名前に太陽を示す○○ラーがついている)は第五王朝末頃(クフ王は第4王朝の初期)から本格的になったことが明らかになって、太陽信仰とは関係のないことが判明したので、最近は「クフ王の船」と呼ばれており、この船は実際に使用していた形跡が残っているので、あの世でも使用しようと思って埋葬したというのが真実らしい。
盗掘者が開けた穴が現在、観光客が入る穴となっており、昔は無制限に観光客が入場することが出来たが、観光客の湿気で内部がカビるようになったので最近は、一日100人程度に入場が制限されている。ちなみに、クフ王のピラミッド建造で監督を行ったのは、クフ王の甥で、宰相として仕えたヘムオン王子とされている。クフ王のピラミッドの横には3つの付属ピラミッドがあって、南のピラミッドはクフ王の義理の妹のヘヌト=セン王妃、中央はメリテティス王妃、北のピラミッドはクフ王の母であるヘテプ=ヘレスに捧げられたピラミッド(墓は近くの別の場所にある)である。ギザ地区の郊外にピラミッドを建造したのではなく、ピラミッド自体はナイル川が氾濫しても絶対に水につからない高台に建造されており、エジプトの衛星画像を見ると良く分かるが、川が氾濫したときの川岸にピラミッドが建造されている。ギザという町は、7世紀に造られた街であり、その後、カイロの人口密集地になった。よって、ピラミッド群が随分昔に建造され、その後、ギザという街が出来たというのが正しい。
カフ・ラー王のピラミッド>
発見されている限りではカフラー王のピラミッド内部はクフ王に比べて非常に簡素な造りになっており、これはカフラーが王位についた時は年をとっており、生前にピラミッドを完成させるためにピラミッド構造を簡素化したと考えられている。1818年にイタリアの冒険家ベルツォーニがカフラー王のピラミッドの侵入に成功し、埋葬室の壁に自分の名前を刻んだが、その後、12世紀末ごろに盗掘されたことを示す文字が彫られているのを発見した。
メンカウ・ラー王のピラミッド>
観光用のピラミッド写真では分からないが、ギザの3大ピラミッドの一番小さいピラミッド(メンカウ・ラー王のピラミッド)には、盗掘者がダイナマイトで開けた大きな損傷が残っている。1837年にリチャード・バイズとジョン・ぺリングがピラミッド内に侵入し、石棺とミイラを発見したが、当初、王と見られていたミイラ(現在ではもっと後の時代のミイラと考えられている)は後に失われた。石棺は1838年にイギリスに運ばれる途中に輸送船とともにマルタ島かカルタヘナ付近で沈没した。
メンカウ・ラー王のピラミッドが小さいのは、クフ王、カフ・ラー王と続けて大きいピラミッドを作ってきたので国力が落ちたためともいわれるが、真実はピラミッドへの考え方の変化によって意図的に小さく作ったとも考えられており、事実、その後、建造されたピラミッドは小さくなっていく。
一説には、巨大なピラミッドは墓泥棒の格好の目標になるので作らず、後期のように神殿は豪華につくるが、墓自体は「王家の谷」のような誰も知らないところに密かに王のミイラと財宝を隠すようになっていった。
メンカウ・ラー王と「シンデレラ」の関係
シンデレラは英語では、Cinderellaと書き、英語 cinderは「燃え殻」「灰」を意味しているので、日本語では灰かぶり姫」となる。ここでいう灰は、シンデレラの時代は薪を燃やして炊事していたので、いじめられて食事の世話をさせられていたシンデレラは「いつも灰をかぶっていた」という意味である。
ちなみに、シンデレラ物語の原型は古代エジプト(クフ王のピラミッドの時代)にあると言われており、美しい女奴隷ロードピスが川で洗濯中に、ハヤブサが獲物と間違えて毛皮のサンダルを持っていってしまい、ハヤブサ(=古代エジプトではホルス神そのもの)が、そのサンダルをメンカウ・ラー王(ギザの三大ピラミッド(クフ王、カフ・ラー王、メンカフ・ラー王)で一番小さいピラミッドを建造した王)の目の前に偶然落としたことから、神様からの啓示としてシンデレラ・ストーリーが始まったとされる。
毛皮はフランス語でvarieであり、この物語を翻訳した人がガラスを意味するverreと間違えたのが「ガラスの靴」の由来らしい。メンカフ・ラー(メンカフ・ラー)王の妻の顔(=シンデレラ)は、カイロ博物館の「メンカウ・ラー王のトリアード(Mycerinus Triad)像の中の一つ、ノモスの女神」で表現されており、スタイルの良い丸顔で目の大きな女性として表現されている。
〇古代エジプト ツタンカーメン王(3300年前)の時代の寿命は、平均35才。
当時は、あまりに人生が短かったので、あの世(イアルの野(葦(アシ)の野という意味)という場所。ちなみに日本語では植物のアシは「悪い」と聞こえるので、ヨシと呼ぶ場合もある。)で家族と永遠に生きられるように願い、地上の生活と同じ用具を用意して墓に収めた。古代エジプトでは、現世は仮の世界であり、人は死後に再生して永遠の命を得ると考えていた。古代エジプト文明初期は、遺体をそのまま土に埋めていたが、高温で乾燥した土地であるので、遺体が自然にミイラ化してしまい、その後、ミイラ化技術が発達した。
当時は死者の霊が年に一度帰ってくると信じており、霊が戻るための体が必要と考えて心臓は体内に残された。古代エジプト人は来世を信じ、再生復活を願い、そのために生前から墓やミイラを納める棺など死後の準備をしていた。霊魂が戻ってきた時に、自分の体が分かるように、硬い石で精密に自分の姿を彫刻し、墓には食料品などを置く祭壇が用意されたが、供物の供給が止まった時を考えて墓の壁面に、狩りの場面や、食料の様子などを詳細に描いて、その精密度は、動物、植物の種類が判明するほど写実に描いている。
当時は、医療というもののほとんどなく、川辺での暮らしでは寄生虫(住血吸虫病)に感染し、歯は砂の入ったパンで消耗し、人間の目の水分を好んで吸いに来るハエ(眼病の原因になった)のいるような環境だった。現在でもハエは大量に生息しており、黒い壁と思って近寄ると大量のハエが飛び去り、実は白い壁だったという旅行者の経験談が記述されている。
王侯貴族は丁寧にミイラ化処理されたので保存状態が良く、ツタンカーメンのミイラにおいては、3重の棺に加えて4重の箱に入れられていたので、ほとんど真空パックの状態で3300年経っても当時の姿を保っていた。
4.古代エジプト関係の豆知識
○カルトゥーシュ>
王の名前を表現した記号で 太陽神ラー信仰と王権が結びついた第4王朝時代から用いられた。古代エジプト語ではシェニ、シェン、シェヌウといって縄で丸く囲んで王の支配する領地(太陽が一周する世界を支配するという意味が込められている)を意味していたが、この中に王名を入れると、長細くなって、銃の薬きょう(英語 カートリッジ)のように見えた所から、フランス語でカルトゥーシュと呼ばれるようになった。
フランス語では「花枠」の意味。カルトゥーシュの下の所は、縄の結び目を表現しており、終わりのないロープの結び目の形。第4王朝以前は、セレク(セレフと呼ぶ場合もある)と呼ばれる長方形の枠の中に王名が記された。
○人形型棺で手に持っている?状の棒「儀式用の杖、ヘカ」>
?(ハテナ)状の棒は、王権を象徴する儀式用の杖であり、上エジプト(ナイル川上流の国)の支配者としての王シャクでヘカと呼ばれており、【牧者(羊飼い)用の杖】を表現しており、元来は動物を群れから離すために使用していた羊飼いが持っている杖とか、毒蛇を突いて殺すための道具だったと想像されている。曲がった部分は羊の首にひっかけて捕まえる用途のため。アニメ「トイストーリー4」で主人公のボープ・ポーがこの杖を使って活躍している。
○人形型棺で手に持っているヌンチャク状の棒「儀式用の「からざお」、ネケク」>
ヌンチャク状の棒は、王権を象徴する儀式用の「からざお(殻竿)=モミを打つ竿」であり、下エジプト(ナイル川下流の国)の支配者としての【王用のシャクでネケク】と呼ばれており、冥界の王オシリス神の持ち物とされていた。本来はハエを追い払う道具と想像されている。
○王冠、被り物の名前>
ネメス>
ツタンカーメンの黄金のマスクで被っているのは、「ネメス」という頭巾で亜麻布で作られており、ライオンのたてがみをイメージしているという説もあり、普段、権威の象徴として被っていた。金色は太陽神ラーの体を、青色はアメン神など神の髪の色を再現している。 ネメス頭巾は後頭部にかけてふっくらとしているが、あれは頭巾の下に、人間の髪で作製したかつらを被っているためであり、かつらと頭巾が一体化した、現代風にいえばヘルメット、王冠を被っていたということ。
王冠は神から国王への贈り物であり、神自身も被っており、王冠自体が王権を敵から守ると考えていた。
アテフ冠>
オシリス神が被っているのは、「アテフ冠」でファラオが神前での儀式の際に被った。下記のヘジェト冠の側面にダチョウの羽をつけたもの。
ケペル・シュ冠>
ラムセス2世が戦車に乗って弓を引いている壁画中で被っているのは、「ケペル・シュ冠」で戦闘や勝利の凱旋の時に被った青い冠。 第二中間期以降に出現しているので、エジプト固有のものではなあく、アジアから影響を受けていると考えられている。マイケル・ジャクソンの曲「リメンバー・ザ・タイム」のビデオクリップでエディ・マーフィーが被っているのは金色のケペル・シュ冠であるが、平時に被る帽子ではない&彫刻によるとケペル・シュ冠は青色であるので、これは間違い。ケペル・シュ冠は、奇跡的に現代まで残ったツタンカーメンの墓からも発見されておらず、これまでに1例も実物が発見されていないので、ケペル・シュ冠は空想のもので実在はしなかったのではという見方もあるらしい。ちなみに、「リメンバー・ザ・タイム」で王妃が被っているのは、ツタンカーメンの義理の母、ネフェル・トイリが被っている帽子であり、この帽子は現在の所、ネフェル・トイリしか被っていないので、彼女のオリジナル帽と考えられている。
ヘジェト冠>
白くてオシャブリのような冠は上エジプト王の冠 ”ヘジェト”(白冠という意味)と呼ばれ、小枝で編んだ枠に白い亜麻布か革を貼って作ったと推定されている。この冠は、歴史上初めて古代エジプト王国を治めたサソリ王(スコーピオン・キング)が被っていた冠の形とされる。
デシュレト冠>
赤い帽子にワラビみたいなものがついているのは下エジプトの冠”デシュレト”(赤冠という意味)。下エジプトとはナイル川下流地域(ギザからアレキサンドリアの辺りの扇状地帯)のことを示しており、砂漠地帯が赤い(オレンジ色)ので赤い土地を古代エジプト語でデシュレトと呼んでいた。一方、毎年のナイル川の氾濫によって栄養分の富んだ黒い土地が農耕地を覆った場所はケメト(黒い土地)と呼んでいた。
パセケムティ(プスケントと呼ばれる場合もある。二重冠)>
白いオシャブリ状の冠と赤い帽子状の冠がミックスした冠は、二重冠(パセケムティ)で上エジプト、下エジプトを統治しているという意味を示している。歴史的に見るとエジプトは上エジプトと下エジプト(地中海に近い方)の二国に分かれており、これら2つの国が分裂したり、統一されたりを繰り返してきた。それで、ファラオ達は王名には必ず「2つの国の王」「上エジプトと下エジプトの王」という表現を用いた。
古王国から中王国時代までは、王妃は、天空の女主人と呼ばれた高貴な女神ムト、又はネクベト女神(王権の守護神)(翼をひろげたハゲワシ)の冠を被っており、新王国時代になると第二王妃以下は、ナイルの女神アンケトを象徴するガゼルを模した冠を被っていた。
その他に、ヘムヘム冠と呼ばれる冠がある。
○古代エジプトのファラオ(王)は、牛の【シッポ】をぶら下げていた。>
古代エジプト社会において、神の子であるファラオは神々と人間をとりもつ存在であり、最大の役割は神殿において様々な儀式を執り行うことだった。神々の永遠の住居として神殿は石で作られ、日々の儀式は大神官にまかせて、大事な時にファラオが儀式を行った。日常生活では、神々の祭りが非常に大事であり、祭りは国家的行事であり、全国民が参加して、市やカーニバルも開催されていた。
宇宙の秩序を司る神々が住む神殿は、古代エジプト人の考える宇宙を縮小したものであり、床はエジプトの大地、柱はパピルスやヤシなどの植物、天井は天空を象徴してデザインされていた。
ファラオが頭にかぶっているのはネメスという頭巾で、これはライオンのたてがみを表現しており、あごには付け髭。おまけに腰の辺りから力と繁殖力の象徴としてオス牛の【しっぽ】を意識したものをぶら下げていた。現在、エジプトは半分砂漠だが、クフ王のピラミッド時代は、アフリカは緑豊かな地であり、ライオンも闊歩しており、アフリカ北部が緑豊かだったのは、サハラ砂漠のタッシリ・ナジェール遺跡の壁画に牛の群れやワニが描写されていることからも分かる。
○壁画における男女の見分け方>
壁画においては、基本的に男女は肌の色で区別されており、男は茶色、女はクリーム色で表現されており、髪型や服装以外で男女が不明な場合は肌の色で見分ける。男装していたとされるハトシェプスト女王の彫像の場合、男の王の様式であるが、肌色が褐色ではなく、女性のクリーム色をしており、これが女性であることを示している。たまに黄色の肌の装飾があるが、これは神様が黄金色をしているという設定だったので黄色で黄金色を表現している。
胴体が黒い人形は、黒はナイル川が氾濫して栄養分豊かな黒い泥に覆われた状態を示しており、豊かさを表現している。また、オシリス神などが緑色の体をしているのは、植物が再生することを表現しており復活を意味している。古代エジプトにおいては、葬られた人に関する造形物については、魂が帰ってきた時に容易に分かるように、硬い石で本人そっくり(デスマスクなどを使用して)に彫像を作製した。
彫像の材料としては石灰岩や方解石、花崗岩が使用されたが、木製の彫像も作られた。砂漠で大木が生えないエジプトでは彫刻用の木は輸入品であり高級品であった。しかし、木製の作品は、シロアリや乾燥した気候の関係で残っている物は少ない。ちなみに、男の彫像は左足を前に出しており。これは権力や「生きている」ということの象徴らしい。子供は側頭部に編んだ髪をたらし、口に指を当てた姿で表現されることが多い。
墓の主人以外は、写実性は重要視されておらず、壁画の人物がみな同じ顔、姿である(=定型的である)のは人間の理想形(理想の人間像)を示しているためである。また、時代にもよるが、全体的に、女のアイシャドウ及び眉は男に比べて長く描かれている。エジプトの浮彫芸術の原則は極めて早い時期に確立され、頭は側面、目は正面(実物の人間の横顔から見たら「あり得ない形の目」の姿で、常にこちらを見ているという意味)、体は側面、首と肩は正面からというスタイルとなっている。
労働する人間の姿は、様式美から解放されて自由に表現され(=ありのままの姿で描かれた)、第18王朝ぐらいになるとテーベの石灰岩に浮彫をするのが困難なことから、壁面に漆喰を塗って、その上に顔料で描く方法がはじめられた。壁画を描く際は、まず下絵師が方眼(方眼紙の方眼)を描き、そのマス目にそってバランスよく正しいプロポーションで人や動物を描いていた。
古代エジプトでは壁全体に及ぶ絵は稀で、分割して物語風に表現する場合が多かった。壁画では、死者の食事が途切れないようにとの配慮から食事風景は重要な壁画の主題であった。古代エジプト人は、生前の食事を死後も続けることによって来世での生活が出来ると信じており、壁画に描かれた食事は永遠にそこにあると考えていた。死者にとって、描かれた食べ物は神や死者が呪文を唱えれば実物に変わり、供養に訪れる人がいなくなっても永遠に食べ物が得ることが出来るとの工夫だった。
古代エジプトの考えによると、空間には悪魔が浮遊していると考えており、部屋などの閉ざされた空間では悪魔を追い払うために香をたいた。空間を追い出された悪魔の一部は壁や天井にへばりつくと考えていたので、壁、天井などの無地の空間に悪魔が残らないように、絵画や文字で埋め尽くした。
○王族ミイラの見分け方。>
古代エジプトでは、身分におうじて三種類のミイラの作り方があり、王族は丁寧に作られているので、3500年以上経っても、状態よく残っている。それ以外のミイラは白骨化したり、風化したり、中世にヨーロッパで薬として輸出されたりして現在ではあまり残っていない。第18王朝後期以降のファラオのミイラは、胸の前で両腕をクロスした形にされており、王妃のミイラは左腕のみを曲げて胸に乗せた形(実際は手にムチのような何かを持っていた)になっているので見分けがつく。
古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの記録によると、ミイラ化の費用は処理方法によって異なり、ローマ帝国時代には簡素な方法でも材料費だけで2か月分の収入に相当した費用が必要だった。ミイラは人里から離れた墓地の近くで作成され、ミイラ職人以外は近づけないようになっていた。衛生状態の悪かった当時は、死体に卵をうみつける甲虫(デルメステス、おそらくカツオブシ・ムシの事)がおり、ミイラ化によって成虫になっても外部に出られずに死んだ多数(数十ー数百)の甲虫が発見されるミイラがたくさんあるとの事。
○古代エジプトの神様の見分け方。>
古代エジプトは「千の神々の国」と呼ばれるほどに、約1000の神々がいて、それらはすべて自然に由来するもので自然のパワーは神のパワーと考えられていた。神々は大きく分けて3つのグループに分かれていて、それはオシリス神などのエジプトを造った創世神のグループ、太陽神ラーのような国家の運営に関わる国家神、セクメト神のような地方の村や町を守る地方神のグループである。2000年経っても仏像の姿が変わらないように、古代エジプトの神々の姿は決まっていて、数千年たっても神様の姿は変化しなかった。
よく出てくる順
ラー>
ヘリオポリスという町の守護神だった太陽神。昼の船で天空を航行し、夜の船で地下を回る。
アメン神>
アメンとは「隠されたもの」を意味し、本当の名前も姿も決して明らかになることはないとされていた。元々はテーベという町の地方神。テーベにはメンチュ神という神もいた。彼は命を与える見えない偉大な力を有しており、創造神とされた。元来は風の神だが、エジプト最盛期の国家神となり、太陽神 ラーと合体してアメン・ラーと呼ばれることも多く、牡羊の姿で表現される場合も多い。アメン神は太陽神ラーの持つ太陽の力を取り入れ夜ごと太陽を運び、冥界を旅する役割を担っていた。妻はマアト女神、息子はコンス神。
マアト、マート女神>
太陽神ラーの娘で、真実と真理、バランスの女神。宇宙の秩序が神格化された神。頭にダチョウの羽をつけているのが目印で、時に、翼をつけた状態で表現される時もあるが、これはイメージであり、当時のエジプト人も、神様が実際にこの格好をしているとは考えていなかった。「ダチョウの羽」のヒエロ・グリフもマアトと呼ぶ場合がある。
ホルス神>
鷹(はやぶさ)の顔をしている神様で天空の神と考えられ、右目は太陽、左目は月であると考えていた。冥界の王オシリスの息子で王の守護神。歴代のファラオはオシリスの息子の化身であると称してホルスに関するものを身につけた。ツタンカーメンの胸飾りなどにもホルスの姿がある。
ホルス神の息子としては鷹頭のケベフセヌフ(腸担当)、ヒヒ頭のハピ(肺担当)、人頭のアムセティ(肝臓担当)、山犬(=ジャッカル)姿のドゥアムトエフ(胃担当)がおり、これら4人の息子は死者の内臓を守る役目があった。ちなみに、内蔵をカノポスと呼ばれる壺に入れて保管する習慣は、古代ローマ時代には廃れており、内臓を樹脂で固めたものをミイラ体内に戻す処理が施されていた。
ホルスはハヤブサの頭をした人間の形で表現されることが多いが、子供時代は普通の子供の形を取ったもの(この形式は古代エジプト語でホル・パ・ケレド(ホルス、その子供という意味)と呼ばれており、ハルポクラテス神とも呼ばれる)もあり、ホルス神は呪力があるのでサソリや毒虫よけのお守りとして信仰されることもあった。 神話によると、ホルスはセト神との激しい戦いの末、王位につくが、この戦いで片目を失うが、知恵の神のトト神の協力によって片目を取り戻したといい、これは月の満ち欠けを表現しているという。
オシリス神>
オシリス神は、伝説上の最初の王で、人に農耕を教え、法を与えたが、これを妬んだ弟のセト神によって体を切り刻まれ、エジプト全土にばらまかれた。妻であるイシスはオシリスの体を集めて、布で巻いたために、ミイラの姿をした冥界の支配者としてよみがえり、息子のホルス神をもうけた。
イシスがオシリスの頭部を発見したアビドスという土地がオシリス崇拝の中心地となった。冥界の王で穀物の神。永遠の命の象徴。セト神は弟。女神イシスは妻であり妹。オシリス神は死者の神としての役割から常にミイラと同じ白い屍衣をまとっている。 古代エジプトでは、穀物神として信仰を集め、毎年、穀物の種と泥でオシリス像を作製し、土に埋めて豊穣を祈るという呪術儀式が行われていた。
古代エジプトでは、初期はファラオだけが、中期以降は死んだ人すべてが死後にオシリスになれるといわれて、ミイラを作製し、ミイラを布で巻く習慣は、女神イシスが夫のオシリスのバラバラ遺体を集めて、布で巻いて(正確には妻イシスがオシリス用の包み布を織り、妹のネフティスが包帯を織り、紡績の神ヘジ・ヘテプが糸を紡いだ神聖な布の素材)復活させた故事に由来している。
アメミット>
冥界への入り口の際に、生前の行いに関して玉座に座ったオシリス神と42人の審判が居並ぶ前で裁判が行われる。死者の心臓がマアトを象徴するダチョウの羽とつりあえば、死者は冥界で暮らせるが、つりあわなければ、そばにいる怪物が死者を食べるとされた。頭はワニ、体はライオンのような怪物の名前をアメミット(死者を食べるものという意味)という。
アテン神>
太陽神で、太陽神ラーと同じ?かは不明であるが、アテン神は太陽光の事を意味しているのが太陽そのものを示すラーと異なる。ツタンカーメンの父のアクエン・アテンがアメン神を排除して信仰した神がアテン神で、通常、太陽光の先が手になっていて手には生命を示すアンク(サンダルの紐をモチーフにしたもの)を持っている形で表現される。
アヌビス神>
野犬(山犬、おそらくジャッカルか狼)の形をした墓の神。神話によると彼はミイラ作りを発明し、オシリス神の切断された遺体をミイラに処理したとされ、ミイラ作りの神でもあり、体が黒いのは、ミイラ作りに使用するタールの色 、昔、ナイル川が洪水によって定期的に運んできた栄養豊かな黒い土を示しており、死者の再生を暗示している。
古代エジプトでは【インプウ】と呼んだ。山犬(ジャッカル)は、浅く埋めた遺体を掘り起こして食べるために、墓地をうろついていたので、山犬が遺体を守っていると思い、墓の神とされた。古代エジプトでは、飼い犬もジャッカルもいたが、厳密に区別していなかったので、アヌビス神は犬、ジャッカルが元型であるという表現になる。アヌビスはイミウトという呪物を飾ることがあり、イミウトは頭を切り落とした動物の皮に詰め物をして竿に吊り下げたもの。
セト神>
オシリス神の弟で戦い、砂漠の神様。オシリス神のように創造能力がなかったので、兄を妬み、オシリス神を殺した。古代エジプト神話では悪役であるが、戦いの神様ということで「セティ○世」と名前につけるファラオもいた。キリスト教でいうところの悪魔、サタンという名前も、約5000年前の古代エジプトのセトに影響を受けていると思われる。セトの姿は、ツチブタがモデルになっていると考えられている。動物の羚羊(レイヨウ、カモシカの一種)は邪悪なセト神と結びついていると考えられ、魔よけの意味でレイヨウをかたどった道具もある。
プタハ神>
メンフィス地区の主神(国家の守護神)で、世界万物の創造神。世界はプタハ神の言葉から始まったという設定になっていた。技術の神様でもあり、ガラス工房の職人がかぶっていたつるつるのヘルメットのような丸い被り物が特徴。妻はセクメト神。息子はネフェルテム神。メンフィスは古代はイネプ・ヘジュ(白い城壁)という名前で、プタハ神の姿がシュメール文明の神官の姿とそっくりなので、シュメール文明に影響されていると予想されている。
イシス女神>
古代エジプト名はアセト(アストと呼ぶ場合もある)で玉座を意味している。オシリス神の妻でホルス神の母親。妹はネフティス女神。授乳などの母性的な姿で現され、この授乳スタイルは西暦300年あたりまで信仰され、後のキリスト教の聖母子像の原型になったとされる。頭にイスのようなもの(王座、玉座)を乗せているのが目印で、時に翼をもっている形式でも表現される。
また、頭上に牝牛の角に太陽円盤を乗せた姿でも現される。王座を頭に乗せているので「イシス(=ギリシャ語で王座?)」と呼ばれるが、古代エジプト名では「アスト」と呼ばれ、ホルス神の守護者であるのでファラオ(ホルス神の化身)の保護者と見なされた。ちなみに、神様の髪は、ラピス・ラズリの青色であり、ファラオが被るカツラも青色であった(ツタンカーメンの頭巾も、ホルス神の髪も青色。)。
神話によるとイシスは殺されてバラバラになった夫オシリスの遺体を集めた後に呪術で復活させて(オシリス神のペニスだけ見つからなかったが最終的には、イシスがペニス代わりのものを用意して代理ペニスに息を吹き込んでオシリス神を復活させたとされる。)息子ホルス神をもうけ、妹ネフティスとともにオシリスを葬り(この時にバラバラ遺体を布で巻いた)、その墓で死を嘆いた。このことからイシス、ネフティス、ネイト、セルケトの4女神が死体の守護神として死者の石棺の4隅を守ることになった。オシリスを呪術で復活させたので魔術を司る女神でもあった。
ネフティス女神>
古代エジプト名はネブト・フウト。館の女主人という意味で、イシス女神の妹で、頭に、「館の女主人」を表すヒエロ・グリフを乗せているのが特徴。墓の用具を守る神とされた。
ハトホル女神>
愛と美の女神でメス牛の姿で表現され、頭に牛の角と太陽神ラーの円盤を乗せているのが特徴。時に、大衆的形態としてカバの姿のターウェレト女神の姿でも表現され、出産時の母子を守った。古代エジプト語で「ホルス神の家」を意味し、音楽や踊りの女神。天空は牝牛と解されていたので、頭上の角の間に太陽の円盤を乗せた姿で表現される。ハトホル女神は、ボリュームのある髪型をしているのが特徴で、人間の顔に牛の耳の形であらわされる場合が多い。ハトホル女神は、パピルスがこすれて出る音が好きで、この音により出現すると考えていた。ハトホル女神に関係する楽器としてメナトがある。
セクメト女神>
ライオンの頭を持つ女神で、頭に太陽神を示す円盤を乗せている。プタハ神の妻。戦いの女神で火を吐く。子供はネフェルテム。太陽神ラーの娘で、ラーの敵に対して破滅をもたらす。セクメトは「切り刻む者」、「襲う者」、「引き裂く者」など様々な呼び名を持つが、「力強き者という意味」という呼び名がよく知られている。セクメトは残酷さと優しさの二面性があり、父ラーの敵に対する時はライオン頭の像で表現され、優しさを表現するときは、猫頭のバステト女神で表現される。
バステト女神>
ネコの頭を持つ女神で、セクメト女神にそっくりだが、頭には円盤がないのが見分けポイント。女性、出産、幼児の守護者として慈愛深い神として崇拝された。古代王朝初期は、メス・ライオンの形だったが、中王国時代頃からネコがペットとして飼われるようになると、ネコの姿で描かれるようになった。
ヌト女神、ヌート女神、ヌウト女神>
天空の女神で、細長い体をしており、体に星空が描かれている。大地の神ゲブとの間に、オシリス、セト、イシス、ネフティスという子供を持つ。毎夕方、太陽神ラーを飲み込み、毎朝子宮からラーを産むとされ、その体は太陽、星の通り道とされた。ヌート女神は天の川を擬人化したものとも考えられており。冬至の夜明け前の星の配置が太陽誕生の神話を生じさせたとされる。
シュウ神>
アトゥム神の子供で陽光と大気の神様。シュウとは「立ち上がるもの」という意味。大気の神様で娘であるヌト女神を支えるのが仕事で、ヌト、シュウ、ゲブはセットで表現される。ダチョウの羽であらわされることが多く、見えない空気をダチョウの羽の動きで示した。
ゲブ神>
大地の神様。植物の実る豊かな地面を表す。大気の神シュウと湿気の神テフヌトの息子。天空の女神ヌトが妹で妻。オシリス、セト、イシスネフティスは子供。
アトゥム神>
アトゥムとは「すべてのもの」という意味で、世界の創造神で、夕暮れの太陽と同一視され、太陽神ラーと習合し、後にラー・アトゥム神となった。
テフネート女神>
ライオンの頭で湿気の女神。大気の神シュウの妻で、天空の神ヌトの母親。
コンス神>
月の神。ハヤブサの頭で満月と三日月の冠が特徴。
ムト女神、ムウト女神>
禿鷹(ハゲワシ)の被り物をした女神。エジプト語で母を意味し、アメン神の妻でもある。ただし、ムトがアメン神の妻であると言われだしたのは18王朝あたりからであり、それ以前はアメン神の妻は、アマウネト女神である。クレオパトラが被っている王冠が、ムト女神であることを象徴している。おそらく英語のマザーの語源となっている。第一王妃の被り物がムト神を象徴するハゲワシの形であり、第二王妃以下はナイルを象徴するアンケト女神であるガゼルの形の王冠を被っていた。
ソベク神(セベク神)>
ワニの頭をもつ神で、水の神、多産の神。古代エジプトでは全土に大型のナイル・ワニが生息しており、恐れられるとともに崇拝もされ、2000体以上のワニのミイラが発見されている。
メンチュ神>
戦争の神、外観はホルス神と区別つかない。
ネフェル・テム神>
プタハ神の子。匂い膏の神。ネフェル・テム神の母はセクメト神で、ロータス(ハス)が神格化されたものと考えられていた。ロータスは古代エジプトでは重要な植物で、ロータスから昇った太陽神は世界を造ったとされて誕生と再生、生命授与の象徴であった。
セシャト女神>文字の女神。
ケプリ神>
頭がスカラベ(フンコロガシ、タマオシコガネ)で出来ているヘリオポリスの創造神。昇る太陽神とみなされた。 スカラベの古代エジプトでの発音が「ケプレル」で創造神ケプリに似ていたので、フンコロガシがケプレの表れと考えていた。スカラベはヒエロ・グリフでは「生まれてくる」という動詞でもある。
クヌム神>
創造力の象徴。ロクロによって人間をつくり出すとされ、陶工の神様とされ、羊か羊頭の人間で表現される。
トト神(イビス)>
トキの頭をもつ神で、知識、学問、記録、暦などの神で神々の書記をしていると考えていた。また、すべての知識はトト神から生まれたと考えられていた。
トトメスというファラオ名は「トト神の子」という意味。トキやマント・ヒヒの姿で現され、古代エジプト名は「ジェフウティ」。イビスはトキの一種、(アフリカ・クロトキ)のことで、古代では「ヘブ」と呼ばれていた。 古代エジプト人はマント・ヒヒの賢さを知っており、マント・ヒヒは日の出と日没に叫び、飛び回るマント・ヒヒの姿を見て、太陽神に対して喜んでいると思った。
ネト女神(ネイト女神)>
狩猟と戦争の女神で先王朝時代までさかのぼれる古い歴史をもった女神。主に下エジプト(ナイル川の下流地域)で崇拝されていた。
ミン神>
勃起した男根を特徴とする生殖の神。
ネクベト女神>
上エジプトの守護神。上エジプトに由来する「ネケブのもの」を意味するハゲワシの姿で表現され、ツタンカーメンの黄金のマスクでは、下エジプトの守護神であるウアジェト女神と一体で、上下エジプトの支配者を表現している。
ハピ神>
ナイル川の増水を司る神。古代エジプト人は、ナイル川しか知らなかったので、ナイル川は単に「川(イルゥ)」と呼び、正式には定冠詞The(ナァ)をつけて「ナァ・イルゥ」と記述していたのを聞いたギリシャ人がナイル川と名付けた。
セルケト(セルキス)女神>
サソリ、もしくはサソリを頭上に乗せた女神で表現され、ミイラにされた肉体と葬儀用具を守護する女神。太陽の灼熱を表現したとされる。
ベス神>
ライオンのたてがみと耳をして、黒人の顔つきの半人半獣の神。夜の守護神として眠りを守り、妊娠と出産を保護する神、ワインの神でもあり、醜い小男である(腰にベルトを巻き、背中にはサルの毛皮をまとっている)のが特徴。グロテスクな外見で人々を邪悪から守り、危険を遠ざけると信じられていた。偉大な神々とは異なり、ベス神は大衆に親しまれ、民家の家に祭られることが多く、地中海全域にベス信仰が広がっていた。古代エジプトでは生まれつき体が極端に小さい人は神から与えられた特別な人間として高い地位が与えられていた。
セラピス神>
プトレマイオス朝時代にエジプトとギリシャの融和を図るために生み出された神で、頭上に編み籠を乗せているのが特徴。妻はギリシャ神話のデメテル女神。娘はペルセフォーネ。初期はエジプト地域では信仰されなかったが後に古代ローマ帝国の支配地でイシス女神と共に熱心な信者を獲得した。
ターウェレト(タウレト)女神>
カバの頭、ワニの尾、ライオンの足をもつ架空のメスの動物として表現される。妊婦と出産の保護者。 古代エジプト語では「偉大なるもの」という意味。
アマウネト女神>
アメン神の妻は、一般にはムト女神となっているが、これは18王朝以降の話であり、それ以前はアマネウト女神がアメン神の妻ということになっていた。これはアメン神の名前を女性化して読んでいるもので、アメン神の女性的な部分を表現したものであり、アマネウト女神とアメン神は実質は同じものであるとされている。古代エジプト語では、「~ト」は女性の名前になることが多く、ハトシェプト女王、マアト女神、バステト女神など、みんな「ト」がついている。ちなみに、映画「ザ・マミー 呪われた砂漠の王女」で、アマネットという王女が出てくるが、アマウネトからイメージしてアマネットと名付けたそうだ。
マフデト>ヒョウであらわされる神様。天空の神で太陽や王、人間に命を与え守護すると考えられていた。
ベヌウ>
サギの形をしたヘリオポリスの聖なる鳥。永遠の命のシンボルとされ、フェニックス(不死鳥)の語源となった。
ジェド柱>
安定や永続の象徴で、柱の周りに穀物の穂を巻きつけたもので、新王国時代以降は、その形からオシリス神の背骨と考えられるようになって崇拝の対象となった。
ウラエウス聖蛇>
火を吐くコブラ、王族の額に表現されるコブラで、同じコブラのウアジェト女神(下エジプトの守護神)の化身の姿。ウアジェト女神はコブラやメス・ライオンの姿で現され、火を吐くメス・ライオンという意味では、セクメト女神に近い。古代エジプトではイアレトと呼んでおり、第一王朝の頃から王の額に表現されている。
ウアス杖>
神が手にしている杖で、上部はセト神を示すイヌ頭で、下部は2つに分かれている。ヒエロ・グリフでは支配を意味しており、神が王に与えるものとされた。
オペトの祭り>
神年に一度、アメン神がカルナック神殿から妻のムト女神のいるルクソール神殿を訪れる祭礼。アメン神像が聖船に載せられて行進した。
○ガラス、ファイアンス>
メソポタミアに始まったガラス工芸は、ハトシェプスト女王の次の時代トトメス3世時代以降に盛んになった。ガラスの成分はファイアンスとほぼ同じだがファイアンス(エジプトでは6000年前から作られていた)が粒子の細かい石英砂であるのに対して、ガラスは炭酸カルシウムや炭酸ソーダ(炭酸ナトリウム、この時代、おそらくナトロンという自然塩)、顔料を混ぜて、灰の中で徐冷することによって不透明な練りガラスが作製された。
水色の釉薬がかけられて作成されていることが多いが、水色は人間に作物を与えてくれるナイル川の川の色や「命を生み出す原初の水ヌン」を表現している。一方、濃い青色のファイアンスは夜空の深い青色を表現している。ファイアンスは、砂に天然塩と少量の石膏、青の発色剤である酸化銅を水と共に混合して粘土状になったものを型に入れたのち、一日前後乾燥させたものを900℃程度で焼成した焼き物であり、石英が主体の砂がナトリウム、カリウムなどの塩分でガラス化することによって固まったもの。ガラス製品は王宮付属の工房でのみ作製され、王族の権威を示すものとして宮中で使用された。
○スカラベ>
コガネムシの一種であるスカラベは再生の象徴(スカラベは動物の糞を丸めて運び、その姿が太陽を転がしているように見え、糞の中に卵を産むので、糞から誕生したように見える)で、護符や印章の形としても使用され、高級官僚が王から賜る印鑑も中王国時代以降、スカラベ型になり、高価な材質で作製された。
一方、ファイアンス製の安価なスカラベは虫と同じサイズで型押しで大量生産され、役人の名刺代わり、お土産品として配られた。「死者の書(第30章)」には心臓スカラベの素材を緑の碧玉と定めてあるが、実際にはガラスやファイアンスのスカラベが多く、復活を意味する緑色であることが重要だった。
○ウジャト(ホルスの目)>
ウジャトとは「健康である」、「損傷のない」という言葉が語源で、人間と、ホルス神であるハヤブサ、豹の目を組み合わせたもの。オシリス神を殺したセト神と戦ったオシリスの息子、ホルス神がセト神によって片目をつぶされたが、医療の神でもあるトト神によって治ったという伝説から、ホルスの目にはお守りの力があると信じられ 、護符(アミュレット)として盛んに製造され、護符は石やテラコッタ製の鋳型を使用して大量に制作された。
○スプーン、さじ、柄杓>
古代エジプトの食事では、固形物は手づかみで、液体は深鉢から直接飲んだ。よって遺物として残されているスプーンなどは、化粧用や祭事用の道具であり、繊細な装飾が施されていいる。豪華な杓は、王族用のワインの入れ替えに使用された。
○セド祭>
王位更新祭。王の治世30年目に王権の強さを回復するために行われた再生と復活の儀式。在位30年未満でも開催されていた記録がある。
○墓泥棒の目的物>
当時、香は「神様の汗」という認識であったので、墓泥棒は壺に入った貴重な軟膏や油を盗む目的で墓荒らしをしていた。当時は、泥棒は墓に忍び込んでも一部づつ盗み出し、貴金属は地金に戻して闇市で希望の商品と交換していた。ツタンカーメンの財宝は、当時の黄金文明からすると圧倒的に少量であり、貴金属のほとんどは現在は形を変えて世界中で流通している。墓泥棒がつかまるとたいがいは自白を待っての死刑だったが、刑務官を買収して釈放されるケースも多かったとされる。
○ロータス(スイレン)>
古代エジプトでは睡蓮(ハスとは別の植物)はパピルス草と並んで最も珍重された植物の一つで白蓮と青蓮があり、その芳香は人間の生の息吹きとされた。スイレンは上エジプトの象徴で、朝に花開き、夜になると閉じるので、再生のイメージと結びつけられた。睡蓮は南エジプトの象徴で、パピルスは北エジプトの象徴として表され、パピルスとロータスの二つを同時に表現することで上エジプトと下エジプトの統合を意味している。
○古代エジプトの商売方法>
古代エジプトでは基本、硬貨がなく、物々交換であったが、物対物では、物の価値を簡単に比較できないので、「シャト」、「デベン」という重さの単位を使用し、1シャト(約7g)は12シャトで1デベン(約90g)と考えて、物の重さをシャト、デベンに換算し、その重さ=価値の基準から、相手の物の価値を推定していた。
○パピルス>
パピルスはカヤツリ草の一種。パピルス紙は6000年以上前から始まっており、パピルス草の芯を細長く裂いて、縦横に重ねて圧縮し、周辺を裁断して使用され、エジプト王家の専売品として取引される貴重な品だった。書記は、墨を天然ゴムに溶かしてインクとし、1巻の書物は約20枚のパピルス紙をつなぎ合わせて作成され、10m以上のものもある。初期は右から左に縦書きされていたが、中王国以降は横書きされるようにもなった。下エジプトを象徴する植物でもあった。パピルスはくるくると巻いて紐でしばり結び目に粘土の塊をおいて印章で封印して保管していた。現在ではナイル川流域では自生しているパピルスはなく、古代も人間が栽培していたのではないかと想像されている。
○書記について>
古代エジプト社会では、最高権力者は神であるファラオだったが、その他に、宰相や書記、神官などがいた。書記は読み書きの習得に時間がかかるが、ファラオの発言を記録したりするために優遇されており、若者の立身出世への近道だった。「書記」といっても、実際に筆を持って記録する人ではなく、実際には神官階級の一員であり、今でいう総理大臣のような役目である。
書記の中でもランクがあり、最高位は宮廷の書記、次に神殿の書記、軍隊、学校、行政組織の書記などがいて、彼らは税を免除されるという特権階級に属していた。書記の像は、典型的な役職を示しているだけなので、死者本人に似せる必要はなく、分業によって大量生産されたという。書記と神官は立場が近く、たびたび役職が交換されるような事があった。書記は聖書の中で「偽善者」と、さげすまされた表現をされている。古代エジプトは、柔軟な社会体制であり、農民出身でも教育を受けて軍人、書記、宰相になることが出来た。
○医者関係>
当時、エジプト医学の名声は、古代オリエント全域に知られており、外国の貴族が治療に来たりしていた。医者は自分の息子や弟子に知識を広めることによって知識を蓄えており、既に専門医制度が出来上がっており、ヘロドトスは「至る所、医者だらけ」と記述している。医者は国の監視下におかれており、患者が死んだときには、なぜ死んだのかの報告書を役所に出さなければならなかった。
○裁判制度>
古代エジプトでは「マアト(公正、真実、正直)」思想があり、公正、正直、ルールを守るという事に重点が置かれていた。古代エジプトの三大都市(テーベ、メンフィス、ヘリオポリス)に裁判官10人からなる裁判所が3つ設けられており、裁判官は十分な待遇を受けて汚職とは無縁であった。一般人、奴隷を殺したものは、身分にかかわらず、死刑(偉い人は自殺刑。)に処され、共犯者や傍観していた者も厳しい罰を受けた。盗みを傍観していたものは3日3晩、ムチで打たれ、食事を断たれて留置された。
我が子を殺した父は、3日間死んだ子を、体に縛りつけられた。また、親を殺した子はアシで縛られ、茨の上に投げられ、生きたまま焼かれた。盗み、詐欺は鞭打ちの刑、強盗は死刑とされた。
○アイシャドウについて>
アイシャドウはコホル(アラビア語でアイシャドーという意味)と呼ばれ、新王国時代までは、孔雀石に含まれる硫酸銅の緑色や赤鉄鉱の赤色の粉末を目のふちとまつげに塗っていたが、新王国以降は、黒い方鉛鉱石をすりつぶしたものを水や獣脂、樹脂にといて目のまわりに塗っていた。古代エジプトでは悪魔がいるとの考え方があり、どんな人でも悪魔に魅入られると悪人となって悪事を働くと考えられており、悪魔は油断している人を見ると目から体の中に入り込み、特に女性は悪魔に取りつかれやすいので化粧をするようになったと考えられている。
初期は指で塗っていたが、中王国以降は棒状の物で塗っていた。水分の少ないエジプトでは、ハエがたかるのでハエから病気をもらう可能性があり、このハエ対策として目を守るため&エジプトの強い日差しから目を守るために目の周りに塗ることが習慣になっていて、男、女、子供もアイシャドウをしていた。また、王族に関しては、王=オシリス神の息子ホルス(=ハヤブサ頭の人間)という位置づけであったので、ハヤブサの目をイメージしているともいわれる。ハヤブサの目をイメージしたものに「ホルスの目(=聖眼ウジャト)」という護符があり、これはラッキーアイテム、魔除けとして日常的に身につけた。実際にはハエ対策で眼病予防の効果(目の周りが黒い事で、ハエからすると既に仲間のハエが目にたかっていて黒くなっており、自分のたかる余地がない=目にたからないというメカニズムか?&顔料の銅成分の殺菌効果?)のためと思われており、1798年にナポレオン軍がエジプトに侵攻した際には多くの兵士が眼病に悩まされた事実からもアイシャドーの効果が分かる。
全般的に、女はアイシャドウとまゆが長く描かれている。アイシャドウの塗り方には、時代的に2種類あるようであり、古代エジプト前期は、【目頭から鼻の方向に向けて黒い線】を引き、古代エジプト中期以降は、ツタンカーメンのマスクに見られるように【目じりから耳方向に】アイシャドウの線が引かれている。
○古代エジプトの黄金信仰>
古代エジプトでは、太陽神ラーを国家の中心的な神として崇拝しており、金の色、永遠に色褪せない輝きを太陽神ラーの体の色として、黄金を信仰するようになった。黄金を貼ったり塗りつけることのできない広い場所や盗難のおそれのある建物には黄金に似せた黄色の顔料を塗っていた。ファラオのように黄金が大量に入手できない貴族は、金箔をミイラの顔にぬって金のマスクの代わりとした。
王族のミイラは、金のマスク、足の指、手の指(遺物から見るに古代なのに爪もキレイに切っていた)などの金製のかぶせ物をしていたが、これは金で太陽の色を表現したとともに永遠に変色しない金属としての金の特徴を生かして永遠を望む古代エジプト人の趣向にあったものだった。
○イム・ヘテプ>
映画「ハムナプトラ」で出てくるイム・ヘテプ(王の愛人を奪う役)は、第3王朝ジェセル王の宰相で、従来のマスタバ状の王墓を改良してピラミッド型に設計した人で、映画の役回りとは何も関係ない。彼は庶民生まれながら王の右腕である宰相まで出世したことで有名だった。
○ミイラの作り方>
エジプトは乾燥した土地であるので、砂漠に遺体を埋めると自然にミイラ化したのであるが、豪華な棺などで覆うと、ミイラ化が進行せずに腐敗するようになり、これでは復活できないという事になって、ミイラ作りが進化したという。古代エジプトでは、ミイラとなってオシリス神の姿になった者をサーフ(栄光に達した者)と呼んでいた。ヘロドトスによるとミイラ作製に要する時間は70日間であり、この70日間というのはシリウス星(古代エジプト人は「鋭きもの、力強きもの」としてソプデトと呼んだ)が太陽との合朔によって姿を消す期間と一致しており、古代エジプト人にとっては死者が復活するのに経過しなければいけない時間だった。確実な資料によると、ミイラ化は死後4日目から始まり、52日間ナトロンに漬けて乾燥させ、16日間かけて包帯が巻かれ、納棺3日後に埋葬されたという。ミイラの包帯は、カイコなどの虫のまゆ(おそらくスカラベ(フンコロガシ)の繭)をイメージしており、死後の再生としてまゆから出てくることを表現している。
ミイラ作りの際、死者の身に触れたものは身を拭くのに使用したボロキレからナトロンにまみれた詰め物まで、すべて容器にいれて保管した。また死者の体内から摘出した内臓(心臓は最後の審判の際に使用するので残しておく)は、肝臓、腸、胃、肺に分けてホルス神の4人の子供を表した壺 (カノポス壺、この壺の形はカノポスという町で信仰されていたオシリス神の形に似ているのが名前の由来)に収められ、ミイラと共に埋葬された。当時、知性や生前の行いは心臓にあると考えていたので、脳みそは重要視されていなかった。
古代エジプトのミイラ作りは費用と手間から3段階に分かれており、手の込んだミイラ作りは最も高価なものであり、少し安価な方法としては、肛門から注入器で腹の中に杉油を流し込み、70日間ナトロンに漬けた。その後、杉油を流しだすと内臓は溶けて一緒に体外に出て、残った骨と皮は包帯も施さずにそのまま近親者に渡した。また、一番安い方法は下剤によって腸内を洗浄した後、70日間ナトロンに漬けておくだけだった。
このように何千年にわたって膨大な数のミイラがエジプトに残っていたが、16世紀に薬品(生薬)としてミイラの世界輸出が始まると、おびただしい量が盗掘され消費され、現在では残っている数が少ない。ミイラは英語ではマミーでこれはアラビヤ語のムミヤー、ペルシャ語のムーム(蠟、ろう)に由来するが、アスファルト(瀝青)も意味する。しかし、実際にはミイラ作りにアスファルトを使用するのは古代エジプト末期のローマ時代になってからである。
〇後期の古代エジプト人はピラミッドに興味なし>
古代エジプト人は、ピラミッドについての記述を残していない。古代エジプトは約3000年続き、巨大ピラミッドが作られたのは、初期(4500年前)なので、ツタンカーメンの時代(3500年前)においてさえ、1000年前の古代の遺物だったからと考えられている。
〇古代エジプトの国名>
古代エジプト人は自分たちの国をケムト(黒い土地という意味)と呼んでいた。ナイル川は、毎年数か月増水し、黒い肥沃な土によって覆われて、その後に豊かな農作物を得ることが出来たから。
〇古代エジプトの信仰、霊魂の考え方>
第18王朝ハトシェプスト女王葬祭殿に刻まれた内容によると子供を創造するのはクヌム神で、クヌム神は土人形を作り、鼻に「命の印」であるアンクを差し出して命を与えるとされていた。キリスト教の聖書では神は土(アダマ)のチリで人(アダム)を形づくり、鼻から命の息を吹き入れたとあるので、聖書も古代エジプト神話の影響を受けているとされる。古代エジプト人は、アンクは命であり、霊魂ではないと考え、三種類(バァ、カァ、アク)の魂の形を考えていた。バァは死者の頭を持った鳥の姿をした霊魂の形であらわされ、ミイラから出て墓から出て、捧げられた供物を得るなど人間の基本的な欲求を満足させるとされた。カァは生命力のような存在でミイラが損壊されても復活を可能にするためにカァ像として死者の彫像が作られた。アクは来世で永遠の命を得た死者の形とされている。
〇古代エジプト人の人種>
古代エジプト人は、黒人ではないアフリカ土着の人種と、アラビア地方のセム人(アッシリア・バビロニア語、フェニキア語、ヘブライ語、アラビア語を話す人々)の人種の混血だった。しかし、領土が拡大した18王朝以降は、黒人も混じって住んでおり、これは壁画でも黒い肌をした人で表現されている。
〇ファラオの由来>
王朝時代のエジプトの王たちはファラオ(英語の読み方)と呼ばれるが、これは古代エジプト語の「ペル・アア(大きな家)」が語源で、ヘブライ語のパルオ(聖書ではパロ。創世記の12.15に記述)を経てファラオという呼び名になり、これは古代エジプト語で「大きい住まい=宮殿」を意味していたのが、後に王の意味を持つようになった。実際に古代エジプト人はファラオのことをパロと呼んでいたらしい。日本語の「殿様(御殿にいる人)」と同じ使い方で、国王を意味するファラオという呼び方は新王国以前には使用されなかった。
よって、古王国時代のクフ王はファラオとは呼ばれなかった。王は古代エジプト語ではネスウと呼んだ。国王は絶対的な支配者であり、原則的に全エジプトの国土や住民の支配者とみなされたが、実際には実力を見せなければならなかった。国王は内政、経済、外交、宗教などすべてに関与し、新しい国王、普通は長男は統治開始にあたって、まず数年の海外の軍事遠征に参加して実力を証明した。
また、国王は外国の王室と外交的な婚姻関係を結んで国際親善を図る必要もあった。国王は皇太子、二名の宰相、二名の財務管理官、王家直轄管理官、穀倉管理官などに支えられて統治し、有力な神官団を支配するために、国王は王子や王女たちを最高位の神官に任命した。
〇ピラミッドの数>
今日、エジプトには50-60のピラミッドが確認されているが、そのうち大型のものは第3王朝(ジュセル王、スネフル王)、第4王朝(クフ、カフ・ラー、メンカウ・ラー)時期に集中しており、メンカウ・ラー王以降は大型のものは作られなくなった。
〇ピラミッドの形の由来>
ギザの三大ピラミッドは、元来はアスワン産の白色の石灰岩で覆われており、その稜線は太陽光線を模したと言われており、ファラオが自らを太陽神ラーになぞらえていたことはまちがいない。
〇エジプトという名前の由来>
エジプトという名前は、ギリシャ語のエギュプトスという名前に由来。このギリシャ語名は古代エジプト人がメンフィスのことをヘカ・プタハ(プタハ神の魂の家)と呼んでいたことに由来。ちなみに、古代エジプトの敵は北方のアジア系のシリア人と南方の黒人だった。死者は、エジプトの秩序を保護する義務も課せられており、死者のはくサンダルには、たいてい捕虜の絵が描かれている。
〇クフ王のピラミッドの施工精度>
底辺230.36m、高さ146.7m、傾斜角51度52分。方位は4600年前に建造したにも関わらず、真の東西南北よりも0.0228度ずれているだけ。底辺の水平度は底辺四隅同士でも200m以上離れても2cm程度の誤差。均質な大きさの石を積み重ねたのでは、地震などで横方向に振動した場合、石組がずれる恐れがあり、石同士は石灰を水で溶いた接着剤で固定されているが、地震などでずれる際は、それぞれの石はピラミッド内部方向にずれてピラミッドが固まる方向になるように工夫されている。最近では、クフ王のピラミッドは、周囲を石で積み上げただけで内部は石の破片を詰めただけという説も浮上している。
〇庶民の食事>
一般庶民は、小麦、大麦から作られたパン(現代ではインド料理のナンみたいなもの)が主食で、副食は玉ねぎ、ニンニク、アスパラガス、キャベツ、レタス、セロリ、レンズ豆、えんどう豆、ヒヨコ豆、オリーブ油、ナタネ油、ナツメヤシ、イチジク、魚で、牛、羊、ヤギ、ニワトリ、アヒル、ハトなどは特別な日にのみ食べられた。当時は貨幣がないので、このような食料が給与代わりであり、余ったものを市場に持って行って欲しい物と交換していた。
この時代、台所は男性が担当し、女性はパン作りやビール作りが担当だった。ビールは王から庶民までの飲み物であったが、ワインは王家の飲み物で、ブドウ園の経営、ブドウ酒製造は王家の直轄事業だった。塩はエジプトでも作られ、甘さはハチミツ(蜂は下エジプトの象徴)で、油分は家畜の脂肪で賄われていた。古代エジプト人は食事の前に手を洗うために銅製の鉢と水差しを使っていた。当時、サトウキビは存在しないので砂糖はなく、ウリやスイカの果物は甘い物の代表だった。
〇庶民の生活>
古代エジプトでは死後も生前と変わらぬ豊かな生活を夢見て、現在の生活状況を壁画に残したり、パピルスに書き留めていたので、かなり正確な庶民の生活状況が明らかになっている。それによると新王国時代では、エジプトの人口は300-450万人で、国民の大半は農民や職人で、貴族や神官のようなエリート階級の地主に従っていた。誰もが一緒に働くグループに属しており、たいていの場合、「倉庫」とよばれる大きな仕事場で、国王や神官の采配のもとで働いていた。
新しい運河を建設したり、石を切り出して運ぶといった過酷な労働は戦争捕虜か犯罪者の仕事だった。労働者の組織には航海用語が使用されており、労働者は船乗りと同じように組織化され、集団全体はクルーと呼ばれ、それが5つのグループに分けられていた。一つのグループが働いている間、他の者は休みで10日働くと1-3日の休みがあり、1年のうち半分は仕事がなかった。当時は貨幣はなく、基本的に物々交換であり、税は穀物や労働で支払われた。一夫多妻も認められていたが、女性が財産を持つことも認められており、離婚は高くついたので例は少なかった。
この時代、すでに給料制が誕生しており、基本的に月1回の給料制で、当時は食料などの物資が神殿を通じて労働者の代表者に支払われていた。一日の労働は午前中の数時間と長い昼休みのあとの数時間で、私用で抜ける事も許されていた。王が死ぬと新しい墓づくりや新し王に関する儀式がはじまり、庶民にもごちそうがふるまわれたので、王の交代は歓迎された。
子供は労働力と見なされており、夫婦はお互いを兄、妹と呼び合っていた。当時の寿命は長くても50才であり、心臓発作や肺炎で亡くなるのが一般的だった。古代エジプト人は死んでも再生復活できると信じていたが、再生復活するには生前に42のやってはいけないことを守る必要があった。これを守らないとあの世、「イアルの野」に行けず、火炎地獄に落ちることになっていた。人は成人になると家を興し、妻を娶ると共に死後の準備を始めた。まず墓を買い、ミイラ職人に予約を入れ、あの世の神に向けた贈り物の準備をはじめた。そのうちに人が亡くなると跡取りは亡くなった人をミイラにしてもらい、死後、70日目に葬儀が行われた。ミイラ作りの経験を得て、当時の人々は体内部の構造に詳しく、医療も現代基準に比べても遜色ないぐらい適切な医療が行われていた。
○王族、庶民の結婚事情>
古代エジプトでは女性は12-14才で結婚していたそうで、王族は、エジプト文明の伝説上の初代王であるオシリス神が、妹のイシス女神と結婚していたので、血統を守るために近親結婚を繰り返したが、王族は一夫多妻制だったので、兄弟が名目上の妻だったという例が多い。実際、ツタンカーメンの妃は、母の異なる姉であり、血が濃すぎるせいなのかツタンカーメンの子は二人とも流産して、胎児のままミイラ化されている。
また、ツタンカーメンも生まれつき脚部分が変形し、父、アクエン・アテンも女性化していた(アクエン・アテンは自分の体の状態から、アメン神信仰を捨て、アテン神信仰に走ったといわれている)など、長年の近親婚の影響で王族は奇形の体が多かった。ツタンカーメンは子供を残さなかったので、次の王は宰相だったアイで、アイはツタンカーメンの妃であり、アイの孫娘である、アンケセ・ナーメンと結婚した。
庶民は狭い人間関係、少ない人口において義理の兄弟姉妹、叔父と姪、いとこ同士で結婚しており、基本的に一夫一婦制で、女性の社会的地位も男性と平等であり、母親は尊敬されていた。古代エジプトの王家は女性が相続権を有しており、ファラオの息子は兄弟の一番上の女性と結婚して初めて王位が得られることになっており、基本、兄弟姉妹で結婚するのが基本だった。(実際は正妻が姉妹というだけで、実際には複数(数十人)の妻がいた。)
ファラオが後継者を決める際には、ファラオ一人では決定できず、神官達と相談する必要があった。
〇庶民の服装>
一般庶民の服は、ヒョウといった貴重な動物以外の皮や、シェンティと呼ばれる黄土色の粗末な亜麻布(礼装時はヒダのついた腰布)を男は腰にまきつけ、(肩に紐のついたものもあった)女は乳房は覆わず、胸下から足首にかけてまきつけていた。当時は髪を伸ばすとシラミがつくので、男も女も髪は短くしてカツラを被り、眉、体毛さえも剃っていた。軍人や、神官は頭を剃っていたが、当時のナイフは切れ味が悪いために痛く、剃髪を嫌がる兵士の像も残っている。また現代でいうところのピンセットもあった。
男は薄い口ヒゲや短いアゴヒゲを除いて短くしていた。カツラには人毛、羊毛、亜麻で作ったものなどがあり、庶民派ボブスタイルの髪型(髪型のボブスタイル、おかっぱ頭は、ボブという男の名前からして、元来は男の髪型)で、高貴な人間ほど長目のカツラをかぶっていた。カツラの色も赤く染めたり、中王国時代には青く染めていた。子供は男女を問わず、側頭部に編んだ髪を残して、その他は剃っていた。王族以外では、短めのあごひげをしたものが貴族の証だった。亜麻布(リネン、リンネル、現在でいうところの麻素材)には基本的には4つのランクがあり、最高級のものは王族が身に着けて、染めて模様をつけたり刺繍を施したものもあった。古代エジプト人は胸飾りをつける事も好み、一般の人々も公的行事や祭事の際に胸飾りをつけていた。まめに洗濯もしており、当時からクリーニング業もあったが、川辺での洗濯はワニに襲われる可能性のある危険な職業だった。
プトレマイオス王朝のころから木綿や絹が輸入され、キリスト教の導入と共にウールが普及した。このころキリスト教化したエジプト人はコプト教徒と呼ばれ、この時代になるとミイラ作りは行われず、死者は布や衣服を何重にも巻きつけて葬られるようになった。
○王族の服装>
儀式の際は、ファラオはオシリス神にならって「付け髭(ひげ)」を紐を通じてつけていた。クツ(サンダル)は裕福な人のみであり、高官は公務の時はサンダルを履く必要があったが、自分より高位の人の前ではサンダルは脱がねばならなかった。
庶民でもビーズのネックレスなどでおしゃれしていた。イヤリングは女性、子供がしており、王になるとイヤリングはしない。といっても王は子供の頃から大きなイヤリングをしていたので大人になっても耳たぶに穴は開いている。(イヤリングの習慣は第18王朝以前にはなく、ヒクソスの支配者たちの影響と考えられている。)古い時代の女性はシンプルなワンピース(女神達の服装を参照、乳房から下を隠すタイプ)であったが、新王国時代時代など、時代が進むと古王国以来の服の上から半透明のカラシリスと呼ばれる繊細なプリーツなどが入ったワンピース(乳房を隠すタイプ)を着るようになった。エジプトは暑い国なので、布を巻いただけの格好が多いが、実際にはコート、ガウンのような服もあってガウンを着た王の彫像もある。三角形の前掛けのある腰布は軍関係者だけが身につけた。
また、新王国時代の高貴な女性たちは、カツラの上にハスの花(ロータス)の模様のついた帽子を乗せていた。(この帽子は最近、実物が発見され、従来は獣脂と香水を混ぜた塊と考えられていたが、帽子上のものであることが分かった。この帽子は、神の信徒としての証と考えられている。)古代エジプトでは匂いが重要視され、高貴な女性は頭の上に匂いの塊を乗せていた。【正確にはカツラと塊が一体になったもので、香は「神々の汗」とされる神聖なものであった】。壁画に残る宝飾品をつけた王の姿は、晴れの日の装いであり、公的行事以外は、簡素な姿をしていたとされる。ちなみに、新王国時代にはフンドシも存在しており、ツタンカーメン用のフンドシも150枚程度発見されている。宝飾品は護符の役割もあることから明確に区別はされておらず、死者と共に葬られた。
〇ファラオの婚姻>
ファラオに関しては神につながる純潔性を維持するために兄弟婚が認められたが、血が濃すぎるために遺伝的に問題のあるファラオが続出し、王朝が変わると軍人あがりのファラオや外国から王妃を迎えるなど必ずしも兄弟婚でなくても良くなった。実際には、兄弟で結婚といっても形式的なもので、王には側室が何人もいて、王朝が変わると家系も入れ替わっていった。
古代エジプトでは、王家の血統をついだ王妃が重要で、「神が人間の王の肉体を借りて現れ、王妃に神の子を産ませる」と考えていたので、新しくなった王は、王家の娘(神の娘)と結婚することで、王の正統性を証明する必要があった。
〇墓の変遷(ピラミッドから、隠し墓への変化)>
クフ王のピラミッドのように巨大な墓を作ると、当然、宝物もそこにあることが明白であるので、常に盗掘の危険があり、建築家がいくら工夫しても盗掘を防ぐことは出来なかった。それで、目立つピラミッドを作ることは徐々にやめていき、ピラミッドの規模も小さくなっていった。新王国時代には、墓に小型のピラミッドが備え付けられ、頂上にはピラミディオンというピラミッド状の石が置かれた。
トトメス1世(BC1500年頃)の頃からは葬祭殿(王の権威が永続するように来世に備えて生前に造営した建物。生前は王の儀式に使用された。)と墓所を離して建造し、新しいファラオが誕生すると同時にファラオの墓をこっそりと人目のつかない場所に(現在の王家の谷)に墓を作るようになった。王家の谷の近くには墓の建造や装飾専門の職人が住んでおり、王墓の建造の合間に、貴族や自分達の墓づくりをしていた。このようにしても墓泥棒の被害を防ぐことは出来ず、王家の谷では当時から、ツタンカーメン以外のほとんどの墓で盗掘され、王のミイラだけは当時から盗まれないように一か所に集められて監視していた。王朝が変わると、過去の王朝のミイラ、宝物は現王朝とは何の関係もないので、王の命令として過去の墓を暴いて、彫像を自分用に改修したり、貴金属類を持ち出して自分達の副葬品の原料に使用する事が当然のごとく行われていた。
古王国時代後期には中級、下級役人も墓を建てる事が出来るようになった。古代エジプトの女性は貴族以外では墓を持つことは珍しかった。
〇スフィンクス>
ギリシャ語のスフィンクスとは、エジプト中王国時代に、この像を意味していた古代エジプト語のシェセプ・アンク(生ける似姿)に由来し、ギザの大スフィンクス(ピラミッドを守護する目的で建造されたとされる)は人間とライオンのミックスであるが、カルナック神殿にはアメン神の象徴の雄羊とライオンのミックスしたスフィンクスが並んでいる。
現存するものとしてはギザにある大スフィンクスが一番古いと考えられている。スフィンクスは王のほかに王妃や王女といった女性のスフィンクスも存在する。大スフィンクスは東を向いて建造されており、これはカフラー王の先先代の王(クフ王、ジェデフラー王、カフラー王)であるクフ王が太陽神そのものと考えられていた時代に、毎朝、カフラー王がスフィンクスとしてクフ王に供物を捧げているということを象徴している。大スフィンクスはギザの大地を掘り込んで建造されていることから、何もしないとすぐに砂に埋まってしまい、ヘロドトスがエジプトに来た時には、頭まで完全に埋まっていたので、ヘロドトスは大スフィンクスを見ておらず、ヘロドトスの記録には大スフィンクスに関する記述はない。砂を取り除いてもすぐに砂に埋まり、首から上だけが出ている状態が近代(西暦1900年代)まで続いていたので、「首塚」と呼ばれる時代があった。
○シャブティ(第26王朝以降はウシャブティと呼ぶ)>
シャブティ(返事する者、呼び出しに応える者という意味)とは死者と同じミイラ姿、死者の名を記した小人形。死者が来世で平穏に暮らすためには、労働やその他の定められた義務を遂行しなければならないとされていた。
その時に、農作業に呼ばれる時には本人に代わってこの人形が農作業するとされたので鍬を持っていたりする。ちなみに死者の書の第6章にウシャブティのやるべき仕事内容が書かれている。1日に1体のウシャブティが消費されると考えていたので、365個以上のウシャブティが用意され、現在、大量に出土している。死後の労働の種類によって労働者10人に1人用のムチを持った監督官のウシャブティも用意する場合もあった。
王も死後に労働に従事しなければならないとされていたので、王の姿をしたシャブティも現在、大量に残っている。中王国時代ごろからシャブティは作られ、当初は一人一つのシャブティだったが、その後、大幅に数が増えて、シャブティ用の箱まで作られた。シャブティは大きさ、素材も様々で、末期王朝時代にはファイアンス製のものが多く作られ、プトレマイオス朝時代には使用されなくなった。シャブティにも格があり、ファラオや貴族のシャブティは小さくても精巧に作製されており、それ以外では粗い作りのものも多い。
〇ヒエロ・グリフ(神聖文字)>
古代エジプト人は、ヒエロ・グリフの事を「神の言葉」と呼んでおり、約800文字で構成されている。ヒエロ・グリフで書かれた神々や人名は、それ自体が生きた存在として力を持つと信じていた。ヒエロ・グリフはギリシャ語で「神聖な刻文」という意味で象形文字ではない。
よって、例えば、漢字のように鳥の絵柄が鳥を意味するわけではない。古代エジプト人の美的感覚として、文の並びにスキマがあると、みっともないという感覚があったので、平たい字、小さい字は重ねて、詰めて表現する事によってヒエロ・グリフを表現している。ヒエロ・グリフでは、横書きの場合、基本は右から左に記述され、「文中の動物の顔が向いた方向が文の先頭」というルールがある。古代エジプト前時代を通じて、読み書きが出来た人々は、人口の3-5%であり、神官クラスが読み書きできる状態であり、庶民はヒエロ・グリフが読める人間を魔術師か預言者のように考えていた。神にささげるヒエロ・グリフには、簡易的なものから着色までした精巧なものまであり、写実的なものでは、元となった動物の種(エジプトハゲワシなど)まで判別できるものもある。ちなみに、ヒエロ・グリフの文字には「ツノのはえたヘビ」というのがあるが、これもエジプトには「ツノクサリヘビ」として実在している。壁画を作製する職人たちは、ヒエロ・グリフの中身を理解していない人が多かったが、長年の練習によって美しく精密なヒエロ・グリフを描くことが出来るようになっていた。
神官文字(ヒエラティック)は、古王国時代から使用されている文字で、ヒエロ・グリフの筆記体で書記などが使用しており、当時の様子の多くが神官文字で記されていた。 読み書き出来る人のほとんどはヒエラティックを使用し、ヒエロ・グリフは使用しなかった。
ヒエロ・グリフは右、左の両方向から書けるのに対して、ヒエラティックは常に右から左に記述した。民衆文字(デモティック)は紀元前7世紀ごろから発達した書体でヒエラティックを簡略化したもの。その後、エジプトに移住してきた人たちによってギリシャ語パピルスが作製され、当時の考え方などは、このギリシャ語パピルスによって解読された。エジプト人がギリシャ人と接するようになった紀元前6世紀以降は、ヒエロ・グリフと神官文字は宗教文書にのみ、使用されるようになった。
ちなみに、ロゼッタ・ストーンも、ヒエロ・グリフ、民衆文字、ギリシャ語で同じ文章が刻まれている。ヒエロ・グリフの解読に関する説明では、ロゼッタ・ストーンのプトレマイオスとクレオパトラのヒエロ・グリフから解読のきっかけとなったとの説明があるが、あれで出てくるクレオパトラは有名なクレオパトラ7世のことではなく、プトレマイオス王の妻だった、別のクレオパトラさんの事である。ちなみに英語のペーパーの語源になっている古代エジプトの紙パピルスは、古代エジプトはとても高価であり、庶民はオストラコンという安価な石灰岩や土器の破片に文字を書いていた。
〇死者の書>
「死者の書」とは、19世紀にドイツ人エジプト学者レプシウスが165の呪文を調べて「死者の書」として本を出版したことに由来している。実際には、墓泥棒がミイラを見つけた時に、一緒に置いてある文書を死者の書と呼んでいただけであり、この呪文集は古代エジプト人は「日中(来世)に現れるための呪文(古代エジプト語でペレト・エム・ヘルウ)」と呼んでいた。古王国の滅亡にともない、略奪は王家の墓にも及び、立派な墓や供物だけでは永遠の命を得ることは難しいと考えられるようになった。
来世で死者は裁判にかけられるほか、様々な危険に遭遇すると考えられていたので、それらを回避するための呪文や絵が棺やパピルスに書かれるようになり、それが死者の書の誕生の原点となった。 「死者の書」は、来世で死者を助ける文書なので、必ず、死者の名前を書き込まねばならず、多くは流れ作業で作製された画一品であり、空欄に死者の名前を書くことになっていた。
死者の書は新王国時代の初めから存在し、約200章の文章と挿絵から構成されているが、金持ちは希望するだけの章を用意してもらえたが、多くは最低限の章の部分だけを神官からもらい、名前を記入するだけの既製品もあった。たいていは重要な章(オシリスによる裁判(第125章)など)を抜粋して作製されており、裁判では必ず無罪になるように描かれている。新王国時代ごろからパピルスに書かれていた死者の書は、その後、棺の中や、ミイラに包み込んだり、ミイラの包帯に描かれるなど、出来る限り死者の近くにおいて効力を期待した。パピルスにはススを樹脂の入った液で溶いたインクで書き、赤色は顔料を溶いたインクで記述した。
有名なのがオシリス神による「最後の審判」で、死者が来世に入る前にオシリスが裁判長を務める法廷で、死者は42人の神々の前で、42の罪を自分が犯していない事を告白しなければならなかった。新王朝時代は、精密なヒエロ・グリフで記述されたが、時代の経過とともにヒエラティックで書かれローマ時代にはデモティックで記述された。
○偽扉&供物台&供養碑ステラ>
偽扉は現世と太陽の沈む西方にある来世を結ぶ墓の重要な要素で、墓の西方に設置された。古代エジプトでは、死者の魂カアは偽扉(にせとびら)と名づけられた神秘的な戸口を通って供物室に入り、糧を得て遺体に戻ると考えていた。たいていは偽扉の前に供物台が設置され、供物用の食料は死者に祭られた後に、神官が食していた。
ちなみに、墓の壁画に食事風景が描かれているのは、墓へのお供え物がなくなった時の保険であり、墓内には召使のミニチュア像が収められ、死者が呪文によって召使いを大きくして来世で世話してくれると考えていた。偽扉は、古王国時代にはかかせなかったが、その後、第一中間期にはすたれて、ステラと呼ばれる供養碑にとってかわることになる。
〇古代エジプトの建物、オベリスク>
古代エジプト人は現世よりも来世を重視し、現世の王宮は粗末な日干し煉瓦づくりで間にあわせたのに対して来世の住居としては永続する石造りの堅固な建造物を望んだ。現実的にはクーラーもない時代、日干し煉瓦製の建物は涼しく、王が亡くなると日干し煉瓦製の王宮は壊されていたの&残っていたとしても風化して無くなるので、現在、ファラオの王宮は残っていない。
ピラミッドの四角錐という形状、及びオベリスクは、太陽信仰が固まった第3王朝以降に、太陽信仰の都であるヘリオポリスの聖石「ベンベン石」の形状にならったもので、雲間から差す太陽光線を「王が天に登る道」と見立てて建物で表現した。
オベリスクは太陽神のシンボルであり、大海原から隆起した「発祥の丘(オベリスクの四角形)」に太陽神アトム(後のラー、ピラミッドの4角錐)が降臨して世界を創造したという考えを具現化したもので、古代エジプト語では「テケン」とよび、ギリシャ語では「オベリスク=焼き串、小さな槍(オベリスコス)」を意味する。
〇マスタバ>
マスタバという墓の形式のマスタバは「アラブ人の腰かけ(=アラブ語でマスタバ)」に似ているので、西暦639年にエジプトがイスラム化した際に流入したアラブ人が昔からマスタバと呼び、その名前が定着した。
〇カノポス容器>
ミイラ製造時に遺体から取り出した内臓を保存する4個1組の容器でカノポスという街のオシリス神の形が、カノポス容器の形と似ていたので、カノポスという地名から名前がつけられた。カノポス壺の蓋は、初期は平らな蓋であったが、中王国以降は人の頭の形に変化し(事実、第18王朝のツタンカーメンも人型のフタ)が、それ以降は一部動物の形に変化した。
〇ピラミッド建造の対価はパン、ビール、医療>
大ピラミッドの建造(クフ王のピラッミッドの設計者は宰相ヘムオン。建造に20年かかった)は、常時働く労働者(ギザ地区で4000人、アスワンとツーラの採石場に1万人)とナイル氾濫期の農閑期に働く季節労働者(2万人)によって建造され、当時は貨幣はなかったので、労働の対価としてパン(形はおにぎりのような三角形や丸型、円錐形など)やビール、医療が提供され、強制労働ではなく、信仰の場として明るい雰囲気で建造されたらしい。
当時の1日の食事の回数は、はっきりとは判明していないが、貧しい人は1日1-2回、裕福な層は一日3-4回食事したと考えられている。夜はゴマ油を燃やして灯りにしていた。すでにこの時代から役人の汚職は存在し、給料となる食料の配給が遅れる事は珍しくなく、労働者は座り込みなどのストライキ行動も行われていた。
〇ピラミッドには必ず神殿が併設>
ピラミッドには東側に必ず2つの神殿が用意されておりピラミッドに隣接する神殿(上神殿)は神官のみの葬祭の場だった。古代エジプトで最も大切な奉納の儀式は、名前を呼び上げて食べ物をささげ、香をたき、冷たい水をそそぐことだった。神殿は神々の館として位置づけられており、ファラオとファラオに代わる神官だけが近づくことが出来た。
ナイル川沿いに建てられた下神殿(河岸神殿)は一部の国民も入ることが許され、両神殿は屋根つきの通路で結ばれていた。神官は神となった王の永世と栄光を求める祈祷の言葉を朝、昼、晩の儀式の際に唱え、この祈祷文は第五王朝にピラミッド・テキストとして墓内に記されるようになった。
〇太陽の船>
王は死ぬと神となり、昼は太陽を積んだ船で天上をまわり、夜は別の船で闇の世界を旅することになっていた。人々は、死後、天空と冥界を行き来する太陽神ラーに付き従うことで永遠の命を得ると信じていた。このため、王は死ぬと二つの船、昼の船マンジトと夜の船メスケテトを必要とした。現在、クフ王のピラミッドの周囲で2隻の船が発見されており、一時期はこれが「太陽の船」と呼ばれていたが、太陽信仰はクフ王の次の王、ジェドエフ・ラー王時代(ラーという名前自体が太陽神を示している)から盛んになるので、現在では、これらの船は「太陽の船」とは呼ばれておらず、これらの船は実際に使用した形跡がある。現在、クフ王のピラミッドの横に復元してある太陽の船は、1224の部品からなり、完成までに10年の歳月と5体の練習用模型を必要とした。
古代エジプトではナイル川が主要な交通路だったので、「旅行=船」が基準であり、死後、旅に行く=船が必要という発想であった。船でナイル川をさかのぼる時は、いつも地中海から北風が吹いているので、帆を挙げるだけでよかった。ナイル川の流れは非常に遅いので、川を下る時は備え付けのオールを使用した。副葬品で帆を上げた船は、ナイル川をさかのぼる様子、帆をたたんだものは川を下る様子を示している。
〇旧約聖書「出エジプト」との関係>
ヘブライ人がエジプトに移住して人口を増やし、エジプトの建築事業に借り出され、多くの曲折と事件ののちにヘブライ人がモーセの指揮でエジプトを去るというストーリーで、事実関係としてはヘブライ人がエジプトに移住したのはヒクソス(ヒクソスとは古代エジプト語で異国の支配者という意味)のエジプト統治時代、迫害を受けたのはラムセス2世時代、エジプトを去ったのはメルエン・プタハ王の時代(実際にメルエン・プタハ王はミイラに水死したような跡が残っているとされる)と考えられている。モーセという名前は「水から引き揚げた」という意味でヘブライ語で「マーシャ」が語源とされるが、モーセを川から引き揚げたエジプトの王女は、古代エジプト語で水はモーウ、水から助け上げられた人を「エセース」といったので「モーウ+エセース=モーセ」と名づけたのが真相らしい。
出エジプト事件についてはエジプト側の資料は残っていないとされる。出エジプトの物語では、追い払ったはずのモーゼ達を王が追いかけるシーンがあるが、あれはモーゼ達が古代エジプトの神々の像を国から持ち出したために王が取り返しに行ったのだと想像されている。
〇ヒクソス>
ヒクソス (異国の支配者達という意味で古代エジプト語ではヘカウ・カスウト)はパレスチナ方面(ちなみに聖書に出てくるペリシテ人は、今でいうパレスチナ人と言われているが、現代パレスチナ人はアラブ系なので聖書時代のペリシテ人とは異なる。)から来て、中王国時代(新王国開始前)に商人、牧人、農夫としてシリア北部に起源をもつアジア系人種がエジプトのデルタ地帯(ナイル川の河口)に住みつき、人口を増やした。中王国時代末にエジプトが政治的に不安定になった時、パレスチナ方面からヒクソス勢が攻め入ってエジプトを征服し、約150年に渡ってエジプトを統治した。特に第15-16王朝のヒクソスの王たちは自分たちの称号として「異国の支配者たち」を使用しており、意図的に異国出身であることを強調していた。
〇ペット>
古代エジプト人は楽しみの一つとして犬や猫を飼う事が好きであり、猫が死ぬと家族はみな眉を剃って悼み、犬が死ぬと全身と頭を剃って嘆いていた。また、犬も猫も出来る限りミイラとして葬るのが習慣だった。娯楽としては、祭りに参加、レスリング観戦、狩り、水遊び、釣り、その他、セネトというゲームがあった。王族は特にヒマをもてあまし、語り部を呼んで興味深い物語を語らせることも行われていた。
〇香油>
体に香油や軟膏を塗る事は当時の大切な日課の一つであり、ピラミッド・テキストには死者が7種類の香油を必要としていることが記されている。
〇長さの単位>
古代エジプトの長さの単位はキュビット(エジプト語でメフ)で、約52.3cm(これは人間のひじから指先までの長さが基準)、キュビットの7分の1が、1パーム(=親指を除く指4本分の幅。エジプト語でシェセプ)で約7.4cm、パームの4分の1が1ディジェット(=1本の指の幅。エジプト語でジェバア)で約1.8cm。指4本分で一つの単位(手のひら)としており、1キュビットは7単位なので、1キュビットは指28本(4x7)であった。100メフは1ケトと呼ばれ1平方ケトは1セタトと呼ばれた。重さの単位はデベン(約91g)。
○枕>
枕はウェレスと呼ばれ、実際は高枕の上にクッションを引いて、横向きになって寝ていた。遺品として残っている枕にはクッション部品が無くなっており、何も知らなければ昔の人は硬い枕で寝ていたと思うだろう。
○ハエ>
古代エジプトでは多くのハエが生息し、人々を悩ませが、何物にも向かっていくハエの行動から、ハエは勇敢な存在として見なされていた。王権の象徴であるカラ竿も実際はハエ除けの道具だったとの説もある。アフリカでは現在も大量のハエが生息し、黒い壁と思って近づくと、ハエが飛び去り、実際は白い壁だったという観光者の土産話がある。
○郵便制度>
古代エジプトにも原始的な郵便制度があり、ナイル川を航行する船を通じて、かなり不確実だが、パピルスのやりとりがあった。
〇職人>
古代エジプトには金細工師など、専門的な技術の職人が多くいたが、彼らが使用する材料は国家の統制品であり、客も王侯貴族のみであったので、国家直営の工房で働いていた。死後に生活する場である墓作りでも職人は多くいて、例えば壁画が専門の職人などは、当時はパピルスが高価であったので、墓作りで出土する白い石灰岩の薄片を使用して下絵の練習をしたりしていた。このような絵などを記したものをオストラコンと呼んでいる。
〇王家の谷>
古代エジプト初期は、クフ王の大ピラミッドのように、大規模な墓を建造していたが、すぐに盗掘されてしまい、ファラオは安心して死ぬことが出来なかった。それで、その後、墓と神殿を別々に作るようになり、テーベが首都になったハトシェプスト女王の時代ごろから密かに「王家の谷」「王妃の谷」と呼ばれる集団墓を作るようになった。墓を作る作業員達は、王家の谷と王妃の谷の中間地点(現在のディール・アル=マディーナという地名)に町(70家族程度と推定されている)を作り、片道30分かけて通勤していた。秘密を守るために、街を出る事を許されず、墓づくりの合間に自分たちの墓も作製していた。王族にとって墓作りは、王位についた時から死後の生活を見越して作製を始めるのが習慣だった。王が死んだ時点で墓作りは中止され、すぐに埋葬準備にとりかかるのが普通のようで、すぐに新しい王の墓作りにとりかかったので、ツタンカーメンのように10年程度の治世では、墓作りが間に合わず、義理の母(ネフェル・ティティ)の墓を使用したのもこの事情によるものと思われる。第3中間期以降は王権が弱体化したこともあり、首都がおかれたデルタ地帯(地中海に面する所)に王墓がひっそりと造営された。
〇アンク>
アンクとは、命のシンボルであり、「生きる」という意味。由来は不明だが、サンダルの結び目の形から来ている。たいがいは神が手に持っており、供物と引き換えにアンクをファラオとエジプトに授けるとされる。
〇シストルム>
ハトホル女神に王が捧げものをする時を除き、女性神官や王女、王妃が儀礼などで用いた宗教的な楽器もしくは奉納物。揺らすことで金属円盤が共鳴して音を奏でる。
〇ピラミッド、神殿は残っても、王宮が残っていない理由>
古代エジプトの人々は、神殿、彫像などは永久に残る事を願って石で建造したが、雨の降らない&冬のないエジプトでは、王宮、住居は日干しレンガで作った方が、涼しい&毎年のナイル川の氾濫によって家が流される事を知っていたので、日干しレンガで作成していた。彫像などでは永遠に残る材料ほど良いとされて、人型棺などでは地位の高い人間の方が固い石を使用される傾向があった。
〇デルタ地帯>
ナイル川が地中海にそそぎ出る河口地帯で、平野部地形がギリシャ語のデルタに似ているのでデルタ地帯。
〇ナイル川>
世界最長の6700kmで、白ナイル、青ナイル、アトバラ川が一つになったもので、古代エジプトでは、船を通じて往来し、魚なども暮らす。毎年、決まった時期にゆっくりと氾濫し、エジプト下流は栄養分に富んだ黒い土で覆われたという。現在は、上流に建造されたアスワン・ハイダムの影響で氾濫することはまずない。
〇有名王の名前の意味>
ス・ネフェル(美しくする者)、クフ(彼が作った者)、アメン・エムハト(アメン神が前方にある者)、セン・ウセレト(ウセレト女神の男)、キアン(力ある者)、アハメス(月が生まれた者)、ハト・シェプスト(高貴なる者の中で先頭にいる者)、アメン・ヘテプ(アメン神が満足している者)、ツタンカーメン(アメン神の生き写し)、ラメセス(ラー神が生んだ者)
○全ての物に所有者の名前が入っている理由>
発掘品には、たいがい王などの名前が刻まれている。これは死後に、あの世で再び生き返った時に自分の名前を忘れないようにする配慮であり、後世の者が名前を削り取るのは、その人物を抹殺するに等しい行為だった。硬い石に王に似せた精密な彫像が作製されたのは、王のミイラに何かあっても王に似せた彫像に魂が戻ってくることが出来ると信じていたからである。しかし、古代は過去の王の彫像などを自分の名前に掘りなおすことは当たり前だったので、彫像に掘られている名前だけで彫像が製作された時代を判断することは困難となっている。
○棺の装飾の変遷>
遺体を納める棺はもともと死者が来世で生活する場所として住居をイメージしており、古王国時代は石で作られた家の形をしており、棺の側面には戸の模様まである。中王国時代になると木棺が使用され、死者のミイラ姿をまねた人型棺も登場する。木棺時代は遺体は体の左を下にして、頭は北、太陽の登る東方向に向けて収められ、遺体の視線の先にあたる木棺の部分には、外が(=朝日の方向)見えるようにウジャトの目が描かれた。人型棺の時代になると、遺体は棺に合わせて仰向きで収められるようになった。人型棺でも25王朝以降から足元に四角の台座がつくような変化があった。
ツタンカーメンなどの新王国時代になると、オシリス神の姿をまねた、2重、3重の人型棺を石棺で覆うスタイルになる。第3中間期以降は、盗掘が激しくなり、美しい墓を維持するのが困難になったために、遺体は隠し場所に合葬されるようになり、死者のそばに「死者の書」が置かれるようになった。
棺は古代エジプト語ではネブ・アンク(命の主人)とかヘン・エン・アンク(命の棺)と呼んでいた。棺の発展の歴史及び包帯の巻き方まで示したミイラ作りは「永遠の美と命 大英博物館 古代エジプト展」1999年に詳しく記述されている。
○ミイラの装飾の変遷>
黄金をふんだんに使用できる王族とはことなり、第1中間期以降、貴族レベルでは亜麻布に樹脂を染み込ませて、その上から石膏、しっくいを塗って白く固めたもの(カルトナージュ)に装飾をしてミイラ・マスクを作製していた。
多くのミイラ・マスクは復活した来世で視力を与えるという呪術的意図で作成されていることから、マスクは個人の風貌に似せたものではなく、目を強調した理想の姿をしており、男性の棺には形式的にオシリス神を模したアゴひげと口ひげが描かれることが多かった。カルトナージュマスクが発展して人型棺が造られるようになり、ギリシャ、ローマ時代(紀元2世紀)の前半ではミイラマスクの胸のあたりに古代エジプトの神々が描かれ、ギリシャ、ローマ時代の後半になると、ミイラ・マスクに変わり、人型棺の顔部分に故人のポートレートが描かれるようになった。この当時、ミイラ1体にかかる費用は家族の収入の1年分に相当した。ギリシャ、ローマ時代のミイラは大別して4種類あり、もっとも裕福な商人は黄金で彩られたミイラをカルトナージュ製の棺に入れていた。次に余裕のある人々は包帯が巻かれたミイラに胸まで覆うカルトナージュがかぶせられていた。中流階級の人々は包帯で巻かれただけで、最も身分の低い人々はぞんざいに一枚の布で頭骨が巻かれただけであった。
ローマ時代になるとミイラ・マスクは中部エジプトで大量生産され、実際には死者の肖像では無くなっていた。ミイラ作りや遺体を宗教的な図柄で装飾する習慣は、紀元4世紀ごろのコプト教会時代には「異端者」扱いとなって無くなった。
○開口の儀式>
ミイラ化された遺体は、遺族の元に戻されて葬列に送られて墓の前に至った際に、「開口の儀式」が行われた。多くの場合、個人の後継者によって行われ、具体的には彫刻刀のような手斧によってミイラの口や手、足などに触れて遺体の呼吸や触覚などの五感を遺体に取り戻す意味を有していた。冥界の王であるオシリスは正統な後継者である息子ホルスによって開口の儀式を受けたと神話に載っているので、故人の壁画の口開けのシーンではホルス神の格好をした人間が描かれている場合がある。壁画などでは向かって左側が神聖な者の位置であり、崇拝者は両手を上げた姿(日本人には焚火にあたる姿に見える)で表現されている。
ちなみに、現世で体の一部が無くなっても、来世では五体満足で暮らせるように、ミイラ化した際には足りない部分を木など別の材料で補って完全な体とした。
○クレオパトラ>
クレオパトラとは「父の栄光」という意味で、クレオパトラという王妃は複数いて、古代エジプト文明最後のファラオであるクレオパトラはクレオパトラ7世のことを指し、現在でも墓は発見されていない。プトレマイオス朝はアレキサンダー大王の部下だったギリシャ人系のプトレマイオス将軍(マケドニア王国貴族ラゴスの息子)がアレキサンダー大王の死後にエジプトで即位して始めた王朝なので、基本的にはギリシャ人系の血筋で、エジプトの伝統にのっとり、王家内で結婚を繰り返していたので、混血は少なく、現在のギリシャ系の姿をしていたと想像される。絶世の美女といわれるが実際には、美貌はそうでもなく、7か国語が話せた聡明な女性であったそう。古代ローマ帝国のジュリアス・シーザーと出会った時には18才だったといわれる。
○アレクサンドリア>
クレオパトラはプトレマイオス朝の王都であったアレクサンドリアの宮殿で幼少期を過ごした。アレクサンドリアの市民はほとんどがギリシヤ人であり、有名な図書館と博物館は当時の知的世界の中央地でもあった。王たちの住むバシレイア地区は、庭の中央に鳥小屋があり、珍しい動物が飼育され、大理石の柱、金やメノウ、斑岩を貼った壁、オニキスを敷き詰めた歩道、エメラルドを象嵌した門、錦織の絨毯を敷き詰めた豪華な建物が扇状に広がっていたと伝えられている。
○世界の古代エジプト遺物のコレクション>
世界にはカイロ・エジプト博物館をはじめとして、ロンドン大英博物館、パリ・ルーブル美術館、ドイツ・ベルリン・エジプト博物館、ニューヨーク・メトロポリタン博物館、イタリア・トリノ・エジプト博物館がコレクションが充実しており、歴史的な経緯からトリノ・エジプト博物館はカイロ・エジプト博物館についで、2番目に多くの3万数千点ものエジプト・コレクションを保有しているという。また、ドイツのヒルデスハイム博物館もコレクションが充実している。
○護符(お守り)>
護符は、メケト(保護者という意味)、ウジャウ(健康を保つもの)と呼ばれ、日本でいうところのお守りで、古代エジプト人も悪いものから身を守るために気軽につけていた。現在までに275種類程度の護符が確認されている。「死者の書」には、ミイラ作りの際に、どこに何の護符を包帯に巻き込むか、その時の呪文まで記されているという。
目次>-----------------------
1 古代エジプト関係の歴史年表
2 ツタンカーメン、黄金のマスク
3 ピラミッド関係
4 古代エジプト関係の知識
5 お勧めの古代エジプト本のリスト
5.1 古代エジプト関係の動画>10
5.2 古代エジプト全般の本>26+27
5.3 ツタンカーメン関係の本>10
5.4 ヒエロ・グリフ関係の本>9
5.5 古代エジプト関係の本>52
---------------------
5. お勧めの古代エジプト関係の資料
ネットで知識を仕入れて、以下の本及び高解像度写真で確認するといっそう楽しめます。以下の本は、アマゾンやヤフーショッピングで入手可能です。新聞によると、エジプトには毎年10万人の旅行者が訪れるそうで、いつか行く時のための予習も兼ねては。
以下の資料において、本は「物語 古代エジプト人」 文芸春秋 2000年発行が、すごく充実しており、オススメ。
5.1 古代エジプト関係の動画(10本)>
1●動画「発掘、古代エジプトの裏社会」
>古代エジプトの墓泥棒の実態を再現映像で見せるもの。結構、楽しい。
2●動画「古代エジプトの至宝 歴史を刻む美しき遺産 1.ピラミッドの誕生まで」、BBC製作
3●動画「古代エジプトの至宝 歴史を刻む美しき遺産 2.華やかなる時代」、BBC製作
4●動画「古代エジプトの至宝 歴史を刻む美しき遺産 3.新たな始まりへ」、BBC製作
5●動画「エジプト ~甦るツタンカーメン~ 甦るツタンカーメン1」、イギリスBBC製作
>ツタンカーメン発掘時、ツタンカーメン埋葬時など詳細(少年の発見シーン、墓をこっそり開けるいきさつなど)に再現している。おすすめ
6●動画「エジプト ~甦るツタンカーメン~ 甦るツタンカーメン2」、イギリスBBC製作
>ツタンカーメン発掘時、ハワードとカーナボン卿の確執など忠実に再現している。おすすめ
7●動画「ツタンカーメン~人を虜にする秘密」
>これだけツタンカーメンを調べても新しい知識がいっぱい含まれている。
8●動画「地球ドラマチック ツタンカーメンの謎」
9●動画「エジプト ~甦るツタンカーメン~ 甦るツタンカーメン1」、イギリスBBC製作
>ツタンカーメン発掘時、ツタンカーメン埋葬時など詳細(少年の発見シーン、墓をこっそり開けるいきさつなど)に再現している。おすすめ
10●動画「エジプト ~甦るツタンカーメン~ 甦るツタンカーメン2」、イギリスBBC製作
>ツタンカーメン発掘時、ハワードとカーナボン卿の確執など忠実に再現している。おすすめ
11 動画 ドキュメンタリー2017 コズミックフロント クレオパトラボディ ミイラ 古代エジプト 宇宙の秘密
12 動画 地球ドラマチック「クレオパトラの墓を見つけ出せ!」
13 動画「異端の王 ブラック・ファラオ 古代エジプト スーダン紀行」
14 動画「大ピラミッド建造の謎 4600年前の日誌は語る」、地球ドラマチック
15●NHK 「ツタンカーメンの秘宝 第1集 黄金のファラオ」、BS8Kで放送、地上波でも放送済
>ツタンカーメンの指サック、足サック、履いていたサンダルの繊細な飾りなどが見もの。
5.2 古代エジプト全般の本、図録>
<本 29文献>
1●古代エジプト なるほど辞典 実業乃日本社
>古代エジプトの世界を全般的に紹介していていい。
2●古代エジプトうんちく図鑑
>古代エジプトに関する詳しいうんちくが、楽しいイラストとともに多量に掲載されている。読んでいて面白い。
3●古代エジプト CG世界遺産
>現在、見るピラミッドその他は4500年以上経った状態であり、建設当時とはまったく異なる。この本では建設当時の姿が載っている。
4●ニュートンアーキオ ビジュアル考古学 ファラオの王国
>豊富な図入りで古代エジプト人の生活が、バランスよく紹介されている所。アマゾンで「ファラオの王国」と入力すると出る。
5●図解 古代エジプト 東京書籍
6●映画「ピラミッド 5000年の嘘」
>クフ王のピラミッドは実は8面体であるとか、20年でピラミッドを作るのには1トン以上ある石を、1個につき石とノミだけで2分半で作らないといけなくなる計算など、まだまだ、不思議があるということが良く分かる。
7●「 大ピラミッドの謎に挑む 失われた王墓」、日本ブリタニカ
>ナポレオン時代のピラミッドの現状、ギザの三大ピラミッドを探検した時の記録が詳しい。おすすめ。
8●「ゼロから分かる古代エジプト」 学研 2012
>古代エジプトの様子が、初心者にも分かるようにやさしく紹介されている。
9●「週刊 ユネスコ 世界遺産 エジプト」 講談社 2000
>薄い本だが、全般的に充実している。
10●「エジプト発掘 30年 吉村作治 」 平凡社 1996
>吉村作治先生が、タレントではなく、発掘も手掛けた日本における古代エジプト研究のパイオニア の一人ということが、よく分かる。
11●「エジプト5000年をゆく(1) ファラオの眠る谷」 1984年 日本テレビ放送
>王家の谷だけで一冊を構成しているだけに詳しい。
12●「エジプト5000年をゆく(2) 神秘の都・テーベ」 1984年 日本テレビ放送
>テーベだけで一冊を構成しているだけに詳しい。テーベとは、現在のルクソールの事で、ここの対岸に王家の谷がある。
13●「エジプト5000年をゆく(3) ピラミッド・謎と科学」 1984年 日本テレビ放送
>ピラミッドだけで一冊を構成。ピラミッドの建造法などが詳しい。
14●「エジプト5000年をゆく 甦るツタンカーメン」 1984年 日本テレビ放送
>ツタンカーメンだけで一冊を構成しており、ツタンカーメンの生涯について、結構詳しい。
15●「エジプト5000年をゆく(5) エジプトの全遺跡」 1984年 日本テレビ放送
>全般的な紹介。
16●図説 「古代エジプト1 ピラミッドとツタンカーメンの遺宝編」 河出書房新社
>コンパクトだが充実した内容。
17●「世界史人 ピラミッド5000年 興亡の謎」 KKベストセラーズ
>最新の研究結果が載っている。
18●「世界4大文明ガイドブック ジュニア版」 NHKプロモーション
19●「改訂版 エジプト カイロからアブ・シンベル、シナイ半島まで」 Bonechi, イタリア
>壁画や風景がキレイな写真で、満載。解説も詳しく、これまで知らなかった情報も載っているので、日本でのエジプト情報は偏っているのかもしれない。
20●「ピラミッドの秘密 古代文明の壮大なドラマを解明する 産報デラックス 99の謎 歴史シリーズ」 サンポウジャーナル、昭和53年
>ピラミッド登頂記や個別の疑問に答えるQ&A方式の記事などが載っており、お勧め。
21●「クレオパトラとエジプトの謎」 宝島社 2015年
>クレオパトラの記事は2ページのみだが、最新の古代エジプト知識が載っているという所で許す。
22●「insiders ビジュアル博物館 エジプト」昭文社 2008年
23●「NHK 大英博物館 2 エジプト・大ファラオの帝国」 日本放送出版協会 1990
>まんべんなく、古代エジプト時代の紹介。壁画で、人物は普通は横顔なのに、めずらしく正面を向いた図が載っているのは貴重。
24●「黄金のミイラが眠る谷」 アケト 2007
>ローマ時代のミイラに関する記述が詳しい。
25●「古代エジプト探検百科」 原書房 2002
>1799年のロゼッタ・ストーンの発見から、年代順に古代エジプト時代の発見を整理している。オススメ
26●「永遠のエジプト 大英博物館古代エジプト展にみる来世賛歌」 アサヒグラフ別冊 1999
>薄い本だが中身充実。オススメ
27●「物語 古代エジプト人」 文芸春秋 2000
>薄い本だが中身すごく充実。オススメ
28●「ピラミッド」 河出書房新社 1998
>約50に及ぶピラミッド、墳墓の構造や見取り図について詳細に記述。
29●「古代エジプト探検百科」 原書房 2002
>西暦1800年代からの古代エジプト遺跡の発掘の歴史を詳細に記述。
<図録 展示会カタログ 発行の古い順 28文献>
1●「図録 ツタンカーメン展」 1965年 朝日新聞社
>日本にツタンカーメンの黄金のマスクが来日した時の図録。47年前。
2●「図録 古代エジプト展 古代エジプトの偉大な王と女王の財宝の展覧会」 1978年
3●「図録 エジプト考古学博物館 カイロ」 1980年 エジプト考古学博物館出版
>半分ぐらいはツタンカーメンの財宝の紹介。
4●「カイロ博物館秘蔵 古代エジプト展 3000年の世界を行く」 1983年 西武美術館
5●「ルーブル美術館 I 文明の曙光 古代エジプト・オリエント」日本放送出版協会 1985
>動画、本を含めて42冊も読んでいるのに、まだ新しい知識が出てくるので古代エジプトは奥深い。
6●「図録 オランダ国立ライデン古代博物館所蔵 「古代エジプト展」 1987
7●「大エジプト展 ドイツ民主共和国 ベルリン国立博物館(ボーテ博物館)蔵」 1988年 東京国立博物館
>ローマ時代、ヘレニズム時代の文物の紹介が多い。
8●「図録 黄金のエジプト王朝展 国立カイロ博物館所蔵 ナイルが伝える悠久の遺産」 1990年セゾン美術館
>ツタンカーメン時代あたりの黄金製品の紹介がメインで、当時の装飾品の解説などが詳しい
9●「図録 古代エジプト文明と女王」 東京ルネッサンス推進委員会 1994
>人類は3000年前には金、銀を自在に加工していたことがよく分かる。
10●「図録 古代エジプト展 オランダ国立ライデン古代博物館所蔵」 東京 新聞主催 1996
>解説が詳しく、庶民の生活、社会階級などが詳細に記述されている。
11●「図録 遥かなるエジプト展 古代人の生活を探す」 NHKプロモーション 1997
12●「図録 ウィーン美術史美術館所蔵 古代エジプト展」 1999年
13●「永遠の美と命 大英博物館 古代エジプト展」 1999年 東京都美術館
>時代の経過にともなうミイラ、棺の様式の変化の紹介が詳しい
14●「図録 ピラミッドの時代」 名古屋ボストン美術館 2001
>古代エジプト、初期王朝時代(ピラミッド建造時代)に焦点をあてた展示会図録。
15●「図録 国立カイロ博物館所蔵 古代エジプト文明展」 2002
16●「ドイツ・ヒルデスハイム博物館所蔵 古代エジプト展 永遠の美 」 2002年
17●「ドイツ・ヒルデスハイム博物館所蔵 古代エジプト展 甦る5000年の神秘」 2005年
18●「図録 ルーブル美術館所蔵 古代エジプト展」 2005年
19●「図録 古代エジプトの文明3000年の世界」 2005年
20●「図録 ミイラと古代エジプト展」 2006年、朝日新聞社
21●「図録 古代エジプトの美展」 東京新聞 2008年
>全般的に古代エジプト時代の遺品を美術の観点から見た時の展示会図録。
22●「図録 海のエジプト展 海底からよみがえる、古代都市アレクサンドリアの至宝」 2009年
23●「図録 トリノ・エジプト展 イタリアが愛した美の遺産」 2009年、朝日新聞
>トリノ博物館は、カイロ博物館に次ぐ世界で2番目の古代エジプト関係コレクションがあるそうで、この図録には、王家の谷と王妃の谷の墓を造営していた職人の町について特集している。
24●「図録 ツタンカーメン展」 2012年 フジテレビジョン
>ツタンカーメンの発掘時の状況も含めて、キレイな写真がいっぱいあって充実。
25●「図録 オランダ国立博物館所蔵 古代エジプト神秘のミイラ展」 2010年
26●「図録 大英博物館 古代エジプト展 「死者の書」で読みとく来世への旅 冥界の風景 2012年
27●「図録 クレオパトラとエジプトの王妃展」 2015年 東京国立博物館
28●「図録 黄金のファラオと大ピラミッド展 国立カイロ博物館所蔵」 2017年 TBS
5.3 お勧めのツタンカーメン関連の本、動画(10資料)
1●X線分析装置による遺跡・文化財の分析「ツタンカメーン王黄金のマスク」 雑誌「金属」2007年9月号~2008年1月号
>学者が書いた読み物らしく、初心者にはとっつきにくいかもしれないが、科学的な分析が豊富。特に2007年9月号には、「ツタンカーメンの黄金のマスクの裏側の写真」が載っているところが貴重。
2●図説 黄金のツタンカーメン 悲劇の少年王と輝ける財宝 ニコラス・リーブス著 近藤二郎訳
>定価は3800円程度だが、1993年初版なので、現在、アマゾンの中古では750円~で販売されている。以下のリストの本のどれよりも、豊富な写真が満載で、詳細にツタンカーメン王墓の発掘の様子が、読みやすい文章とともに記されている。もうほとんど、ハワードカーターの発掘報告書(発掘調査書)といってもいいぐらい内容が詰まっている。
3●黄金王ツタンカーメンの素顔 世界初のCTスキャン調査 ザヒ・ハワス著 株式会社アケト>
>2007年のCTスキャンによる最新の調査結果が載っている。ハワード・カーターの調査時の問題点がエジプト人学者の視点から率直に語られている。アマゾンにて「ザヒ」で検索すると一発で出る。
>ツタンカーメンの使っていた本物のシャク、冠、胸飾り、棺開封直後の写真
4●ツタンカーメンの秘宝 復元★カーター発掘隊 講談社トレジャーボックス>
>ハワード・カーター自身の発掘日記、資料、手紙、メモがそのままの形で再現されており、日本語で説明も載っている。値段は高いが、絶対買う価値あり。アマゾンで「ツタンカーメンの秘宝」と入力すると一発で出る。
>ハワードカーター自筆による発掘手紙、その他
5●古代エジプト文明 ファラオの秘宝 ナショナル ジオグラフィック傑作写真集
>黄金のマスクの精密写真。カイロ博物館で実物見るよりも、すごさが味わえる。もうそろそろ絶版ではないか。アマゾンで「ファラオの秘宝」と入れると検索される。
>ツタンカーメンの金のサンダル写真、圧倒的な迫力写真(ほぼ実物大のマスク p66)
6●The Treasures of Ancient Egypt, The Rizzoli Art Guides (NY)
>カイロ博物館の古代エジプトの財宝(上記の本よりも圧倒的に種類が多い)を高解像度写真で多数紹介しているところ。アマゾンの検索で洋書で上記のタイトルを入力すると表示される。
7●ニュートン別冊 改訂版 新・世界の七不思議 最新考古学があかす古代ミステリー ニュートンプレス
>ツタンカーメンのミイラがどのような状態で保存されていたかのイラスト→p62
ツタンカーメンの遺物の詳細な解説(3500年前のピカピカの鉄製!剣もある)。 ハワード・カーターの簡単な生涯解説。
8●「ツタンカーメンの真実」 徳間書店 2012
>ツタンカーメンの特集としては短いが、最新の情報がコンパクトに詰まっている。
9●Treasures of TuTankhamun, The Metropolitan Museum of Art, 1976
>発掘時の写真も含めて詳細な写真がいっぱい。
10●「エジプト5000年をゆく 甦るツタンカーメン」 1984年 日本テレビ放送
>ツタンカーメンだけで一冊を構成しており、ツタンカーメンの生涯について、結構詳しい。
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5.4 お勧めヒエロ・グリフ関係の本(9文献)>
一番のおすすめは、日本語のサイト「Nilestory.com」のヒエログリフ入門
>無料だし、ヒエロ・グリフの初歩的な文法が丁寧に解説されている。
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体験に学んだ効率的なヒエロ・グリフ学習法の順に記す
1●ヒエログリフを書いてみよう 読んでみよう 古代エジプト文字への招待 白水社
>これで、ヒエロ・グリフの大枠を学ぶ。
2●はじめてのヒエログリフ 実践講座 原書房
>これでヒエロ・グリフの文章を数をこなす。
3●「ヒエログリフ文字手帳 自然風土のめぐみ編」 弥呂久
>ヒエロ・グリフ文字の元になった風景、動物(ツノの生えたヘビとか)をこれで見る。
4●「ヒエログリフ文字手帳 人々の暮らし・生活編」 弥呂久
5●「古代エジプト文字を読む辞典 ヒエログリフに挑戦」 東京堂出版
>これで文法をマスターする。
6●「はじめての古代エジプト語文法」 信山社
>この本は、古代エジプトの研究者のための辞典というべきレベル。本気レベルで勉強しないとついていけないレベル。
7●「図説 ヒエログリフ辞典」 創元社
>個々のヒエロ・グリフ文字についての解説が詳しい。
8●「ヒエログリフの謎をとく」 創元社
>ヒエロ・グリフ文字の解読方法を見つけたシャンポリオンの生涯について。
5.5 古代エジプト関係の書籍(52文献)
1●「歴史(上、中、下)」 岩波文庫
2●「王家の谷」 法政大学出版局
3●「エジプト博物館」 講談社
4●「ピラミッドの謎」 講談社現代新書
5●「クレオパトラの謎」 講談社現代新書
6●「古代のエジプト 図説世界文化地理大百科」 朝倉書店
7●「ツタンカーメンの謎」 講談社現代新書
8●「ナイルの恵み」 東京書籍
9●「ピラミッドは語る 王の墓、黄金、盗掘」 岩波ジュニア新書
10●「古代エジプト文明の謎」 光文社文庫
11●「古代エジプト探検史」 創元社
12●「ファラオの食卓 古代エジプト食物語」 小学館ライブラリー
13●「ものの始まり50話 文明の源をさぐる」 岩波ジュニア新書
14●「エジプト美術」 小学館
15●「ファラオと死者の書」 小学館ライブラリー
16●「クレオパトラ」 創元社
17●「ミイラの謎」 創元社
18●「ファラオの秘薬 古代エジプト植物誌」 八坂書房
19●「エジプト」 新潮社
20●「新装版 ツタンカーメン秘話」 白水社
21●「古代エジプト」 教育社出版サービス
22●「エジプト発掘30年」 平凡社
23●「超古代 ピラミッドとスフィンクス」 平凡社
24●「ツタンカーメン ファラオの都テーベ」 平凡社
25●「エジプト美の起源 カイロ博物館入門」 小学館
26●「エジプトの考古学」 同成社
27●「新装版 エジプト学夜話」 青土社
28●「図説 古代エジプトの女性たち」 原書房
29●「ファラオの王国」 ニュートンプレス
30●「クレオパトラ」 ニュートンプレス
31●「図説 王家の谷百科」 原書房
32●「ラメセス2世」 創元社
33●「古代エジプトを発掘する」 岩波新書
34●「古代エジプト ファラオ歴代誌」 創元社
35●「パピルス」 学芸書林
36●「古代エジプト ミイラ5000年の謎」 講談社
37●「ヒエログリフを書こう!」 翔泳社
38●「エジプトのミイラ」 アケト
39●「痛快 ピラミッド学」 集英社インターナショナル
40●「ヒエログリフの謎をとく」 創元社
41●「古代エジプト なるほど事典」 実業之日本社
42●「図説 ヒエログリフ事典」 創元社
43●「古代文字に秘められた謎」 成美文庫
44●「埋もれた古代文明の謎」 東京書籍
45●「ピラミッド文明 ナイルの旅」 NHKライブラリー
46●「古代エジプト埋もれた記憶」 青春出版社
47●「ヒエログリフで学ぼう!」 荒地出版社
48●「ヒエログリフを愉しむ」 集英社新書
49●「ピラミッドがくれた不思議な力」 近代映画社
50●「古代エジプトを知る事典」 東京堂出版
51●「ヒエログリフがわかる絵本」 創元社
52●「ぼ、ぼ、ぼくらはエジプト探検団」 アスコム
以上。