古代中国 清朝皇帝に関する読本

 古代中国 清朝皇帝に関する読本

楠本 慶二 著 (必要に応じて更新 )


目次>-----------

1.  紫禁城 (故宮博物院)

2. 清朝の皇帝一覧

3. 清朝皇帝の食事風景、周囲回り

4. 清朝皇帝の子供の数と次期皇帝の決め方

5. 清朝皇帝の夫人達と選び方

6. 清朝皇帝の一日

7. 皇帝の日常生活の場> 養心殿、三希堂(書斎)

8. 清朝皇族の寿命(生きた年数)

9. 清朝のしきたり

10. 清朝皇帝の末路

11. 清朝皇帝、宮廷の服装と見分け方(皇帝服、ドラゴンローブ、龍袍(ロンパオ、りゅうほう)、朝服(チャンパオ))

12. 皇帝関連の印鑑(国璽)

13. 倉庫

14. 乾隆帝時代の庶民の生活状況

15. ラストエンペラー 愛新覚羅 溥儀の年表

16. 文学、映画、ドラマで詳しく知る

17. あとがき

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1.  紫禁城(しきんじょう)、現在は故宮博物院

 紫禁城とは、天帝(創造主)が住んでいる星とされる北極星を紫微星(しびせい)、北極星周辺を巡る星座の辺りを紫微垣(しびえん)と呼んだのに由来する「紫宮」、及び「天帝の命を受けて世界秩序の維持に責任を持つ皇帝(天の子供の設定ということで、天子という)」の宮殿たる禁城(自由に入るのを禁止された城)の二語を合わせて「紫禁城」と呼んだことに由来する。

 現在、北京にある紫禁城は、明朝第三代皇帝 永楽帝(えいらくてい)の命令によって西暦1407年に着工し、総数100万人で13年かかって1420年に完成した。 現在の紫禁城は、約1000m、横幅約760m、10m以上の高い城壁によって守られており、敷地総面積は72万平方m。

 現在の紫禁城には800棟の建物があり、部屋数は9999.5と言われている。大部分は黄色の瓦で葺かれている。 ちなみに、黄色(正確には明黄色)が皇帝及び皇后の色とされるのは、中国語で黄と皇は共に「ホワン」と発音に由来している。赤は力と運まれ、光を表現している。 そのうち、黄色と赤色で紫城禁止が世界の中心で光り輝いていることを表現している。

 建物は木造で、主に楠木(普通のクスノキではなく、木目が美しく特殊な繊維構造によって腐食しにくい金絲楠(キンシナン)という楠木)で建てられており、これらの巨木は主に広東など中国南方地方から水路を経て3~4年かけて取り寄せた。

 煉瓦(レンガ)は江南や山東から運ばれ、1億個以上使用され、太和殿前の広場には地下からの敵の攻撃に備えて7層にわたってレンガが敷き詰められている。

 石材は北京郊外から選ばれ、特に大きい石材(例えば250トンの石材)については、一里おきに井戸を掘り、冬が来るのを待って道路に水をまき、氷を張ってその上を滑らせて1000頭のロバで1万人が28日間かけて運んだと言われる。

 紫禁城は、外廷と内廷に大きく分けられ、外廷は大臣、料理人、役人、護衛など限定された人が入場することが許されていた。 一方、内廷は宦官、宮女、召使いなどの限定された人しか入場することはできず、内廷に用事のある人は「腰牌」と呼ばれる札をもらって初めて入場することが許された。

 後述のように、清朝においては「しきたり」によって皇帝の毎日の生活が決められていた。北京は緯度が高いので寒く、夏は蒸し暑かった等の理由によって清朝中期以降の皇帝達は紫禁城で生活することを嫌がり、康熙帝(こうきてい)は熱河(現在の承徳市)の離宮、乾隆帝(けんりゅうてい)は円明園(頤和園の隣)、西太後(せいたいこう)は頤和園(いわえん)で一年の大部分(4月~9月)を過ごしていた。紫城禁以外では「しきたり」は大幅に緩和され、大臣の謁見以外はある程度自由になっていた。 しかし、紫禁城以外の生活が長くなると、秦上文で大臣から諌められていた。

 明朝(みんちょう、明王朝)、清朝(しんちょう、清王朝)では、紫禁城の中は天上世界ということになっていた。

 現在、中国の象徴として有名な天安門は、当時、紫禁城の入口として天と地をつなぐ境であり、天安門は皇帝の意思を記した勅書(ちょくしょ)を発布する場所となっていた。鳳凰の置物の口から落とした勅書を受けとり、そこで勅書を認めた。 勅書はその場で別の紙に書かれ、印刷後、全国に配布された。 その際、天安門前の開けた場所には文武百官と慕われる大半の臣下たちが、この式典のために整列していた。 このイベントは金鳳頒勧告(きんぽうはんしょう)と呼ばれた。

参考文献>「紫禁城史話 中国皇帝政治の檜舞台 中央公論新社」、「紫禁城散策いろいろ事始め 凱風社」、「食在宮廷、学生社」、「素顔の西太后、東方書店(1987)」、「北京の紫禁城」今日中国出版社

 現在、紫禁城は故宮博物院と呼ばれており、故宮とは「昔の宮殿」を意味している。

 紫禁城にかつてあった宝物については、歴史的経緯もあって、現在、北京の故宮博物院その他、南京博物院、及び台湾にあり、台湾では国立故宮博物院という施設で展示されている。

 簡単というと、台湾の国立故宮博物院には、運びやすい宝物、かつ当時価値が高いとみなされた宝物があり、北京の故宮博物院は、重い物、価値が低い物、紫禁城自体がメインである。歴代中国の書画、工芸品を見たいなら台湾の国立故宮博物院に、紫禁城及び皇帝の生活空間を体験したいなら、北京の故宮博物院に行かれることをお勧めする。


2 清朝の皇帝一覧 

清朝(清王朝)> 清朝は、漢民族の王朝ではなく、現在の中国東北部にいた狩猟民族が打ち立てた異民族王朝。 当時、満州族の人口は多く見積もっても100万人いなかったと考えられており、初代ヌルハチは部族を統一し、武力によって明朝を倒して(一部の漢人による協力もあった。)清朝を打ち立て、当時2億人の漢民族を管理した。第2代皇帝ホンタイジの頃までの皇帝は、弓矢などの武芸は得意だったが、蒙古文字が読み書きできる程度であった。

初代 ヌルハチ(1559-1626)

 1616年にハーン位(王位)に就き、国号を大金とした(前に金王朝があるので後金と呼ぶ場合もある)。1625年に盛京(=現在の瀋陽)で国を立ち上げた。出身部族である女真族は姓が無かったので、王になったあと、漢字の姓で愛親覚羅(あいしんかくら、中国読みでは、あいしんぎょろ)とし、女真族は文殊菩薩信仰があり、「文殊菩薩」(もんじゅぼさつ)からとって中国東北部を満州(まんじゅ)と考えた。この頃は、1592年から1598年に豊臣秀吉が朝鮮出兵を行っており、清朝前の明朝の注意が日本に向けられ、中国東北部の警備が緩かったので、これも清朝成立のきっかけの一つとされている。


2代 通称ホンタイジ(皇太極)(1592-1643)。在位1626~ 1643

 ホンタイジとは皇太子という意味で本名ではない。 清朝初期は、生まれた順で皇帝になっていたが、これでは王子の間で諍いが多く、中期は皇帝にふさわしい王子を事前に選んで、後に発表される制度だった。

3代 順治帝(じゅんちてい、1638-1661) 北京の紫禁城に7才で居住し、24才で天然痘で病死。

  聡明で中国古典や文学書を読む、書画骨董を愛するなど文人としての面もあった。

4代 康熙帝(こうきてい、1654-1722) 在位1661~1722

 生まれつき強靭な体力に恵まれ、酒もタバコもたしなまず、17、18才頃は毎日血を吐くほど勉強したという。 朱子学に傾倒し、古典文学、歴史書を勉強するとともにヨーロッパ人宣教師からラテン語、数学、天文学、物理学まで学んでいた。

5代 雍正帝(ようせいてい、1678-1735 ) 在位1722~1735

6代 乾隆帝(けんりゅうてい、1711-1799) 在位1735~1795

 清朝の全盛時代を作った人物で、文武に興味を持ち、生涯に4万数千種の詩を作った。在位時に支配下の地域の言語、モンゴル語、チベット語、トルコ語も目を通していたという。

7代 嘉慶帝(かけいてい、1760-1820) 在位1796~1820

8代 道光帝(どうこうてい、1782-1850 ) 在位1820  ~1850

9代 咸豊帝(かんぽうてい、1831~1861) 在位1850~1861

 西太后(せいたいこう、西太后はあだ名で、正確には慈禧太后(じきたいこう)と呼ばれていた。「せいたいごう」と呼ぶのも間違い)の夫。

10代 同治帝(どうちてい、「どうじてい」と呼ぶ場合もある。1856~1875) 在位1861~1875

 西太后の一人息子。幼くして皇帝に即位したので、西太后と共同で治めるという意味で「同治」帝としたとされる。

11代 光緒帝(こうちょてい、こうしょていと呼ぶ場合もある。1871 ~ 1908 ) 在位1875~1908

 西太后によって3才の時に皇帝にされたので、若い頃は西太后の指示通りにしていたが、青年期に自我に目覚め、中国を近代化させるために、西太后へのクーデターを画策したが発覚し、皇帝でありながら死ぬまで軟禁された。 皇后(西太后の姪)は、将来を考えて皇帝制度の廃止の決断を行ない、始皇帝以来の中国の皇帝制度を廃止した。後に、この判断を悔やみ、一年後に44歳という若さで病気で倒れて崩御した。 (真偽は不明だが、「私のような不幸な妃を、もう作らない」という願いを込めて、皇帝制度を終結させようと発言したらしい。)が、崩壊後、「封建時代を終了させた人」として国葬扱いとなり、近代、評価されつつある。

12代 宣統帝(せんとうてい、1906~1967)  在位1908~1912

 ラストエンペラー愛新覚羅・溥儀(あいしんぎょろ・ふぎ、アイシンギョロ・プーイー)は、西太后によって2-3才で擁立された正統な中国最後の皇帝である。(その後、袁世凱が自称「皇帝」を名乗った時期がある) 在位期間はわずか4年であり、自分の意思で退位したわけではなく、実際は、西太后の足跡を継いだ隆裕皇太后(りゅうゆう こうたいこう) 光緒帝の皇后で、西太后の姪)が国の将来、皇族の今後を考えて皇帝退位の決断を行った。隆裕は、光緒帝の従姉(いとこ)にあたり、西太后によって皇后に推薦されたが、光緒帝からは愛されず、不遇な人生をおくったが、崩壊後「始皇帝以来の皇帝政治、封権時代を終了させた人」として国葬扱いを受け、近代では再評価されつつある。


3. 皇帝の食事風景、身の回り 

< 食事風景 >

 明の時代は、永楽帝(えいらくてい)が北京に連れて来た料理人が山東人であったため中国、山東料理が主流。

 清代初期は、清朝の故郷である満州料理と山東料理が並んでいた。皇帝が飲む水、お茶に使う水、料理に使う水はすべて、北京西郊外の玉泉山から専用の車で毎日運んできて、皇帝は玉泉山、豊沢園、湯泉などでとれる黄、白、紫の3色の老米、至る所から貢がれた米を食べ、皇帝専用に乳牛50頭、皇后専用に乳牛25頭が飼われていた。

 乾隆帝(けんりゅうてい)の頃になると料理が徐々に豪華になっていき、乾隆帝の時期で朝食と昼食の毎回、100品の料理が並び、清朝末期の西太后の頃は毎回(朝食と昼食)、最高の贅沢を作った360品の料理(毎)回、お粥だけで50種類以上)と100種類を越える点心が並んでいたとされる。300点以上の料理と聞くと贅沢を尽くしているように聞こえるが、中国には「医食同源」という言葉があるように、実際には、あらゆるものを少しずつ食べて健康を保つ、中国全土から珍しいものを満遍なく取り寄せることによって皇帝の権威を保つ、中国全土の流通網を整備するという理由もあった。その結果、 4000種を超える料理と400種を超える点心のレシピがあった。

 しかし、ラストエンペラー溥儀(ふぎ、プーイー)の青年期は、既に皇帝を退位しており、財政的問題、及び儀式の簡略化によって溥儀の好みに応じて現在と同じような数品の中華料理や洋食だった。

 宮廷の料理には厳密な決まりがあり、かつて一度でも皇帝が食べた料理については、調味料、材料、誰が作ったか等を詳細に献立表に記録しており、時代を超えて、いつでも味が変わらないようにしていた。皇帝専用の料理人は100人以上、その他、皇后、貴賓専用の料理人はそれぞれ10人いた。 宮中の料理人は基本的に世襲制で清朝300年間ほとんど家系の変化はなかった。

 現在の中華料理は、多人数で回るテーブルで大皿料理を食べるという場合が多いが、「回る丸いテーブル」は日本人が発明し、中国で流行したものであり、満州料理は日本食と同じように一人一皿の料理が基本である。

 食事時間は朝食が朝6-7時頃、夕食が3時頃であり、この2回が正式なもので、その他、12時ごろには軽い軽食、夕方6時ごろには酒と簡単な点心が出された。 食事の場所は特に決めず、皇帝の気の向いたところで、すぐに食卓が広がった。

 皇帝が食事することを伝えると、身なりを整えた宦官(かんがん、当時、宦官は“太監”、若い宦官は小太宦と称していた)達が大小膳を高く評価、龍の模様がついた机を運んできた。

 皇帝は宴席を除くと、一人で食事するのが基本で、料理が着くと、おつきの者が各料理の上に置かれた「小さな銀の板」が毒で変色していないかを調べた。 これは当時は毒と反応して銀が変色すると信じていたからである。

 その後、皇帝が席に着くと料理の蓋が一斉にとられて食事を開始した。 当然、これらの料理はすべて食べられるはずも無く、ほとんどの料理は、その後、皇后、皇貴妃、お付の者達に分け与えられた。

 食事に使う食器は、官窯(かんよう)で製作された皇帝の象徴である黄色の磁器、白い玉(ぎょく)で作ったお茶碗、箸、金の箸が使用され、客には銀の食器で提供された。同様に内と外が黄色いのは皇帝、皇太后、皇後用で、内側が白く、外が黄色い容器は皇貴妃用、黄色地緑龍は貴妃と妃用、藍色地黄色龍は賓(ひん)用、緑地紫龍は貴人用、五彩紅龍は常用として使用されていた。

 宮廷では、牛は農作業用という理由から食べることはタブーであり、現代の中華料理に牛肉を使ったものが少ないのはこの辺の事情に由来する。

毎日の皇帝の食事のメニュー及び、どれだけ食べたかは、すべて記録され、文書として保存されていた。

参考文献>「紫禁城散策いろいろ事始め」凱風社、「溥儀紫禁城の廃帝」東方書店、「紫城禁史話」中公新書、「食在宮廷、学生社」、「北京の紫禁城」今日中国出版社

<周囲を巡る>

 昔の紫禁城には、井戸はあったが、基本的にトイレはなかった。よって、しびん、おまるで済まし、宦官、宮女がすべて後始末をしていた。 当時は、調理、お湯沸かしはすべて石炭を使用していたので、お湯を沸かすのも大変だった。

 紫禁城内には井戸が72あり、生活用水は井戸水が基本であったが、皇帝が水を飲む、お茶に使う水、料理に使う水はすべて、西郊外の玉泉山から専用の車で毎日運んできた。

 当時、「宦官(かんがん)は人ではない、しゃべる動物=生殺与奪は主人の自由」という考えだったので、皇后、側室達は宦官の前でも平気で裸になっていた。 お風呂は日本のように「肩まで浸かる」タイプではなく、大きなタライの中で、お湯をかける程度であったので、当然シャンプーなどはなく、女性は、特殊な櫛を使って頭のフケを宦官に取らせていた。

宦官、召使の中には「起居注」係がいて、帝の言行や食べた料理、誰が見たなど生活をすべて記録し文書で保存していた。

皇帝が寝ている時はお付の宦官、召使が交代で一晩中、警護にあたっていて朝4時に皇帝を起こしていた。西太后の晩年は、寝室の外に宦官が6人一晩中見張っており、寝室内には宦官が2人、召使いが2人、老女中が2人、時にはさらに女中が2人夜通しで眠らずに西太后の睡眠を見守っていて、朝5時に西太后を起こしていた。

 皇帝が自分で歩く場合以外は、基本的に輿(こし、御輿(みこし))に乗って移動することが基本であり、正装した宦官8人で担ぎ、別の宦官4人が先導し、12人の宦官が後ろから皇帝の使用する服、椅子、宦官等を罰するための竹棒などを持って歩いていた。

 始皇帝の時代は馬車を使うこともあったが、清時代には近場への皇帝、皇族の移動には「輿」が用いられ、この輿は乗り心地が悪く、実際に西太后は輿から転落したことがあるらしい。紫禁城から出る時には、皇帝の象徴である黄色い砂(黄砂)を5cm程度の厚さで道にまいて皇帝専用の道を作って、(実際には砂が舞わないようにまいて少し湿らせていた)そこを正装した宦官達が神輿を担いで皇帝を運んだ。

参考文献> ●故宮博物院14 工芸美術 NHK出版、「溥儀紫禁城の廃帝」東方書店、「素顔の西太后、東方書店(1987)」、「西太后汽車に乗る、東方書店(1997)」

エクセルはNHKドラマ「蒼穹の昴」公式サイトから引用------

西太後のエステ> 西太後は美肌を目指して毎朝、母乳を飲んだという。 母乳を提供する5人の女性が宮中にいた記録が残されている。 実際には母乳が肌に良いとする科学的根拠はないらしい。 8種類の漢方を使った乳液、特製シャンプー、歯磨き粉なども作らせている。ドラマでは、玉石でできた美顔ローラーを使用する西太后が描かれている。 肌の血行を良くし、新陳代謝を促進する効果があるとして、いつも愛用していたという。

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4. 皇帝の「子供の数」と次期皇帝の決め方 

 現代感覚では長男、または二男がスムースに世襲したように思うが、実際には違った。

 記録によると清朝中期の康熙帝(こうきてい)(1662年頃)には、息子(皇子)その他に、娘(公主(こうず))が20人いて、無事に大人に育ったのが8人である。 清朝においては、平均すると息子が10人生まれて6人育ち、娘が7人生まれで3人が育ったという。 宮廷という最高の医療環境下においても、当時の医療レベルでは約半分の子供が病気で夭逝する時代だった。

 康熙帝の次の皇帝である雍正帝(ようせいてい)は皇四子だった。成人男性は皇帝一人だったので、成人した子供たち(皇帝の兄弟や叔父、甥は王爺(ワンイエ)と呼ばれた。)は、紫禁城の北にある王府(皇族用の住居)で暮らしていた。それぞれの王府には150-200人ほどの使用人がいた。

 皇帝の子として生まれた男の子は、出産直後に生母から離されて乳母に渡され、子供一人について保護母8人、乳母8人、その他雑役(食事、行水、オムツ係など)40人によって育てられ、離乳すると保母や乳母の代わりに、何人かの宦官が養育係として配慮した。 乳母も人間であるので母乳が出るのは出産直後に限られており、事前に「身元のはっきりした出産直後の女性を複数」確保していた。

 6歳になると皇子は決められた衣冠を身に着けて宮廷の行事に参加しなければならなかった。

 子供が代々15歳で結婚し、子供が生まれるとどうなるか。 順調に行って、孫が出来るのが早くて30歳、ひ孫が出来るのが45歳、玄孫(やしゃご)が出来るのが60歳ということになり、実際、長生きした乾隆帝は玄孫(乾隆帝も含めると5代目)がいて、記念に「五福五代~」 「5代後の子孫まで見られるのはとても幸せ)」という印鑑を作っている。

 皇子が皇帝に選ばれると、皇子の妻は、自動的に皇後、皇帝の生母は皇太后(正確には前皇帝の妻が東の皇太后になるので、皇帝の生母は西の皇太后になる)に選ばれた。

 昔の中国では女の子は「子供の数に数えない」という風習であり、皇帝の女の子(これは公主と呼んだ。公主は和風というと姫。公主の由来は三公(特定の大臣)が、主催して姫の結婚式を行っていたから。)は年頃になると貴族と結婚させて、宮廷から出していた。

 基本的には、清朝中期ごろには後宮には皇后、貴賓、宮女、召使いを含めた数百人の女性達、皇帝の幼い子供達、千人に近い宦官、そして唯一の男性である皇帝が死ぬまで生きていた。しかし、いつまでも権力の座にいてはいけないという名目で生前に引退し上太皇となった例はある。 皇帝が死ぬと、ある特定の場所に隠されていた遺言書によって次の皇帝が指名される制度なので、例えば雍正帝(ようせいてい)は即位する46才まで紫禁城外で暮らしていた。

 清朝以前は、おつきの宦官大臣や母親側の親族(息子、親戚が幼くして皇帝になると権力をふるえるから)に、そそのかされて腹違いの息子同士が次期皇帝の座を狙って、いがみ合った状況だったので、この反省から、清朝中期には、皇太子をたてず、皇帝が息子の性格、力量などを見ながら生前に次期皇帝を決めて文書にして、特定の場所に隠して、皇帝が死んだその遺言状態で皇帝継承を決めていた。しかし、清朝末期には西太后(西太后(せいたいこう)はあだ名。正確には慈禧太后(じきたいこう))が次期皇帝を事実上決定していた。

参考文献>「西太后 大清帝国最後の光芒 中公新書 中央公論新社」、「雍正帝―中国の独裁君主中公文庫」、「図録【紫禁城歴代の秘宝故北京宮博物院展~日中平和条約締結10周年記念~】昭和63年/西武美術館」

「北京の紫禁城」今日中国出版社には、秘密建ちょの実際の文書が写真で掲載されている。


5. 皇帝の夫人達と選び方

 清朝の制度に関しては、皇帝の后(きさき)については、皇后の次に、皇貴妃、貴妃、妃、賓(ひん、正確には女編に賓という漢字)、貴人、応答(とうおう)、常在(じょうざい)というクラス分けがあった。よって、有名な楊貴妃は(楊)貴妃であり、第三クラスの婦人であることがわかる。また、「珍妃の井戸」で有名な珍妃(ちんひ)も第四クラスの婦人ということがわかる。

 康熙帝の頃から定員制となり、皇后は一名、皇貴妃は一名、貴妃二名、妃四名、賓(ひん)六名、貴人、応答、常在には収容はなかったとされる、皇后が後宮の内治を担当し、皇貴妃~賓客まで13人が内治を補佐していたが、実際にはこの定員は目安で制限を受ける訳ではなかった。清朝の平均としては皇帝一人当たり約24人の夫人がいた。 しかし、清朝後期になると、奥さんの数は減り光緒帝は皇后、妃2人の計3人。 ラストエンペラー溥儀(宣統帝)は最初に皇后と貴妃で2人で、後に貴妃は離婚した。

皇帝、皇后、後妃クラスの奥さま達は別々の建物に住んでいた(清朝後期の同治帝や光緒帝の時期は、皇帝と同じ養心殿の別室に住んでいた。また同治帝が幼い時は、西太后や東太后も、養心殿に住んでいた時期がある)が、貴人以下のクラスの奥さま達は他の妃とともに寝起きしていた。

 彼女達は、クラスに応じて、住む場所、宦官の人数、毎年支給される手当の金額、儀式時の座席の順番、会見時の洋服のデザイン、色などが決まっていた。これらの後のうち、皇后が一番ランクが高いもの、皇后は皇帝と同じ場所で飲食、寝起きする訳ではなく、皇后専用の建物で別々に暮らしていた。

 皇太后が存命である時は、親、先祖を大切にする儒教の影響から、皇帝、皇太后は毎朝、(生みの親でなくても)皇太后の宮殿に出かけてご機嫌をとり、皇太后が挨拶を済ませたのを確認してから、貴賓達が皇太后に挨拶に行っていた。

 当時は、女子は教育は不要という考えから、大半の後は読み書きが出来ず、後宮に入って、刺繍をしたり宮女を相手におしゃべりをしたり、御用学者から歴史、書画をならったりしてヒマをつぶす生活をしていたが、騎馬民族である満州族の伝統にならって女性も乗馬、武術訓練した。しかし、西太后は父親が中堅官僚であったため当時の婦女としては珍しく、公文書の読み書きが出来た。

また、当時は紫禁城内でパグやチンのような小型犬を飼うことも流行し、犬を飼う部門もあって、数百頭が飼育されていた。

 基本的に妃に離婚という概念はなく、皇帝が死ぬと死ぬまで香を炊いて仏像を拝む生活になった。一生、紫禁城で暮らすことになったので、歴代の婦人の中には、将来を悲観して紫禁城の外の池に身を投げた人もいるらしい。 皇帝が代わると、前皇帝の皇后、妃達はすべて「東朝(とうちょう)」と呼ばれ、皇帝と東朝は黙っていないが儒教の礼節の一つであり、「東朝」はすべて東朝宮、紫禁城でいうと慈寧宮(じねいきゅう)に引っ越した。

清朝以前では、宮女として後宮に入っても、功績のあった家臣として下賜されることもあったが、清朝期では、後宮に入った後は、基本的に庶民の世界に戻る事はほとんどなく、親族の体調が悪い時などは、親族が1ヶ月程度、後宮の中で過ごすことが認められた程度であった。清朝貴族の間では、後宮に娘を取られないように、意図的に娘の出の事実を隠したりした例がかなりあった。

 皇帝が死去した場合、皇后は皇太后(こうたい)という名前で呼ばれた。 有名な西太后(せいたいこう)は、最終的には咸豊帝(かんぽうてい)の第二夫人となって、後宮の西の建物に住んでいたから西太后と呼ばれ、皇后(第一夫人)は東の建物に住んでいたので東太后(とうたいこう)と呼ばれた。

 歴史的には皇帝と離婚した後もおり、それはラストエンペラー愛新覚羅・溥儀(アイシンギョロ・プーイー、あいしんかくら・ふぎ)の二番目の夫人(順番的にも皇后、貴妃、妃の順番でいうと淑妃であり、上から三番目)であった文殊(ウェンシュウ、ぶんしゅう)である。裁判を起こして再婚しないとの約束で離婚後、平民となり小学校の教師となった後、別の男性と結婚した。

<選び方>

 晋(しん)の武帝時代には、1万人の宮女が住む広大な後宮を羊に引かせた車によって巡回し、羊が足を止めた部屋で一夜を過ごすとされ、宮女達は、自分の部屋の前に羊の好物である塩を盛った。

 明(みん)時代には女子の品徳や家柄などは関係なく、容姿によって後妃を選んで(明末期は宮女9000人、お世話になる宦官は10万人)、皇子を産ませたので、皇帝の当たり外れが大きかった。 清朝では、女子の品徳と家柄が重視され、建前上は容姿によって選ぶことはなかった。選考システムは「選秀女」と呼ばれ、旗人(きじん)と呼ばれる、日本でいう旗本、大名家の娘は義務として必ず「選秀女」に参加しなければならなかった。

 「選秀女」は3年に一度行われ、11~20歳、平均すると14-16歳の娘が参加させられた。 基本的には皇帝が自分で選ぶが、皇帝が幼い場合は皇太后が自分の都合(皇太后の一族であるとかの理由)によって選んでいたとされ、美人が選ばれる決ことはなかった。

 上記の「子供の数」と関係するが、「どの奥様に子供が何人生まれるか」というのは、「皇后だから子供が一番多い」という訳ではなく、奥様の容姿や性格によってかなり偏りがあった。清時代は、漢族、満州族、モンゴル族など八旗の中と呼ばれる8部族に貴族がいて、旗人(貴族)同士では婚姻、土地の売買が許されていたが、その他の部族における庶民(例えば漢族の貴族と庶民)との結婚は許されなかった。

参考にした文献>「西太后 大清帝国最後の光芒」 中公新書中央公論新社、「食在宮廷、学生社」


6. 清朝皇帝の一日 

 朝> 皇帝が紫禁城にいる間は、午前4時頃に起床しなければならなかった。 皇帝が幼少で、政治を担当していない時は少し遅く起きた事ができた。

 皇帝が起きて、宦官が付き添って、まずは風呂(沐浴)に入った。 その後、軽い朝食(おやつに近い)を食べてから、宦官がかつぐ輿(御輿、みこし)に乗って大臣達の「早朝の謁見」にのぞんだ。 ちなみに、「朝廷」という言葉は、朝一番に会議を開いていた事に由来する。

 謁見が終わって、寝室に戻って一眠りした後、仏陀を拝んだり、先祖の功績を記した本と教戒の言葉を載せた本を各一冊読んだ後、7~8時ごろに朝食(料理100皿~)をとった。服を着替えて乾清宮に出て、大臣と打ち合わせたり、地方から届けられた上奏文に目を通し、軍機処(政府)に指示を出していた。日課が終わるのは午後3時頃で、その後は自分の好きな場所で夕食をとった。

 昼> 3時ごろ夕食をとった後は、清朝のしきたりにしたがって、1時間ほど昼寝した。 その後は、学者を呼んで話を聞いたり、皇太后、皇后、妃賓たちとおしゃべりしたり、宮内で劇を見たり、読書したり、詩文を作ったり、経典したり、宝物を愛でたりしていた。

 夜> 5時以降は、晩の軽食や酒膳をとり、その後、お経を読んだりして、しばらく休んで寝ていた。 皇帝が未成年の場合は、皇帝が一旦お酒を飲んだところで、宦官がそれ以上飲むのを止めていた。

 「清朝のしきたり」によると、皇帝が皇后、貴賓のいる宮殿に行くと、皇后、貴賓は、宮殿の前に並び、ひざまづいて出迎えなければならなかった。よって、こういうのは面倒なので、実際には皇帝が後妃の宮殿に行くことは少なく、妃を夜に寝床に呼びたい時は、夕食時に専門の宦官が、それぞれの妃の名前が付いた札を持ってくるので、皇帝が「夕食を○○妃に賜る」という札をかざして指名していた。 実際には、妃を呼ばない日もあった。

 呼ばれた妃は、生理中でないことを確認した後、宦官、女官達によってタライの香油のお風呂に入れられ、体を清潔にした後、裸のまま羽毛の布にくるまれて、宦官達によっておぶられて皇帝の元に行った。これは、危険物を持っていないかチェックするためである。 呼ばれた妃達は、一晩中、皇帝付き添っていることはほとんどなく、ある程度の規定の時間が経ったら、宦官が声をかけて、その妃は宦官に背負われて退室し、別部屋で寝ていた。妃の管理が出来ないと「本当に皇帝の子か?」という確認が出来ないので、専門の宦官が「何月何日皇帝は誰と寝た」を記録に残していた。

 西太后の晩年は、寝室の外に宦官が6人一晩中見張っており、寝室内には宦官が2人、召使いが2人、老女中が2人、時にはさらに女中が2人夜通しで眠らずに西太后の睡眠を見守っていて、朝5時に西太后を起こしていた。

 これら皇帝の言行、行動、食事などについては、「起居注」係の宦官が生活をすべて記録し、文書で保存していた。 紫禁城内にある歴史档案館(れきしとうあんかん)には、明清両朝500年の皇帝の公式記録および宮廷の生活記録が1000万冊保存されているという。

 紫禁城には、歴代の宝物が保存されていたが、明朝期の戦乱によって多くの宝物は散逸した。清朝になると、特に乾隆帝が中国各地の名品を購入し、また、各地の権力者が名品を献上することが多かったので、数百万の宝物が所蔵されていたが、これらは、時代の経過とともに宦官などが持ち出して私腹を肥やすなどして減少したが、エンペラー溥儀が退位した時点でも80万点は残っていたとされる。

 以上のように、清朝に関しては「しきたり」によって毎日の生活が決められていたので、清朝中期以降の皇帝達は紫禁城で生活することを嫌がり、康熙帝は熱河の離宮、乾隆帝は円明園、西太后は頤和園(いわえん)で一年の大部分を過ごしていた。 紫禁城以外では「しきたり」は大幅に緩和され、大臣との謁見以外はある程度自由になっていた。

 その他> 宮廷内宮では一日中、香が焚かれていた。 これは、風呂に入る回数の少なさ、宦官の生理現象(日常的な尿漏れに由来する臭気)等由来の匂いをごまかす意味が多かった。


7. 清朝皇帝が寝起きした場所>養心殿、三希堂(書斎)

養心殿(ようしんでん)> 養心殿が建てられたのは明時代で、清朝ではじめて、紫禁城で暮らした順治帝が、ここを書斎及び執務する場所と決めて生活をはじめ、康熙帝、雍正帝、乾隆帝、同治帝も、ここで暮らして、ここで逝去した。広さにして4畳半くらいの場所であった。 当時の清王朝(18世紀の中国)は、全世界の総生産額の20%を有する経済大国であって、皇帝は望めば何でも手に入れられる状況であったが、実際に暮らすこととなると養心殿でも大きすぎるくらいに感じていた。溥儀が皇帝を退位するのを決定した文書にふさわしい場所は東暖閣で、実際には溥儀は当時6才なので、先帝(光緒帝)の皇后である隆裕皇太后が、溥儀の退位を決め、ここで署名した。西暖閣の一角には、乾隆帝の書斎として有名な「三希堂」がある。

三希堂> 三希堂は、当初は皇帝小書斎(広さにして2、3畳ほど)であったが、詩文や書画に精通していた乾隆帝が36才の時、晋時代の書家「王義之」の本「快雪時晴帖」、王献之の本「中秋帖」、王進の本「伯遠帖」の3つあったことを喜び、乾隆帝自身が「伝説であること(希賢)、聖人であること(希聖)、天人であること(希天)」を望むという意味も込められて命名した。冬になると、この小部屋で「三希」を広げて鑑賞し、詩作にふけっていた。 乾隆帝は、王義之といった史上の名筆を数多く臨書(真似書き)し、「快雪時晴帖」は100回ほど臨書したと書いている。

参考文献>「紫禁城の女性達中国宮廷文化展 西日本新聞社(1999)」、「素顔の西太后、東方書店(1987)」、「食在宮廷、学生社」「最後の宦官秘聞、NHK出版」、「図録 北京故宮博物院清朝宮廷文化展」


8. 皇帝の寿命(生きた年数) 


順治帝(じゅんちてい)24歳、康熙帝(こうきてい)69歳、雍正帝(ようせいてい)58歳、乾隆帝(けんりゅうてい)89歳、嘉慶帝(かけいてい)61歳

道光帝(どうこうてい)69歳、咸豊帝(かんぽうてい)31歳、同治帝(どうちてい)19歳、光緒帝(こうちょてい、こうしょてい)38歳

宣統帝(せんとうてい) ラストエンペラー溥儀 61歳

 皇帝と言えば、当時(100-300年前)は医学が発展していなかったこと、乾隆帝の89歳は例外として60歳前で死亡する例が多かった。当時の皇帝たちは、毒殺を非常に恐れており、実際の診察では、まず複数の医師に診てもらって、その中から病気を皇帝が選び、薬を飲む際は皇帝の目の前で医師とおつきの宦官に薬を飲ませて何も起きないことを確認してから、薬を飲んでいた。

参考にした文献>

「西太后 大清帝国最後の光芒 中公新書 中央公論新社」、「乾隆帝の政治の図像学 文藝春秋」、「素顔の西太后、東方書店(1987)」


9. 清朝のしきたり 

○皇帝から言葉(命令)を受け取った時、及び皇帝の言葉が伝えられた時はひざまずく。

○皇帝の前では、だれも座ってはいけない。

○皇帝は宴会時は除き、基本的に一人で食事する。

○皇帝の食事(残しもの)を賜る時は、皇帝の前では、皇后達の自分の宮殿で食べることはできない。

○皇帝は天帝の代理人だから、その言葉は法律と同じ。

○品物を受け取った時は、叩頭(土下座で頭をすりること)する。

○皇太后、皇后以外の貴賓(きひん、賓は正確には女編に賓という漢字)は宮中では偉くないので、女官達は第二夫人以下に挨拶しなくてよい。

○宮廷では毎月2、3日劇を上演するが、皇帝又は皇太后の許しが無い限り、貴賓達は観劇出来ない。

○皇帝から問われない限り、宦官は皇帝と話すことかできない。 皇帝から求められたら、1分以内に椅子、お茶を用意すること。

○宦官は北京から40里以上は出てはいけない。宦官が逃げたら捜索隊を出して連れ帰って処罰する。

○宦官は宮女と話してはいけない。 話す場面が見つかると処罰される可能性がある。

○おつきの宦官、宮女以外は貴賓達と顔を合わせることは出来ない。道で貴賓達を見ると後ろを向いて通りを過ぎるのを待つ。

○皇帝と皇后は自分用の特別の椅子だけに座る。

○皇帝が歩きたいと言えば、お付も歩き、輿(こし、みこし)に乗ると言えば、女官も女官用の輿に乗る。

○皇帝に向かって話すときは、「私は~」ではなく、「しもべは~」という。

○死刑を宣告された者の死刑執行時には、皇帝が毎年行われる行事にて、天界に「今年は○○を処刑し天に送り返しました」と報告する。

○宮中の遊びにおいて絶対に皇帝に勝たない。皇帝に気づかないようにうまく負けること。うまく負けると金品などの報酬が得られた。

○二品以上の位の清朝官史の娘は14歳以上になったら必ず宮廷の宮女オーディションに参加させる。

○牛は農業に必要な動物なので、牛肉は食べてはいけない。

○清朝では、女性は男と一緒の時の服装では手首さえ見せない。

○皇太后(皇帝の母親格)が生きている限り、皇太后は皇帝より偉い。

○庶民は皇帝の行進を見てはいけない。 紫禁城外において、皇帝の行進ルートが分からない時は、庶民を追払い、黄色い砂を厚さ5センチメートルほど敷き詰めて、皇帝の道を用意しておく。 皇帝は庶民と基本的に話さない。

○天子(天帝の、子孫という意味)=子供は、皇帝一人であるとの前提なので、皇帝が決まると兄弟はすべて臣下。

参考文献> 「素顔の西太後、東方書店(1987)」)、「西太后汽車に乗る、東方書店(1997)」


10. 皇帝の末路 

 王朝(例えば明朝から清朝)が変われば、後の王朝は「天命の正義」を得たとして、組織的に墓を暴いて、宝物を没収することが歴代行われてきた。

 例えば、乾隆帝、西太后の墓は1923年に国民政府の軍隊によって暴かれ、死後130年を経た隆帝の口から大きな真珠が取り出され、副葬品の多量の宝物は略奪され、遺体の頭と胴体は分離された。西太后の場合は、数万個の真珠や宝石を縫い付けた礼服を剥ぎ取り、裸にされて放置され、大量の副葬品は持ち去られ、その後、海外に流出したとされる。

 その他、光緒帝は側近にそそのかされて西太后へのクーデーターを画策、計画がバレて、満州族の戒告(家長(この場合は西太后)のいいつけに従い)死ぬまで20年近く軟禁され、西太后の死の前日に毒殺されたと言われている。最近の調査によって毒殺されたことは、ほぼ事実である。 ちなみに、晩年の西太後は、自分を「老仏爺(ラオフイエ)」と呼ばせるなど、自分が仏であると自称しており、自分の死期が近いことを知って一緒に、あの世に連れて行ってやろうとしたという説もある。

 ラストエンペラーとして知られる宣統帝(溥儀)は、民間人になった後、がんに侵されたが、文化大革命時に「庶民を長年苦しめた元皇帝」という理由で積極的に治療が実施されず死期を早めたとされる。

参考文献>「紫禁城史話 中国皇帝政治の檜舞台 中央公論新社」、「裏中国史 墓どろぼうは金持ちへの道」


11. 皇帝、宮廷の服装 (ドラゴンローブ、朝袍(チャンパオ)、龍袍(りゅうほう、ロンパオ)) 

 清代中期以降(康熙帝(こうきてい)あたりから)の皇族の服装は、乾隆帝の時代に完成した『大清会典』(だいしんかいてん)という法律によって、皇族も臣下も、役人として着用することは厳しく規定されていた。 明黄色(レモン色)の朝袍は皇帝、皇太后、皇后および皇貴妃のみが着用を許され、その他の妃達も必ず自分の格にあった服装をしなければならなかった。

 清時代は男は清朝様式の服装(満州族の格好)であり、女は従わなくてもいいという決まりだった。よって、女性服には満州族の服(チーパオ、現在のチャイナドレスの先祖)に漢民族の特徴が入ったものや、漢族の女性は伝統的な漢族の服(上下が分離したもの)を着ていた。これは昔から男は外で働き、女性は家の仕事をして、一日中家に軟禁状態だったという状況&女性は政治的に影響を及ぼさないとの考えからであった。

 清朝成立初期には、満州族特有の髪型である辮髪(べんぱつ)を嫌う漢人(儒教では親からもらった髪やヒゲは切らないのが伝統)が続いたが、辮髪をしていない男の首を頭に下げて進軍する部隊が現れたり、辮髪した役人が朝廷の高位につけられたので、その後は皆、辮髪をするようになった。辮髪は、清朝初期は頭頂部の一部に髪を残すだけ(キン肉マンのラーメンマンを参照)だけだったが、清朝後期になると、おでこ部分だけを剃るタイプになった。


代表的なものを簡単にいうと、

皇帝、皇后の最上礼服> 朝服、朝袍(チャンパオ)(朝廷の服)

皇帝用> 朝服は、朝会や祭祀などの重要な典礼の際に着る服。 明るい黄色(鶏卵の黄身色)で、ふともものあたりに9匹の龍が刺繍されているもの。 赤い朝服は春分の日の儀式用。冬服は、縁に毛皮(ボア)がついていることが多く、夏服は全体的に粗い生地(ガーゼ生地)で製作、春秋用はシルクで製作されており、日本でいう西陣織(南京雲錦(うんきん)織物)で作られたものもある。皇帝用だけは必ず胸の金龍の左右に「王の象徴である斧と弓」が刺繍されている。

皇后用> 皇后の朝服は、明るい黄色(鶏卵の黄身色)で首から腋にかけて黒いラインが入っているのが特徴。 見た目は、皇帝の吉服と同じで、ヒザの辺りから虹色になっている。 、西太后の服は、西太后が実質皇帝であったために、皇太后の朝服にも、皇帝のシンボルである弓と斧を刺繍させていた。

 著作権の関係で、画像は載せられないので、朝服を見てみたい人はグーグルの画像検索で「dragon robe」を入力すると見れることが出来る。また、グーグル検索で「乾隆帝」を画像検索しても見る事ができる。ちなみに、皇后、妃は、 「朝廷の母親、妃」として理想化して、皆同じような顔に描いており、本人に似ていない。

 皇帝が祭事に着る服には、十二章という、君の備えるべき美徳を象徴した十二の文様が表された。 その一つが龍の文様で、龍が変化することから、君子も時勢に応じて柔軟な政治をするという意味。 十二章は神話時代「舜帝」が定められる。 以下は引用(京都国立博物館のHPから。


引用> --------------------------------------

-中国の吉祥文様- 龍袍 (りゅうほう、ロンパオ)

 キモノにもいろいろな吉祥文様(きっしょうもんよう)が見られますが、お隣の中国でもさまざまな文様に吉祥の意を託し、人びとの幸福や長寿を祈りました。

 宮廷という公の場で着る龍袍は、着る人の認識によって色が異なります。選択がはっきりと分けられた社会では、着ている人の位置が一目でわかるように色分けされました。杏黄(きょうこう)(琥珀(はく)色)、皇子(こうし)は金黄(きんこう)(オレンジ色)、以外の人びとは青色を着ました。女性の場合も、皇后(こうごう)は明黄、次の位の第二夫人は金黄などと区別されたのです。

 龍袍の文様は、その名前の通り龍が中心です。 龍は言うまでもなく想像上の動物ですが、万能の神として神格化され、めでたい兆しとなる最高の動物として人びとに敬愛されました。 そして、その威厳に満ちた姿は世界を治める天子、とりあえず皇帝のシンボルとして衣服を飾ったのです。 金色の龍が9匹います(襟袖口や黒地にいる龍は数えません)。 胸と背と両肩には正面を向いた4匹の龍、腰の前後には2匹の龍が向いています。これで8匹です。もう1匹、服の前に合わせた時、下になる部分に隠れています。

 天を駆ける龍のまわりは、雲でです。この雲は形が、きのこの一種である霊芝(れいし)に似ていることから霊芝雲と呼ばれ、不老を象徴する瑞雲(ずううん)です。中国では富貴長命(ふきちょうめい)のような形にできないめでたい言葉を、漢字の音を借りて、形のあるものに現れることがあります。

 蝙蝠(こうもり)は、「蝠」が「福」と同じ発音であることから、幸福のシンボルとなるのです。「卍」は「万」と同じ発音です、蝙蝠が卍をくわえると「万福」です。桃は「寿」のシンボル(注>伝説の仙人(仙女 西王母の長寿のシンボルが桃。) )であり、桃をくわえた蝙蝠は「寿福」と意味します。 黄色い龍袍を見てください。 雲間を飛ぶ蝙蝠はどれも紅色(べにいろ)(ピンク色)です。その他にも篆書体(てんしょたい)の「寿」など見慣れない文様が広がっていますが、いずれも吉祥の意味をもつ文様です。

 龍袍の裾には大海原が露出され、波の間から四方に山岳が突きでた山があります。この海と山との組み合わせは「海水江牙」と呼ばれ、国家を統一するという意味があります。また、海は宝蔵(ほうぞう)の源であり、それを示すように吉祥の意味をもつ「八宝(はっぽう)」が波の間に漂っています。 八宝、ついでに8つの宝物は、仏教や道教などによっていくつかの組み合わせがありますが、龍袍の波間に漂う八宝は仏教の伝説にもとづく宝物が多く見られます。


八宝>

[1] 妙なる音を出し気運を開く法螺(ほら)

[2] 円転してやまない法輪(ほうりん)=輪廻転生

[3] 人びとを守る宝傘(ほうさん)

[4] 人びとを病気や困難から救う天蓋(てんがい)

[5] 汚泥に染まらない清らかな花を咲かせる蓮華(れんげ)

[6] 福智円満な宝瓶(ほうびょう)

[7] 堅固で邪悪を退ける金魚(きんぎょ)=中国語で魚は利と同じ発音でお金が儲かるという意味もある。

[8] メビウスの帯のように終りがなく長寿を意味する盤長(ばんちょう)

一度、龍袍全体を見てください。袍の大海には岩山がそそり立ち、海から生まれたかのように波間に八宝が見つかり、天は龍をはじめ、吉祥を寿ぐ様の文でいっぱいです。 華麗な色彩と寓意に満ちた龍袍は、中国的な精神世界を表しているのです。

<引用終わり>------------------------------------------

皇帝、皇后の礼服>吉服

 皇帝や皇帝など慶祝行事などの宴席で着用する服。ひざから下が「虹のうねったようなデザイン」になっているのが特徴。 皇帝、皇后の吉服は明るい黄色でデザインは似ているが、皇帝の服には皇帝の象徴である弓や斧が刺繍され、女性用は、吉とか喜喜という漢字や鶴、蝶々、こうもりなどの刺繍が入っていることが多い。

皇族、大臣、高級宦官の礼服

 一見すると皇帝の吉服に似ているが、斧や弓を刺繍しない分だけ、胸の竜が大きく刺繍されている。龍の爪の数は清朝初期には厳密に守られていたが、清朝中期以降は規律が緩くなり、家臣は5本爪の龍を蟒(まん、うわばみ:爪を持つ龍に似た大蛇)と言い張って蟒袍(まんぱお)として着ていた。 実際には、公式の席では、この礼服の上に、皇族は丸い金龍紋、文官、武官はそれぞれの品位を示す四角い刺繍(補子、ゼッケン)を付けた上着を着ていた。

一般役人、儀礼用の礼服(官服)

 清朝後期、西太后ぐらいの時代になると織物製の官服が盛んに作られるようになり、下級役人、儀礼用は官服も、織物で作られるようになった。清朝からアイヌ人に下賜されて日本で見られた官服は日本では蝦夷錦(えぞにしき)・山丹服(さんたんふく)と呼ばれていた。

 おおまかにいうと、刺繍製ロンパオは製作に恐ろしく手間がかかるので皇族用、織物製ロンパオは下級役人用という感じだった。

朝服、吉服の色規定>

明黄色(鶏卵の黄身色)>皇帝、皇后、上太皇(生きながら退位した皇帝=実際には乾隆帝しかいない。)、皇太后、皇貴妃

琥珀色> 太子(=ちなみに、皇帝生存中に皇太子(=次期皇帝)を決定すると、他の皇子達は気になるので、清朝中期以降は、生前に皇太子は決定しなかった。)

オレンジ色> 貴妃、皇子

青色> 大臣、役人、宮中上級宦官の龍袍(ろんぱお)は胸の龍の模様が大きいのが特徴

 さて、「五爪の龍は、皇帝のみ、四爪の龍は大臣、三爪の龍は、大臣よりも格下がついた」と言われるが、それは明王朝の話で、清朝後期になると、臣下が五爪の龍袍(ろんぱお)でも、龍ではなく蟒(まん、大蛇)と言い張って蟒袍(まんぱお)を着ていた。

皇帝、皇后、貴賓の日常着>常服、便服

 皇帝、皇后は、儀式の時だけ、礼服に着替え、それ以外は便服と着られる服を着ていることが多かった。謁見がある時は、一日に何度も着替えていた。例えば黒地に黒で皇族の証の双龍紋が精密に刺繍)で刺繍されている場合が多く、裏地は皇族専用のロイヤルブルー(明るい水色)が多い。「紫禁城刺し(フォービドゥン・ステッチ、フォーセブン・ステッチ、フォービデュン・スティッチ)」という状態のパイル刺繍(現代の高級タオル地と同じ)が施してあることが多く、この刺繍は紫禁城のお姫様の服のみ許された刺繍方法である。


男用か女用の区別> 「龍袍(ろんぱお)」、「蟒袍(まんぱお)」は、男用、女用があり、色、模様が似ている、区別しにくいが、基本的には、股部分まで深い切れ込みがあるのが男用、切れ込みがほとんどないのが女性用とは思えばよい。また、鶴や寿、吉など多く構成しているのは女性用が多い。

皇族用の服の例 > 清王朝、後期(西太后中期)、皇帝の姪クラスか宮女(お手伝い)用の女性用の吉服

 皇族の着る服は、紫禁城内の工房で作られ、刺繍するためだけに400人の職人、龍のゼッケンを金の糸で刺繍するためだけに50人の職人が雇われており、1着作るのに平均2.5年かかり、全盛期の乾隆帝の服は5年かかって作っている。清朝後期までは絹糸の生産から染色、製糸まですべてを皇族用に用意していた。作り方としては、皇族の体型を測定してから、一枚の布の決められた場所に、龍専門、模様専門、花専門の人が縫っていく流れ作業だった。南京で作られていた皇族用の織物(雲錦織物)は、主に絹と金箔で作られ、龍文様などの凝った服は一日に5-6センチしか作れないので皇帝用の凝った服は作成するのに10年以上かかったという。清朝後期になると機械織機が導入され、下級役人は機械織物製の官服を着ていた。

化粧、ファッション> 未亡人は、口紅をしない習慣であり、実際、皇太后となった西太后の写真では口紅をしていないのがわかる。 一方、皇太后以下の女性は素顔は宮中の規則で許されなかったので常に礼儀正しく気をつけていた。た、古代より中国では、ほっそりした指が美人とされていたので、爪を2cm程度伸ばすのが習慣となっており、伸ばした爪を保護するのに貴金属製の爪カバーをすることもあった。

服装>

 男>満州族の伝統的な髪型である辮髪(べんぱつ)で、清朝初期は、後頭部の一部(10円玉程度の面積)を残して髪を剃り、残した髪を伸ばして三つ編みにするスタイル。 具体的には漫画「キン肉マン」が出てくるラーメンマンの髪型。映画「ラストエンペラー」は清朝末期の話で、映画で、よく見る辮髪(べんぱつ)スタイルは清朝後期のスタイル。 清王朝成立初期は、漢民族は辮髪を嫌ったが、辮髪していない首をぶら下げた辮髪の宣伝隊が、街中を回るようになって、すぐに辮髪スタイルが普及したという。

 女>伝統的な満州族の女性の髪形は、両掴頭(りょうはとう)といい、頭の真ん中で髪を両方に分けるスタイル。清朝後期になると、巻いた髪の位置が高くなっていき、宮廷では大拉翅(だいろうし)のようなミッキーマウスの耳のようなカツラを使うスタイルに変化した。清朝では、男は満州族スタイルに従わせたが、女性は満州族スタイルでなくてもよいとされていたので、髪形の規制もゆるかった。

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<法律で定められた清朝の服装規定>

以下の文は、NHKドラマ「蒼穹の昴」公式サイトから引用した。

 清朝では『大清会典』(だいしんかいてん)という法律によって、皇族も臣下も、役人として着用する服装は厳しく規定されていた。

 宮廷で着用する礼服は「朝袍(ちょうぽう)」と呼ばれていた。明黄色の朝袍は皇帝、皇太后、皇后および皇貴妃のみが着用を許された。皇帝の朝袍には5本の爪を持つ龍やコウモリなどの吉祥文様が刺繍され、龍の服「龍袍(ろんぱお)」とも言われた。

臣下は「蟒(うわばみ:爪を持つ龍に似た大蛇)」の刺繍をほどこした「蟒袍(まんぱお)」を着用しました。

 また公式の席では、臣下は蟒袍の上に補服(正確には、褂(ほかい):ブークァと発音、胸と背中に補子(ほし、ブーズーと発音)というゼッケンのような刺繍を付けた礼服)と呼ばれる外衣を着なければならなかった。

 さらに皇帝も下も朝珠(ちょうじゅ)と言われる数珠を首から下げ、朝靴(宮廷出仕のためのブーツ)を履き、帽子の上に宝石を付けたキャップを被らなければならなかった。

【大清会典で細かく決められた服装規定の一例】

    帽子につける宝石 文官補の図柄  武官補子(ぶかんほし)の図柄

一品官  ルビー 鶴  麒麟(キリン)

二品官  珊瑚  鶏 獅子(しし、ライオン)

三品官 サファイア 孔雀 豹(ひょう)

四品官 ラピスラズリ 雁(かり、ガン)  虎

五品官 水晶     雉(キジ) 熊

六品官  シャコ貝 オシドリ 彪(ひょう:小さな虎)

七品官  金 おおしどり 犀牛

八品官  陰文金メッキ花 うずら 犀牛

九品官 陽文金メッキ花 れんじゃく 海馬

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下級宦官の仕事着> 西太后時代の写真によると、宦官は、豪華刺繍入りのロンパオを着ているが、下級宦官は無地、生成り(クリーム色)の満州服で、自分の給料や先輩宦官に使える用事で仕事着をまかなっていた。映画「ラストエンペラー」では籠をかつぐ宦官は赤い礼服や黒い日常服(中華服)を着ているので、上級宦官は、TPOに合わせて着替えていたのかもしれない。

参考文献>「北京故宮博物院展 紫禁城の后妃と宮廷芸術」図録 セゾン美術館 1997年 

12. 皇帝関連の印鑑(国璽) 

 清二十五寶璽(しんにじゅうごほうじ)とは、乾隆帝が1746年に定めたもの。 それまでは、三十九枚の宝璽が宮廷に存在していたが、十四枚ほどは乾隆帝によって「義に気づいて広くではない」とされたため、瀋陽の倉庫に閉じ込められた。意思決定された二十五枚の宝璽は、国務上実際に使われるという目的以外に、乾隆帝が「大清国が二十五代まで続いてほしい」との願いも込められていた。 そして、乾隆帝以降。二十五宝璽は改められることはなかった。

具体的な写真が見たい場合は、中国故宮博物院のサイトから「二十五寶璽」のキーワードで検索するといいでしょう。

清朝、乾隆帝中期に整理されて新しく作られた25国璽(こくじ)、

皇帝の行政用の印鑑の詳細>

清二十五寶璽(しんにじゅうごほうじ、二十五方御寶)の印面と印の素材

1 大清受命之寶、(白玉製(白色) > 明朝が滅び、清朝が天命を受けた証

2 皇帝奉天之寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) > 皇帝が天命に従う正義という証

3 大清嗣天子寶、(金製) > 天の基準によって清朝が運営するという証

4、5 皇帝之寶 2個、(檀香木製と石製(満州文字のみの印面)) > 勅書と赦免を公布する時に使用。

6 天子之寶、(青玉製(非常に薄い)) >神を祭る文書に使用

7 皇帝尊親之寶、(白玉製(白色)) >皇帝の功徳を為すため称号を決める文書に使用

8 皇帝親親之寶、(青玉製(極めて薄い緑色)) >皇帝が親族を昇進させる時に使用

9 皇帝行寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) > 皇帝が品物を下賜する時に使用

10 時に 皇帝信寶、(青玉製(極めて薄い緑色)) > 皇帝が注目兵する使用法

11 天子行寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) > 皇帝が少数民族を王侯や大臣に封ずる時使用

12 天子信寶、(黒玉製(薄墨色)) > 少数民族地区や所属国に出す勧告書に使用

13 敬天勤民之寶、(白玉製)> 謁見に来た官吏を戒める時に使用

14 制誥之寶、(青玉製) > 5品以上の官員を戒める時に使用

15 敕命之寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) > 6品以下の官員に勅諭を出す際に使用

16 垂訓之寶、(碧玉(へきぎょく)製(黒玉に近い灰色)) > 国家の威力を宣伝する時に使用

17 命徳之寶、(黒玉製(薄墨色))>軍功を称える文書用法

18 欽文之璽、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) > 文化・教育を重視する文書の使用

19 表章經史之寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) > 古訓を崇める文書の使用

20 巡狩天下之寶、(青玉製、淡い緑色) > 皇帝が首都以外の地方を巡視する時に使用

21 討罪安民之寶、(青玉製、淡い緑色)>討伐を公布する時に使用する

22 制馭六師之寶、(黒玉製(墨色)) > 一斉の行動を正す時に使用

23 敕正萬邦之寶、(青玉製、緑灰色) >外国人に知らせる時(外交文書)に使用

24 敕正萬民之寶、(青玉製、うすい緑色、黒の筋入り) > 全国の民衆に知られる文書の使用

25 廣運之寶 (黒玉製(墨色)) > 皇帝が自分で書いたものに対して使用

これらの他に、皇帝の個人用印鑑は多数ある。 同様に、皇帝が見たという印鑑(○○御覧之寶)、皇帝が書いたという印鑑(○○御筆之寶)、等々。

参考文献> 「北京の紫禁城」今日中国出版社


13. 倉庫 

ここは未分類、未整理情報の置き場

〇光緒帝の側室であった珍妃として知られている写真は、別人のものであり、珍妃の写真は存在しない。光緒帝の写真も存在しない。西太后へのクーデターに参加したとされる珍妃は西太后の命令によって処罰され、お付きの宦官、宮女は殺害された。

〇光緒帝の側室で、珍妃の姉の謹妃は、珍妃、光緒帝、西太后、隆裕皇后亡き後、西太后と同じ行動をとったが、溥儀にうとまれ51才で病没。

〇西太后(正確には、慈禧(じき)皇太后、晩年の正式名称はもっと長いが略)は27才で、東太后(慈安(じあん)皇太后)は25才で皇太后(こうたいこう)、次代皇帝の母親になった。東太后は45才まで生きて西太后より早く死んだので、毒殺とも噂されたが実際には脳卒中だったらしい。

紫檀木>木材の紫檀は、中国名で青龍木とも呼び、高級な彫刻材料となり、清宮廷の器物には紫檀で作ったものが多い。

皇帝御筆> 皇帝自身が描いた書や絵を「御筆(ぎょしつ)」と呼び、例えば乾隆帝なら「乾隆御筆」というハンコが押されていることが多い。

印鑑の材料> 印鑑の材料としては田黄、鶏血石が最高級品とされ、田黄は同じ重さの金(ゴールド)に匹敵するとされた。

筆>皇帝用の筆は浙江省の湖州産のものとされた。

秘閣(ひかく)、筆閣>文人が筆で字を書く時に腕を置く道具で、清時代は書斎机を飾った工芸品になった。

堆朱(ついしゅ)> 朱の漆を塗っては乾かし、塗っては乾かしして100回程度厚塗りして、彫刻したもの。 昔は、「漆を厚塗りには時間がかかるので、親が塗って子が彫刻する」くらいのペースで作られていたという。

硯(すずり)>硯の石材は端渓石など「四大名硯」が有名だが、松花江石は中国吉林省の松花江の河畔で採取され、ここは清朝発祥の地であるため、清朝内定の正式硯とされ、産地は立ち入り禁止とされた。実際には、松花江石は硯としては使いづらい、装飾用として陳列されることがほとんどであった。また、高価な玉(ぎょく)製の硯も残っているが、硯として使いにくいので、実際には装飾物だった。

紙> 紙は、筆や硯に比べて出現したのはずっと遅く、前漢時代くらいからであり、秦の始皇帝時代には、文字は木簡、竹簡、絹に書いていた。明清時代の紙は安徽省の宣紙が主流で、紙を加工した紙は蘇州が主要な産地だった。


14. 乾隆帝時代の庶民の生活 

 以下の情報は、「マカートニー奉史記」筑摩書房、昭和22年発行の文章から。 1792年にイギリス(大英帝国)のジョージ三世は、当時、大英帝国と世界を二分していた中国清王朝の乾隆帝に、ジョージ・マッカートニーを大使として派遣した。マッカートニー大使は、総勢120名以上で約1年間かかって、禁紫城に謁見に行ったものの、中国からは大使扱いではなく、朝貢使扱いにされ、中国皇帝に謁見する際の会談「叩頭の礼(土下座して頭を9回地面にこすりつける)」を巡って対立したあげく、結局、一行は目的を果たせずに帰国した。 著者アンダーソンは、軍艦ライオン号(当時は帆船)の航海士で、大使一行に同行した際に、詳細に記録を残し、後年、見聞録が1795年に英語で出版された。約210年前の清王朝時代の治安を知る上で貴重なものである。

○パン> 小麦粉を練って、蒸気で蒸すだけの「蒸しパン」というか饅頭。 酵母を使ったり、窯で焼いたりしない。

○肉に対する感覚> 動物の肉なら何でも、あぶって食べる。

○髪型> 男は、後頭部の一部を残して、すべて剃っていて、長く伸ばした髪を編んで、その先をリボンで結んでいる。

○服装> 昔は、カラフルな服を来たのは、貴族以上で、庶民は男女も同じような生成りの服を着ており、髪型(辮髪)と足(纏足)で男女を見分けていた。

○女性の足を纏う足(てんそく)について> 清王朝は、北部の少数民族である満州族によって成立したので、中国の伝統である纏足の習慣はなく、度々、禁止令が出ていたが、効果はなかった。

○お茶>茶畑はたくさんあったようだが、高価であり、庶民は口にすることはなかった。

○芝居>芝居の舞台に女性は出られなかったので、女型は、宦官(かんがん)が演じていた。

○庶民の食事>肉は細かく刻み、根菜や葉物と一緒に油で揚げて、醤油や酢をかけて食べるのが基本的なおかずで、毎回同じものを食べる。みんなが車座に座って、櫃からご飯を自分の茶碗にとって、油であげた野菜をおかずに、がつがつ食べる。これ以上のごちそうは、精進日や祭りでしか食べられなかった。

○おやつ>当時の庶民の一般的行動かどうかわからないが、夕方になると裸になって、服にたくさんついたノミやシラミを、そのまま、おやつがわりにおいしそうに食べていた。

○コメの炊き方> コメを、よく洗った後お湯に入れて、ふやかした後、皿にのせて上から蓋をして放置。 そうすると表面が乾燥してカリカリになるので、この状態でご飯として食べる。

○建物>ガラス窓はほとんどなく、窓の木格子には、礬水紙(どうさし、ニカワとミウバンを溶かし込んだ液を紙にしみこませたもの)が貼ってあり、上流家庭は絹を貼っていた。

○刑制度> 重大犯罪では、最後の裁定権は皇帝にあった。

○墓関係> 棺はすべて寸法が決まっていて、非常に長くて重く、蓋は紐で括り付けた。棺は棺が隠れる程度に浅い場所に設置した。 大きな都市では共同墓地が存在し、田舎では人が死ねば屋敷の一角に、屋敷を持たない庶民は死んだ場所に埋葬し、金持ちは、生前に自分用の墓(棺が入るサイズ)を準備していた。

○街の乗り物> 上流家庭は人が運ぶ担ぎ(こし)。お金持ちは馬やロバが引張る幌車。

○乾隆帝の円明園での様子>皇帝の輿は、20人で担ぐ。 皇帝ということで特別な目印やバッジをつけているわけではない。家臣(下級役人)の着ている服は、いつでも同じ物(青色の服が基本で、帯はいつも腰に巻いているが、宮中は帯はせずに、だらりと自然に垂れたまま。)であり、TPOに応じて交換する訳ではない。

○タバコ> この時期、喫煙は、子供から大人まで行われており、タバコが伝染病の予防効果を持つと信じていた。

○水>黄河の水は、不純物が非常に細かく、相当の砂を含んでいるが、当時の庶民は、この水をそのまま飲んだり、料理に使っていた。

○昔の香港、広州あたりのシナ人の気質について> 他の地域のシナ人と比較すると正直さという点で、まるで違う、「極度に破廉恥」。

○奴隷制度>外国から奴隷を買う奴隷制度は存在せず、シナ人同士で奴隷関係にある。

参考文献> 「マカートニー奉使記」 1947年刊行 筑摩書房


15. ラストエンペラー 愛新覚羅 溥儀関係の年表

1835年 西太后誕生

1871年 光緒帝誕生

1874年 レジナルド・ジョンストンがスコットランドで誕生

1883年  さいてん(光緒帝の弟、溥儀の父親)誕生

1906  溥儀、婉容(溥儀の皇后)誕生

1908年 光緒帝(享年37才)、西太死後去(享年73才)、溥儀2才で皇帝に即位

1912年 辛亥革命によって、6才で清朝皇帝を退位(袁世凱が革命派と取引して自分の大総統就任と交代に、紫禁城内だけで清朝が継続するという提案をした。)

1915 宮中のいざこざから溥儀(当時9才)の乳母が紫禁城を去る。

1919年 ジョンストン(45才)から英語を学ぶ(13才)

1917 清朝軍人だった張勲の取り組みによって再び清朝皇帝に贈られるが12日間で終了

1920 譚玉齢誕生(溥儀の3番目の妻)

1922 溥儀、16才で、婉容(溥儀の皇后)、文繡(第二夫人)と結婚

1924 謹妃(光緒帝側室)自害。溥儀、紫禁城を追われる。 李淑賢誕生

1925 紫禁城が故宮博物院になる。溥儀が天津日本租界に移るのをきっかけにジョンストン帰国。

1928年 李玉琴誕生

1931年 文繡離婚を決意

1934年 28才で満州国皇帝就任

1935年 一回目の訪問日(29才)

1937 溥儀、31才で譚玉齢と結婚

1938 ジョンストンがスコットランドで死去(享年64才)

1940 第2回目訪問日(34才)

1942 譚玉齢、病気で死去(享年22才)

1943 溥儀、37才で、李玉琴(溥儀の4番目の夫人)と結婚

1945年 39才で満州国皇帝を位退し、ソ連軍に拘束される、以後、5年間ハバロフスクで拘留生活、李玉琴は離婚を表明

1946年 婉容 アヘン中毒の果てに延辺で死去(享年40才)

1950 44才で撫順戦犯管理所に入り、以後9年間拘留生活

1953年 文繡 平民となって餓死に近い状態で死去(享年44才)

1959 特赦で釈放(53才)、北京に戻る

1960年 北京植物園に配属(半日労働、半日学習)

1962 溥儀、56才で李淑賢(溥儀の5番目の夫人)と結婚

1964 溥儀、腎臓障害

1966年 文化大革命が始まる

1967 溥儀、北京で腎臓関係の病気で死去(享年61才)

1997 李淑賢 死去(享年73才)

2001 李玉琴 長春で死去(享年73才)

参考文献>「溥儀 変転する政治に翻弄された生涯」、日本史リブレット人099、山川出版社

この本には、溥儀による伝記「わが半生」は、3種類存在して内容が極めて異なっていると記述されている。


16. 文学、映画、ドラマで詳しく知る 


< 紫禁城の詳細、歴史を知りたい >

以下の51冊の中で特におすすめの本→ ●「北京の紫禁城」今日中国出版社

>本200ページのうち、120ページが紫禁城内のカラー写真で、各部の写真満載、故宮博物院の職員が記述しただけあって、解説も詳しく、とても便利な本。

1● 「紫禁城史話 中国皇帝政治の檜舞台」 中新書 中央公論新社 (777円)

>清朝の歴史が詳しく分かりやすく書かれた良い本。

2 ● 「紫禁城散策いろいろ事始め」 凱風社 (1800円)

>故宮博物院内の個々の場所ごとに、わかりやすい文章で解説してある。

この本は、現在は「北京故宮散策事始め」と改題して出版されている。

>皇帝服を着た袁世凱の写真

3 ● 「中国世界遺産の旅 1 北京・江北・東北」 コンセプト 5695円

>紫禁城、万里長城、皇帝陵墓、頤和園(いわえん)の写真がいっぱい。

<清朝、中国の歴史が知りたい>

4 ● 「NHKスペシャル 故宮至宝が語る中華5千年」 NHK出版

>中国の先史時代から清までの宝物をわかりやすく解説。

5 ● 「横山光輝作の漫画中国シリーズ」

>歴史順というと、「殷周伝説(殷、周時代)」、「史記(周~秦~漢)」、「項羽と劉邦(秦~漢)」、「三国志(魏、呉、蜀)」の順。個人的には「史記」をお勧め。

6 ● 「素顔の西太后」 東方書店 (1500円)

> 西太后の女官として2-3年仕えていた人による本。

7 ● 「西太后汽車に乗る」 東方書店(1890円)

>西太後が汽車で奉天に先祖参りした際の記録。汽車で、毎食100皿の西太後の食事を作るために、50台の「かまど」を車両に設置し、150人(かまど1台につき3人)の料理人を列車に乗せていたなど、面白い描写があった。

8 ● 「西太后 大清帝国最後の光芒」 中公新書 中央公論新社 (800円程度)

>悪女と記述されることが多い西太后の生涯を、多くの資料(約60点)を元に客観的な視点から詳しく記述している。

9●「西太后秘話 その恋と権勢の生涯」東方書店

>西太后及び宦官 李連英の生涯を中心に記述。

10 ●天子―光緒帝悲話 (単行本) 徳齢(著) 東方書店

>西太后の女官として勤めた著者が、「世間で言われているほど光緒帝は無能ではなかった」ということを主張するために書いた本。

11●雍正帝―中国の独裁君主 (中公文庫) (文庫)

>著者の思い入れが強すぎて辟易。

12 ● 「乾隆皇帝」 二玄社

>乾隆帝時代の政策、工芸、建築など詳細に紹介。38ページにおぶ白黒写真、四庫全記録目録などが充実。

13 ●最後の宦官秘聞 ラストエンペラー溥儀に仕えて NHK出版 2520円

 宦官として宮廷にいた人から見た宦官の日常。

14 ● 「溥儀1912-1924 紫禁城の廃帝」 東方書店 (2300円)

>中国最後の皇帝(ラストエンペラー) 愛新覚羅・溥儀の退位後、紫禁城を追い出されるまでの日常と写真。

>珍妃、姉の瑾妃(台湾の故宮博物院の有名な白菜の玉の持ち主)の写真。光緒帝の皇后隆裕太后(西太后の姪)の写真。

15● 「中国文明史図説10 清 文明の極地」 創元社 (3200円)

>写真が豊富で清朝全般を浅く広く学ぶには良い本。

16 ● 「乾隆帝の政治の図像学」 文春新書 文藝春秋 (840円)

>後半は著者の専門に偏っている感じ。

>香妃の肖像画3枚

17 ●食在宮廷(食は宮廷にあり) 学生社; 増補新版(1996/06)  2500円~

>ラストエンペラー溥儀の弟、溥傑に嫁いだ日本人女性(愛新覚羅 浩)による宮廷料理の紹介(作り方)と宮廷の生活の紹介。

<皇帝の宝物を精密写真で見たい>

18 ● 「紫禁城の女性たち」 中国宮廷文化展図録 1999年

>宮廷の皇后、皇貴妃たちの装飾具の写真がいっぱい。

19 ● 「北京故宮博物院展 紫禁城の后妃と宮廷芸術」図録 セゾン美術館 1997年

>いろいろな皇帝服、皇族服、宮廷の宝物。

20 ● 『ドラゴンの解読:清朝時代の中国における身分衣装』、オレゴン大学出版、1983年

「龍袍(ろんぱお)」、「蟒袍(まんぱお)」が120点(カラー50点)の写真で紹介。宮廷衣装に関してはこれが最も詳しい。

21 ● 「中国服飾五千年」 商務印書館 学林出版社 共同出版 (中国語の本)

>秦から近代までの中国の服の変遷を多彩な図と写真で紹介。

22 ● 「図録 西太后展」

>西太后の身の回り、食生活、美容道具など。

23 ● 「図録 北京故宮博物院展 清朝末期の宮廷芸術と文化」 2006

>清朝初期、西太后、溥儀の日常の生活用品や宮廷服を紹介。

24 ● 「故宮博物院展 紫禁城の宮廷芸術」図録 西武美術館 1985年

>宮廷、誕生日の絵巻、仏教関係がメインで宝物は少ない。

25 ● 「改訂版 国立故宮博物院案内」 郁朋社 (2940円)

>、書、絵、陶磁工芸器など一品ずつ解説。

26● 「別冊 太陽台北故宮博物院」普通社 (2625円)

>新石器時代から清まで宝物を紹介するとともに、国立故宮博物院時代について紹介。

27 ●「故宮博物院秘宝物語―中国四千年の心をもとにして」淡交社 450円~

>故宮博物院の宝物の背景を詳しく文章で解説。例えば有名な本「蘭亭序」の創作の背景など。

28 ●「これだけは知っておきたい故宮の秘宝」二玄社 (2100円)

>故宮博物院の宝物の背景を詳しく文章で解説。

29●芸術新潮 2007年01月号[雑誌] (雑誌) 台湾国立故宮博物院特集

>前半は故宮の宝物特集。主に書画に偏っている感じ。後半は、故宮と関係なく一般の記事。

>綺麗な書体で刻印された「乾隆帝の皇帝印の写真」は貴重。

30 ●故宮博物院14 工芸美術 NHK出版 (2063円)

>人間の技とは思えないような宝物を大きな写真でたっぷり紹介。

31●故宮博物院15 乾隆帝のコレクション NHK出版 (2000円~)

>稀有の宝物コレクターだった乾隆帝に絞って、コレクション品を大きな写真で紹介。

32 ● 「図録【紫禁城永久の秘宝北京故宮博物院展~日中平和条約締結10周年記念~】昭和63年/西武美術館」西武美術館発行/'88年

>乾隆帝の金の御璽(ぎょじ)。今風に言うと印鑑、印章。

33 ● 「図録日中国交正常化10周年記念 北京・故宮博物院展」西武美術館、朝日新聞社 1982

>万遍なく記述してある。

34 ● 「図録 日中国交正常化20周年記念 紫禁城の至宝 北京故宮博物院展」東京都・東京ルネッサンス推進委員会 1992

> 皇帝の玉璽、雍正帝の各種コスプレ図、象牙を編んだゴザ。

35 ● 「文物光華 -故宮の美- 国立故宮博物院中華民国80年」 台湾国立故宮博物院発行(日本語)1985

> 台湾の故宮博物院発行。書、絵画、印の解説に注目をおいた感じ。

36 ● 「図録 故宮開院70周年記念 北京故宮博物院名宝展 紫禁城と中国4000年の美の秘宝」 東京富士美術館 1995

>美しい刺繍を施した宮廷服のクローズアップ写真。

37 ● 「図録 日中国交正常化40周年記念 地上の天宮北京・故宮博物院展」 20 11

>清朝、西太后あたりの日常の生活用品や宮廷服を紹介。

38 ● 「図録 北京故宮博物院 清朝宮廷文化展」 日中友好会館 1989

>皇帝が生活していた養心殿の詳細、筆、墨、硯。

39 ● 「名古屋城天守閣復元30周年記念図録 北京故宮博物院 清朝宮廷文化展 」 名古屋城天守閣展示場 199 0

>皇帝が生活していた養心殿の詳細、筆、墨、硯。

40 ● 「世界の博物館21 故宮博物院 紫禁城と中国4000年の文物」 安全 1978

>すごい文物というのは少ないが、陶磁器などが作られた背景などの解説が豊富です。

41 ● 「図録 故宮織選抜卒」 中華民国国立故宮博物院出版 1973

> 絵画、掛け軸と間違えるほど精緻な織物と刺繍の作品集。

42 ●中国陶瓷見聞録 ダントルコール東洋文庫(景徳鎮、官窯という史実か統計)

>立ち読みした程度ですが、漢文みたいでお勧めしない。

43 ●「北京の紫禁城」今日中国出版社

>本200ページのうち、120ページが紫禁城内のカラー写真で、各部の写真警戒で、故宮博物院の職員が記述しただけあって、解説も詳しく便利な本。

444●「マカートニー奉使記」 1947年刊行 筑摩書房

>西暦1790年代にイギリス大使として乾隆帝を訪問した人物の日記。

45 ●紫禁城 The Forbidden City (写真集) 紫禁城出版社

>豊富な写真とともに少しずつ説明が載っている。

46 ●「図説 北京3000年の悠久都市」 河出書房新社

>建築が本体だが、紫禁城時代から毛沢東時代までの変遷を解説。

47 ●映画「ラストエンペラー」

>この映画が中国、清王朝時代に興味があって、きっかけになった。 最近は、ブルーレイ版も販売している。

48 ●中国製作「ラストエンペラー」

>当時の宮中の生活の様子、人々の服装、西太后晩年の呼び方「老仏爺(ラオフイエ)」で呼ぶなど忠実に再現している。

49 ●映画「真説西太后」

>この映画も、おおまかに歴史に忠実に描いている。西太后の若い時期がテーマ。

50●「チャイナドレス文化史」

>清朝崩壊以降のチャイナドレスの変遷が詳しい。

51 ●「溥儀 変転する政治に翻弄された生涯」、日本史リブレット人099、山川出版社

>歴史学者が書いた本なので、歴史的にほぼ完璧な記述。 正確な清朝末の歴史を知るにはいい。


17. あとがき

 映画ラストエンペラーで中国の皇帝に興味を持ち、その後、旅行で北京の故宮博物院に行った事で、中国最後の清王朝の生活、文化、服装に魅了されました。これまでに、北京2回、上海1回、西安2回、桂林1回、蘇州1回、香港2回、中国圏という意味で台湾2回、シンガポール2回行きましたが、味わい深く良い所でした。

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漢字の倉庫> 嘉慶帝(かけいてい)、光緒帝(こうちょてい、こうしょてい)、順治帝(じゅんちてい)、道光帝(どうこうてい)、咸豊帝(かんぽうてい)、同治帝(どうちてい)、宣統帝(せんとうてい)、康熙帝(こうきてい)、雍正帝(ようせいてい)、乾隆帝(けんりゅうてい)