4 アポロ宇宙船の詳細
4.1<アポロ宇宙船:司令船(コマンド・モジュール)+機械船(サービス・モジュール) >
製造>ノース ・アメリカン社( 現ボーイング社) 宇宙&誘導システムズ部門、部品数、約200万個
アポロ宇宙船部分の全体構想>Maxime Faget氏(マーキュリー宇宙船、ジェミニ宇宙船、スペースシャトルも)
設計&とりまとめ>Harrison Storms
制御システム>ミネアポリス・ハニウェル社
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アポロ宇宙船は、三角錐状のアポロ司令船(コマンド・モジュール)+機械船(サービス・モジュール)を合わせてアポロ宇宙船と呼ぶ。「人間が月に着陸して地球に帰ってくる」ということを人間が想像した場合、単純にロケットが月に着陸して、そのまま月から離陸して帰ってくることが想像され、実際にNASAも当初はその案(当初は月ロケットの上段からロープを使用して人間が上陸することが検討された)だったが、月から大型ロケットを離陸する事を逆算で計算すると、地球発のロケットはとても巨大になることが分かったので、「人間が冒険し、人間と月サンプルだけを持って帰る」という方向で設計がスタートした。
ただし、この方式は、製造メーカーの異なる月司令船、月機械船、月着陸船のシステムを統合することが必要で、結果的にリスクが高く、不確定要素の多い、複雑なシステムになった。この時期、多くの航空機はケーブル&油圧式アクチュエータで飛行していたが、アポロ宇宙船ではケーブル制御は一切なく、電気信号で電動アクチュエータを操作する、現代でいうフライ・バイ・ワイヤ方式が初めて採用されている。
姿勢制御は、すべてコンピュータが管理し、宇宙船にある16個のスラスターも、コンピュータが、どのスラスターをどのタイミングで、どれだけ点火すればよいかを教え、たとえ1つでもスラスターが故障しても、コンピュータは自動で関知し、補正する機能を有していた。
アポロ宇宙船(ブロック1型)>ノース・アメリカン社(ノース・アメリカン社はその後、スペースシャトルを開発したロックウェル社と合併してノース・アメリカン・ロックウェル社となり、現在はボーイング社の一部門)のHarrison Stormsが主導して設計され、1962年初頭には14000人の従業員が開発に関わっていたとされる。開発は難航し、22機のモックアップ及び20機の試作を重ねた上で、8機の初期型(ブロック1型)宇宙船の試作機を作製した。
2回の無人飛行に成功した後、アポロ宇宙船の有人初飛行に向けてテストを行っている最中に、宇宙船内のケーブルのショートによって発火し、宇宙飛行士3人が亡くなった。(このメンバーは後にアポロ1号メンバーと命名された。)これは、宇宙船内の環境が1.1気圧の純酸素で満たされており、ショートによる発火とともに、すぐに炎上したからである。
宇宙船内の空気を大気と同じ窒素と酸素にした場合、気体の混合操作が複雑になるし、配管も増えて宇宙船の重量が増加する事が懸念されたので純酸素を使用することになっていた。アポロ計画の前のマーキュリー計画やジェミニ計画でも、純酸素が使用されていたが、事故は起きていなかった。それまで誰も月航行用の宇宙船を建造した経験はなかったので、製作時及び組み立て段階では2万か所以上の故障が生じていた。
事故後は、1500人以上の人員を動員して原因を調査し、報告書は3300ページにもなった。ブロック1型は、月に向かう仕様ではなく、地球周回軌道を回るだけを目的として設計されており、月着陸船とのドッキングシステムも、月誘導・通信システムも搭載されいておらず、アポロ1号だけでしか使用しないことが決定していた。結果的に、ブロック1型宇宙船は、一回も有人飛行をすることはなかった。事故に関しては、ノースアメリカン社は、これまでに有人宇宙船を建造した経験がないことから、事故前からブロック1型は欠陥品であると、皆、認識していた。
アポロ宇宙船(ブロック2型)>事故後、宇宙船内は、1.1気圧から0.3気圧の純酸素(純酸素は気圧が低くても発火する恐れがあり、1.1気圧では、発火の可能性がはるかに高くなる。)に変更され、素材は不燃性のものにするなど徹底して改良された「ブロック2型」と命名された宇宙船が、その後のアポロ計画に使用されるとともに、当時建造中だった月着陸船、月面車も対策が取られた。
アポロ宇宙船の設計陣によると、徹底した冗長性(システムの多重化による安全性)の採用で、設定としてはアポロ宇宙船の信頼性は99.9%、つまり1000回飛行して1回宇宙飛行士が死ぬ程度の確率と考えられていた。アポロ宇宙船の建造の途中、マーキュリー宇宙船で飛行士の尿や汗によって電子機器が急激に腐食する現象が発見されたので、アポロ宇宙船の電子機器は外部の湿気に触れないように遮蔽する措置がとられ、結果として修理が不可能になった。
ブロック2型のコンピュータの開発時はドレイパー教授の会社「器械工学研究所」では600人以上の技術者が働いていたとされる。
飛行用の司令船は累計18機、機械船は累計16機程度を製造し、後述の月着陸船(ルナ・モジュール)を含むと、当時のお金にして総額80億ドル(80億ドルx360円x2倍( 実感物価係数 )x物価上昇10=60兆円、今の日本の感覚でいうと60兆円)かかった。ちなみに、アポロチョコは、このアポロ司令船の形が名前の由来になっている。
機械船 ( サービス・モジュール )に搭載しているロケットは月軌道に入るための減速及び、地球に戻るための月軌道からの脱出のために使用される。
<アポロ宇宙船:司令船(コマンド・モジュール>
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月司令船の上部に見える3つの白い風船は、海に着水した後に、脱出口が海上の方向に自然に向くようにするための浮き輪。大気圏突入時に窓側部分の温度が上昇しないように船体の重量バランスが設計されているために、回収後の写真をみると、窓側部分は表面が焼け焦げていないのが分かる。この司令船は、地球帰還時にはただ落下するだけのように見えるが、適切なスピード、角度で大気圏突入できるように、飛行中にある程度、姿勢制御することが可能な仕組みになっている。
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司令船の居住空間>全長110mのサターン・ロケットでも、3人を月まで運ぶアポロ宇宙船の居住スペースは写真の通り。司令船の下部直径は3.9m、キャビンの容積は、たった5.9m3。これは1.8mx1.8mx1.8mの空間に相当する狭さで、飛行士には上限182cmの身長制限があった。
地球上では非常に狭く感じられるが、無重量状態 ( 宇宙の果てを含む宇宙空間では至る所に引力(地球が引っ張るのは重力と呼ぶ)が存在し、厳密な意味での無重力という場所はないので無重量と呼ぶのがならわし。)では、椅子を折りたたんで( 無重量空間ではイスは必要ない )、空間を三次元に使用できることから、そんなに狭く感じないそうで、司令船で最大で2週間暮らした。打ち上げの際に、宇宙飛行士が上向きに座っているのは、この姿勢では、強力な加速度の中においても脳内の血液の移動が少なくてすむからである。エレベーターのように立ったまま乗っていると、急激な加速度の変化によって脳内の血液が足方向に流れて、貧血のような症状になる。よって、エレベータも気持ち悪くならないように、上昇初めはゆっくりと上昇するようにプログラムされている。
司令船の装置類>アポロ指令船には、主にアナログ式の必要な装置が、びっしりと詰め込まれており、スイッチだけでも560個程度 、電気の接続部分が4万8700個、48kmの電線が使用されているという。アポロ宇宙飛行士達は徹底した訓練によって、目をつぶっていても、どこにどのスイッチやボタンがあるのか分かるようになっていたという。
これらのスイッチは連動しており、操作によっては300個ぐらいのスイッチを順番に押していく場合もあり、順番を間違えると全システムがダウンすることもあった。 非常事態には、宇宙空間でハッチを開けて宇宙遊泳することも予定されていたので、すべての電子機器、スイッチは低温&真空状態でも確実に作動するように設計されており、重要なスイッチには、簡単にスイッチ操作出来ないようにスイッチ・ガードがついている。
打ち上げ時、船長は手元のハンドルを握って非常時のロケット脱出に備えていた。 船内は狭い上に、宇宙服も動きにくいので、背中方向にあるスイッチ類は、鏡を見ながら操作出来るように、表示が逆になっていた。しかし、実際には、この時期、基本、コンピュータ制御の自動飛行装置が完成しており、宇宙飛行士は、機器が正しく作動しているかどうか監視し、非常事態にはマニュアルで操作するといのが実態であり、宇宙飛行士(船長)が行なう操作としては打ち上げ時のトラブル時に「ミッション中止レバーをひねる」ことと、月面着陸1分前にコンピュータに適切なコマンドを入力する又は操縦かんを操作して、着陸場所を変更するぐらいであった。
司令船の断熱構造>司令船の壁は、外側から耐熱用アブレーター(2.2cm)+ロウづけステンレス立体構造(1.27cm)+断熱剤(3.4cm)+アルミ製ハニカム(1.27cm)で構成されており、総厚さは8.2cm(大人の拳1個分)、司令船の底部は、底部から耐熱用アブレーター(6.8cm)+ロウづけステンレス立体構造(5cm)+断熱剤(2cm)+アルミ製ハニカム(3.8cm)で構成されており、総厚さは17.6cm(大人の拳2個分しかないということ)。
耐熱用アブレータを担当したアプコ社では中年女性を12人雇用し、38万個のハニカムの穴に石炭酸エポキシ樹脂を注入し、エックス線検査で気泡が見つかるとやり直していた。この月司令船が、地球の大気圏に突入する際は、大気との摩擦で8.6万キロワット時のエネルギーが発生し(宇宙船の下部は5000℃になる)、これは当時のロサンゼルス市内の灯りを1分半点灯出来るエネルギー量だという。
<アポロ宇宙船のコンピュータ(航法制御システム)>
設計>マサチューセッツ工科大学 (MIT) Charles Stark Draper研究室
とりまとめ>Charles Stark Draper(チャールズ・スターク・ドレイパー)
製造>レイセオン社(Raytheon Company)
ハードウェア>ドレイパー教授は、心理学と物理学を専攻し、自身もパイロットの資格を有していた。彼は飛行計器に興味を持ち、MITに器械工学(Instrument engineering)研究所を開設した。ドレイパー教授は、慣性航法装置( 慣性誘導技術(海軍のICBMであるポラリスミサイルの誘導技術) )を考案し、バスケットボール大のジャイロ装置を試作して、1953年に当時の空軍の爆撃機に設置して、自動操縦(パイロットは見守っただけ)で全米横断飛行を敢行して、慣性航法装置の優秀さを実証した。
当時、ソ連も月に人間を送り込む計画を立てていたが、ケネディ大統領は、この慣性誘導システムが、ソ連よりも圧倒的に優れていることの報告を受けており、月面到達では確実にアメリカが勝利できるとの確信をもったことで、アポロ計画を宣言(1961年)したと言われている。
月までの無人の航法システム自体は、アポロ計画前に完成しており、適当な場所への着陸ならば、実際に無人月着陸船「サーベイヤー」が、何度も月面着陸をしていた。アポロ計画では、人間が関与して、より正確に目的の場所に行って帰ってくるためのプログラムが求められた。月までの航法用ジャイロは、 航空用よりも、さらに精密なものが必要だったので、(時計で有名な)ウォルサム社でジャイロを作製した際には、日焼けした者(皮膚が剥げ落ちる)、化粧した女性は作業に当たらせないほどだった。
アポロ宇宙船以前のコンピュータは、かさばり、重くて部屋一杯になるような代物だった。1960年代初めに、 兵器開発などの経験が豊富なマサチューセッツ工科大学(MIT)のチーム (器械工学研究所、大学の研究室とはいえ、実質はドレイパー教授個人の軍事システム開発会社に近かった。)は、ICを使用してコンピュータの小型化に成功していたので、コンピュータの開発はMITのCharles Stark Draper研究室と共同で開発した。当時のMITは、大学ではあったが、IBMなどに匹敵する技術力を有していたので政府はアポロ計画のスタートにあたり随意契約でコンピュータ開発で契約した。
この時点では、アポロ宇宙船の設計などは行われておらず、まずは航行システムの設計、製造が優先された。
MITでは、最初、トランジスタ・スイッチを多数使用して、米国製大型冷蔵庫4台分の大きさをもつMOD3というコンピュータを試作した。その後、1962年にMITはフェアチャイルド半導体製の新しい半導体を多数採用して、新しい小型のMOD3を1963年に開発し、これにThe Apollo Guidance Computer (AGC)と命名し、このコンピュータは、30cmx30cmx30cmの体積に収まるサイズ(重さ30kg)であった。
正確にいえば、月司令船を設計したノース・アメリカン・アビエーション社から、割り当てられたコンピュータの体積が30cmx30cmx30cmであり、この寸法に収まるように工夫したというのが真実である。アポロコンピュータを正確、確実に製作できるように、NASAは、1962年から1967年の間に、100万個以上のシリコンチップを購入し( 最盛期には当時の米国の生産量の60%に相当 )、ほとんどのチップは結果的にアポロ・コンピュータの製作には使用されなかったが、この大口購入が、後の半導体業界飛躍の原動力になった。
一つのコンピュータには1700個の金属缶トランジスタが使用され、個々のトランジスタは使用前に、ガス室でガス漏れがないことを確認して選別された。例えば、ある試験では部品をフロンガスに入れて、ガスに入れた前後の重さを計り、半導体チップが0.00050g重くなっていたら気密性が悪いとされて、部品はロットごと返品された。
コンピュータはアポロ7号での地球周回任務で、良好に動作したので、アポロ8号( 人類史上はじめて人間が月を回って帰ってきた。)で実際に月での航行を担当した。アポロ用コンピュータ以前のコンピュータは相当な電力を消費していたが、ICの採用によって55W( 60ワット電球よりも省エネ )で動作するようになっていた。
アポロ宇宙船の実際のフライトでは、ほぼ同じ仕様のコンピュータが2台、月着陸船と月司令船に搭載され、地球から月面着陸までは月着陸船のコンピュータ、月面上空から地球への帰還には月司令船のコンピュータが使用された。
航法装置には、この新しい装置( 慣性誘導装置 )が完全に機能するか分からなかったので、慣性誘導装置が機能していることのチェック用に昔の船乗りが使用する六分儀( ろくぶんぎ )機能が付け加えられ、宇宙飛行士が星に向かって慣性航法装置を調整できるように訓練用として研究所の屋上にシミュレータを作製した。
六分儀を使用した宇宙航法では、ほぼ等間隔で離れている36個の星の位置を測定して、随時、コンピュータの情報を修正し、宇宙空間での自分の位置を確認していたが、初期にはそのうちの3つの星だけ名前がなかった。それでアポロ1号の悲劇の後に、それらの星に、犠牲になったアポロ1号の飛行士の名前(エド・ホワイト二世、ガス・グリソム、ロジャー・チャフィー)をもとにして、エド・ホワイト二世(second)のsecondを逆にしてdnoces、ガス・グリソムのミドルネームIVANのスペルを逆にしてNAVI、ロジャー・チャフィーのRogerを逆さまにしてRegorと名づけられた。1960年代半ばのコンピュータはメモリ容量32キロバイトで現在のパソコンのメモリ容量には、はるかに及ばないが、この中に月飛行に関する命令がロープ磁気メモリという物理的なメモリに0と1の情報でコード化されておさめられており、月司令船の位置と航路を計算し、星の角度をもとに司令船のジャイロスコープ航行プラットフォームの位置を調整したり、ロケットエンジンを正確に噴射するのも、アンテナを地球に向けるのもコンピュータの仕事だった。
アポロ計画時代に使用された宇宙船用コンピュータは、現代のコンピュータに比較して貧弱であったことが紹介されることが多いが、本コンピュータのメモリは物理的メモリであり、一瞬で再起動するなど、信頼性の点で現在でも優秀なものである。ちなみに、ドレイパー教授は、自分の航法システムに絶対の自信を持っていたので、実際に自分が宇宙船に乗って月まで行き、自分のシステムが動くことを見届けようと提案していたが、当時、まだ信頼性が低かったので、事故による民間人の死亡を恐れた政府は、初期は軍人関係者(テストパイロット出身)を宇宙飛行士にすることに決定した。ちなみに、事実、過去6人の船長の内、5人が海軍のパイロット出身である。
アポロ用コンピュータは、潜水艦用ICBMであるポラリスミサイルのコンピュータを製造していた&ドレイパー教授の器械工学研究所のつながりがあったレイセオン社が製作した。また光学式照準器と宇宙六分儀はコルスマン・インスツルメント社が製造を担当した。
ハル・ラニング氏(Hal Laning, MIT)>当時のコンピュータはICの処理速度が遅く、マルチタスク作業に限界があるために人命が関わるコンピュータが停止する問題を解決。
ディック・バッティン氏(Dick Battin リチャード・バティン MIT)>コンピュータを宇宙船用に小型化する技術担当(シリコンチップの製造)、ソフトウェアの責任者
コンピュータ・メモリー>
製造>レイセオン社( Raytheon )
MITがコンピューターの仕事を始めた時、ROM読み出し専用固定メモリー)は4キロバイト、RAM(書き換え可能なランダムメモリー)は0.5キロバイトで足りると考えていたが、結果的にはソフトウェアの増大によって、ROMは36キロバイト、RAMは2キロバイトになった。ちなみに、最近のメモリーはギガバイトが普通で、1ギガバイトは1キロバイトの100万倍の記憶容量があるといえる。
アポロの飛行データ及びソフトウエアを収めるのには、コア・ロープ・メモリーが使用された。ソフトウェアはハードディスクにではなく、銅線と2万個のフェライトの磁気コア (銅線がコアを通れば1、通らなければ0を意味する )によって作製されたコアロープメモリーに収容された。一つの磁気コアに最大で64本の電線を通すことが出来たので、頭を使えば一つのコアに64ビットの情報を記憶することが出来るようになっていた。
コアロープメモリーはレイセオン社(Raytheon)の工場に、時計メーカーや元洋服メーカーの熟練のおばちゃん達が集められ、2人一組になって、約6週間(42日)かかって編んでいた。アポロ計画後期には、この作業も一部自動化されるようになっていた。よって、プログラミングはフライトの6か月前に完成させて、完成品をフライト前に数か月にわたってテストしていた。現在から見ると非常にローテクなメモリーであるが、その分、信頼性に優れており、このメモリーは現在も使用可能であると考えられている。
このメモリー製造時には、愛情をかけて繊細なメモリー作製に取り組んでもらえるように、当時の花形職業であった現役の宇宙飛行士を工場に派遣して、メモリー製造に愛着を持ってもらえるようにした。
ソフトウェア>
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月航行用ソフトウェア> 月までの宇宙航行用コンピュータの開発は1960年代初めにマサチューセッツ工科大学(M.I.T)に発注され、マーガレット・ハミルトン(Margaret Hamilton)という当時20代の若い女性エンジニア(写真の時は、おそらく28才ぐらい)がソフトウェアを主に担当し、ソフトウェアは印刷すると、彼女の背丈と同じぐらいの量になった。
ちなみに、アポロ計画時には、「ソフトウェア」という言葉自体、存在せず、当時は特定の機器に適した「プログラミング」という言葉が使用されていた。また、マーガレットも当時は珍しい”働くママ”であった。NASAはアポロ計画の進展につれてソフトウェアの重要性に気づき、1968年になると400人以上がアポロ計画のソフトウェア開発に関わるようになっていた。
当時の宇宙飛行士達は、テストパイロット出身が多かったので、コンピュータによる宇宙船の自動制御に拒否反応を示していた(パイロットはお客ではなく、操縦するものだという概念)が、アポロ8号の飛行中に起きたハプニング(ジム・ラベルが疲労で、飛行中に誤って飛行データのリセット操作を行なって宇宙空間で自分達の位置が分からなくなったが、ハミルトンの指示でデータを送信して難を逃れた)をきっかけにして、宇宙航行時のコンピュータ利用に理解を示すようになった。
月までの軌道計算は、MITの研究室のIBM360とハネウェル社のメインフレームを使用して地球ー月系の軌道学、宇宙船の挙動、実際の宇宙飛行士の挙動までも計算にいれて計算を行ない、シミュレーションを行った。アポロ・コンピュータでは、安全のために複数のプログラム言語のプログラムを同時に作動させていた。 ソフトウェアの開発は難航し、アポロ計画の遅延が予想されたので、NASAの決定によって宇宙船単独で月まで自動航法する方法はあきらめ、随時、地球からソフトウェアを送信し、地球から電波が届かない月の裏側時のみに、宇宙船のコンピュータが動作する仕組みに変更された。
ソフトウェアの基本としては、打ち上げから月周回、大気圏突入、着水まで、すべて自動で運行することが計画され、途中で宇宙飛行士が死亡しても自動で遺体を地球まで返送するシステムになっていた。アポロ計画では、宇宙空間の自律航法という構想はやめ、かさばって重い書類などは一切、乗せなかった。その代り、音声通信、データ通信で地球からリアルタイムに司令を与え(実際に、地球のコントロールセンターから宇宙船の操縦が出来た。管制センターでは、それぞれの専門家1000人以上が見守っていた。)たので、宇宙飛行士は少ないチェックリスト、予定表などを宇宙船内に持ち込むだけだった。
月着陸船用ソフトウェア>アポロ11号の月着陸船用のプログラム 当時22歳のドン・アイルズ氏(ドナルド・アイルズ、Don Eyles )
<アポロ宇宙船の監視体制>
1960年代前半、マーキュリー計画とジェミニ計画の飛行実績&電子機器、信号処理、原子時計の発達から、NASAは地上に設置されたアンテナで高精度に宇宙船を追跡する技術を獲得していた。アンテナはアメリカのカリフォルニア州、オーストラリア、スペインに設置され、時間遅延とドップラー効果を正確に計算し、その平均値を用いることでNASAは10m、秒速0.5mの誤差範囲内で宇宙船の正確な位置を知ることが出来るようになっていた。
4.2<月着陸船(ルナ・モジュール、LM)>
製造>グラマン社(現 ノースロップ・グラマン社) 、部品数 約100万個
設計&とりまとめ>Tom Kelly (Thomas Joseph Kelly)、製造場所 ニューヨーク州ロングアイランド、ベスページの工場
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アポロ計画の当初では、コンパクトな月着陸船ではなく、巨大なロケット(高さ20m、重量200トン)で着陸して、そのまま地球に帰還する案を計画していたが、月面への着陸方法や、ロケットの高い場所からどうやって飛行士が月面に出るかが問題となり、月着陸船が計画された。
ルナ・モジュール(設計初期はルナ・エクスカーション・モジュール、LEM、月遊覧船だったが、遊覧はしないということでルナ・モジュールと変更された)は、米グラマン社(現 ノースロップ・グラマン社)製で、大別して上下ニ層構造になっており、月着陸後は、宇宙飛行士達の基地となり、燃料込みで総重量15トン以上ある。
このルナ・モジュールは実験用10機、シミュレータ用2機、飛行用15機の合計27機が作製され、当時のお金で5億ドルで契約されたが、設計変更の連続で、結果的には16億ドル(今の日本円でいうと総額12兆円、1機4260億円ぐらい)及び完成までには7年かかった。すべての部品は手作りで、数年にわたって毎日作業した。重量を減らすために、窓は小型の三角形に変更し、ガラス重量を数十キログラム減らしたり、燃料管を化学薬品で処理して可能な限り薄くする工夫が取られた。
ルナモジュール第1号機に関しては重量オーバーに加えて配線トラブル、金属の腐食、上昇ロケットの問題などに悩まされ、出荷された時には品質管理検査管によって100個所の欠陥が発見されるなど開発は難航した。ルナ・モジュールの製造過程では重量オーバーが問題になり、NASAでは打ち上げ重量を1ポンド(454g)減らすたびに5万ドル(当時の金額)の報奨金を出した。
月着陸船の外観、構造>月面は、ほとんど真空で空気抵抗もないので翼も不要、流線型である必要もなく、月面着陸にあたっては空気がないのでパラシュートも使用できないので、ロケットエンジンで噴射しながら着陸する必要がある。地球に帰還時はルナ・モジュールの下部が発射台として機能し、上部が分離して月軌道に戻ることになり、飛行士が月司令船に移動した後は、上部ルナ・モジュールは月軌道上に廃棄される。
月面を離陸する時は、ロケットエンジンが1機しかないために、エンジンが故障すると地球に帰還できなくなる。よって、月離陸用エンジンは、開発にあたって累計1000回近く動作試験を行ったという。ルナ・モジュールの脚の強度は、地球でのサターン・ロケットの打ち上げ重量を極限まで減らすために月の重力に合わせてあり、地球では自立して立つことが出来ないぐらい華奢に作製されており、上部ステージで一番薄い所の金属の厚みは0.13mm、船内の床にいたっては、作業員がドライバーを落としただけで床を突き破ったぐらいに華奢であったという。
飛行士達が乗る上部ステージは実質的に「アルミ製の風船、ティッシュペーパーで出来た宇宙船」と表現してもいいぐらいであり、船内を予圧するとハッチ部分が膨らんで飛行士達を不安にさせたという。
船外活動服を来た宇宙飛行士は、地球上では重量が160kgぐらいあるが、月面では体重が約27kgになるので、飛行士が下りる階段の強度も月面に合わせてあり、地球上でフル装備の飛行士が階段に上ると変形するぐらい華奢に作られている。また、初期には重量軽減のためにハシゴ(階段)は設置せず、宇宙飛行士がロープで上り下りする予定だったが、実験では上り下り出来ないことが判明したので、ハシゴ(階段)が設置された。月面活動の中継用テレビカメラ、月面観測装置、月面車は写真の 「United States」と書いてある部分に折りたたんで収納して持って行った。
アポロ11号以降では、月面車を運んだり、科学機器を運んだりしたので、毎回改良が加えられており、実質的に同じ構造の機体はなかった。Tom Kelly (Thomas Joseph Kelly)が設計をとりまとめたので、彼は”ルナ・モジュールの父”と呼ばれている。
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上の写真は月着陸船のコックピットで、月面は重力が地球の6分の1なのでイスは不要とされ、月面における船内では宇宙飛行士をフックで吊っていた。このスペースに、かさばる船外活動服を来た2人の宇宙飛行士が滞在していた。ちなみに、計器盤のスイッチ一つ(ロケットの振動で壊れない、確実に動作し、ショートしない、火花を出さないこと)でも1960年代で5000ドルの開発コストがかかっており、これは現代の日本の感覚でいうと1800万円以上になる。
徹底的に軽量化するために、配線を覆うカバーは設置されず、配線むき出しのままに製造された。写真中央の赤い丸ボタンが着陸を中止する際の非常ボタン。ちなみに、三角形の窓は、人間の顔より少し大きいぐらいの面積しかない。組み立てにあたっては、当時としては珍しいクリーンルーム内で組み立てられ、組み立て中には機体を360度回転させてゆらし、組み立て中のゴミ(宇宙空間でゴミが浮遊すると飛行士が吸ったり、トラブルの原因になる)などが残っていないかチェックした。
また、当時は月面は10mぐらい細かい砂で覆われているという説があったので、着陸時に転倒しないように、コンピュータを使用して模型を、およそ400通り着陸させてシミュレーションしたという。ルナ・モジュールには船長とルナ・モジュール・パイロットが搭乗しており、名前からするとルナ・モジュール・パイロットが操縦するはずであるが、実際には船長が操縦して月面着陸するようになっており、ルナ・モジュール・パイロットはデータの監視など補助的な役割であり、訓練はしているが非常時だけに操縦出来るルールだった。しかし、アポロ12号の帰還場面では、コンラッド船長がビーン飛行士に配慮して、地球と更新できない月の裏側で、こっそりとルナ・モジュールを操船させた。
アポロ宇宙船の模型の表紙では、月司令船と月着陸船がドッキングした状態の時に月着陸船の脚が開いている状態があるが、あれは正確ではなく、脚を開くのは月面に到達してからである。
出入口構造> 写真下部のハンドルのついた四角い部分が外部への出入り口で、幅は人間の肩幅より大きいぐらい。ドアは内開きで左側が大きく開く構造であり、人類初の月面着陸では、狭い空間では船長がパイロットよりも先に出ていかざるを得ないことが判明して、左側が船長席であるアームストロング船長が先に月面に立つことになった。
ルナ・モジュールの出入り口の寸法に余裕がないことから、かさばる船外宇宙服を着た宇宙飛行士達は後ろ向きで外に出るのに苦労した。設計当初は大きな窓、丸い出入り口が想定されていたが、重量軽減のために大きな窓は小さな窓に変更され、丸い出入り口は、船外活動服の生命維持装置がひっかかるので、四角く(出入り口は81cm角)変更された。
月面で寝る時> 月面で寝る時はアポロ11号では、宇宙服を着たまま(これは就寝中に空気漏れで窒息することを恐れたため)壁にもたれかかって寝た。アポロ11号では着陸船の電源をすべて切ると、船内の熱源がすべてなくなり、宇宙服内には酸素が絶えず流れているので飛行士達は寒さに震えて眠れなかったという。アポロ12号では十分な睡眠をとるために、宇宙服を着たままハンモックで寝たが、宇宙服はごつごつしているので体にあたって眠りにくかったという。
アポロ15号以降では、月面滞在時間が大幅に増えたので十分な睡眠をとるために宇宙服を脱いで寝られるようになった。月面では、体重が6分の1になるので、ハンモックでも快適に寝られたという。また、月面で十分に確実に睡眠が取れるように、月着陸船内の機械音を録音したテープを使用してシミュレータ内で寝る訓練を事前に何回も行っていた。
4-6-3 ●アポロ11号で月面でアームストロング船長が寝た時の状況(実際には体より一回り大きい船外宇宙服を着たまま寝ていた。)アポロ宇宙飛行士は、事故、故障で月着陸船が離陸できない場合、月まで救出に行けないので、同僚飛行士と、この中で一生を終える覚悟が出来ていた。
下降用エンジン> 世界初のスロットルのついた推力調整可能なロケットエンジン。この降下エンジンは燃焼すると腐食し、スラスター性能が変化する代物だった。地球では、事前に小型ジェットエンジン+ロケットエンジンに座席を取り付けた機体(LLRV,LLTV,ジェットエンジンを上向きに設置して重量の9割を負担させ、残りは化学反応式ロケットで操作する)を準備して、月面降下訓練を行った。
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写真>月面降下訓練用の特殊機体LLRV(Lunar Landing Research Vehicle,後に改良されてLLTV (Lunar Landing Test Vehicle )と呼ばれるようになった。)
重力が6分の1の月面では、横移動するのに通常の6倍機体を傾けないといけないので操縦が難しく、燃料の関係で一回に4分程度しか訓練できなかった。本機はベル・エアロシステムズ社製で、大気もほとんどなく、重力が6分の1の環境で、着陸するのはシミュレーションだけでは困難と考えられたので、設計され、ジェットエンジンで重力が6分の1になるようにコンピュータ制御して飛行するようになっていた。
設計当初は人間が制御できるか不安視されたが、シミュレーションでは制御可能とされたので製作された。当初は不具合解決だけで1年間かかったが最終的には月面上空150mからの月面降下を忠実に再現できるようになった。本機は、試作2機、その後追加で3機製作されて累計で数百回、月面着陸訓練に使用された。
上昇用エンジン> シンプルで絶対の信頼性をもつエンジン。燃料の腐食性が高く、1回しかエンジンが持たないために、月面でのエンジン作動は毎回一発勝負だったので完璧が求められた。故障したら、飛行士が月面から帰還できなくなる。
金色の断熱フィルム> 月面は日なたでは120℃、日陰は-150℃にもなり、そのままでは月着陸船が熱でゆがむ可能性もある上、燃料は37℃で沸騰、-約1℃で凍結するので、デュポン社によって開発されたアルミメッキのポリエステルフィルムの25層重ねの断熱材で覆った。
ジョン・フーボルト氏> 月着陸船を使用し、帰りに月軌道上で月司令船とランデブーするとのアイデアを出したのはチャンスボート社のトム・ドーランであり、NASAに提案したが、断られた。しかし、彼の報告書が、当時NASAでも無名だったジョン・フーボルトに渡り、フーボルトは、この方法が唯一の方法であると確信した。当初、フォン・ブラウンは大型ロケットで月に行って帰ってくることを主張していたが、フーボルトは解雇覚悟でNASA幹部に直訴状を出して、月面ランデブー方式が月面着陸の唯一の方法だと主張した。
その後、フォン・ブラウンも考えを改めて、月面ランデブー方式となり、フォン・ブラウンはアポロ11号の月面着陸直後にフーボルトにお礼を言ったという。ただし、当時のNASAでは地球軌道上でランデブー成功した程度の技術であり、遠く離れた月面軌道上でランデブーするというのは、未経験の技術であった。
シミュレーター> アポロ計画では宇宙飛行士の訓練の半分の時間がシミュレータの訓練に費やされ、11個のシミュレータが用意されていた。また、着陸地点の写真などから直径5mの石膏製の精密な模型も準備されており、この模型を使って飛行士も管制センターも訓練を行っており、実際の月面着陸では、「シミュレータと同じ」という感想を持つまでになっていた。ただし、クレーターの形などは同じであっても現実には巨大な岩などがあり、飛行士が適切に判断して着陸地点を決定していた。
4.3<ルナ・ローバー>
ルナ・ローバー(月面車)は、正式にはLRV(Lunar Roving Vehicle)という名称で、最終的には当時3800万ドル(現在の貨幣価値にすると約1500億円ぐらい。3800万ドルx100円x3.6(昔は1ドル360円)x5(物価スライド)x2(実態物価=1500億円)かかって訓練車1台、実験車6台、本番用4台(単純に1500億円/4台で計算すると400億円/台)が作製された。
アポロ11、12、14号では、動きにくい船外活動服のせいで、月着陸船の周囲しか月面探索が出来なかったが、ローバーを使用することによって、広範囲で探索をすることが可能になった。アポロ15号, 16号, 17号にて3台は月面に運ばれて使用され、現在も月面に放置されている。残りの1台は、アポロ18号用に作製されたが、アポロ18号が費用の関係でキャンセルされたので、場所は不明だが米国内で保存されていると思われる。
基本設計はポルシェ、製造はボーイング社が請け負い、わずか2年足らずで設計から製造、試験走行までこなして出来上がった。4輪独立駆動( 4WD )、4輪操舵( 4WS )で、各タイヤホイール内に電気モーター(デルコ・エレクトロニクス製)を内蔵し、銀ー水酸化亜鉛カリウム一次電池2台で駆動し、北、南など方位磁石の効かない月面上(月では磁極がほとんどない)で移動するために、独自の誘導コンピュータを装備し、通信システム、月面図、地質調査用の道具と月の石を積むための荷台が装備されていた。
地球上では車重は210kg、月面では35kg。最高速度は時速16km。月面は100℃を超える可能性があるので、タイヤ(GM、ゼネラル・モーターズ製)はゴム製ではなく、亜鉛メッキした鉄製ワイヤの織物で摩擦力を高めるためにチタン製の板が貼られている。フレームは2219本のアルミ合金のチューブで作製され、3つのシャーシが中央で蝶番で接続されているので折りたたむことが出来た。
傘(通信用のアンテナ)が開いている方向が前部分で、船長が運転手となって左のシートに座った。車の前部には、地球から操作できるカメラが装備されており、宇宙飛行士に指示しなくても、地球側要員からの興味で独立してカメラを動かすことが出来た。性能的には92km走行可能なように設計されたが、万が一、ローバーが故障した場合に、飛行士が歩いて安全に帰還出来る距離に制限され、実際には月着陸船から4.5-7.6kmの範囲で使用され、一回のミッションで3-4.5時間使用された。結果的には、一台400億円の月面車を4時間使用しただけなので、現代の感覚でいうと「ローバーの使用代金は1時間100億円だった」ということも出来る。
プールの水中(重力は9分の1)で故意に倒れようとしても、ゆっくりとしか倒れないように、重力が6分の1しかない月面では、走行のハズミでタイヤが空中に浮くと、着地までに数秒かかり、実際はいつもタイヤの一部を空中に上げたまま走行することになった。
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傘のようなアンテナのついた方が前で、傘の下にある金色のものが地球から遠隔操作可能なテレビカメラ。
アポロ計画の当初では、人間用にサターンロケット1台、機械運搬用にサターンロケット1台の使用が予定されており、当初は大型のローバーも検討されていたが、膨大なアポロ計画の予算を削減するという方針の元、高価なサターンロケットを2台使用することは中止し、写真のような組み立て型のローバーが考案された。
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