古代中国の清朝皇帝に関する読本

古代中国の清朝皇帝に関する読本

楠本慶二 著 (更新停止、永久掲載)


目次>-----------

1.  紫禁城 ( 故宮博物院 )

1.1 清朝の皇帝一覧

2.  清朝皇帝の食事風景、身の回り

3.  清朝皇帝の子供の数と次期皇帝の決め方

4.  清朝皇帝の奥様達と選び方

5.  清朝皇帝の一日

5.1 皇帝の日常生活の場> 養心殿、三希堂(書斎)

6.  清朝皇族の寿命(生きた年数)

7.  清朝のしきたり

8. 清朝皇帝の末路

9. 清朝皇帝、宮廷の服装と見分け方(皇帝服、 ドラゴンローブ、龍袍(ロンパオ、りゅうほう)、朝服(チャンパオ))

10. 皇帝関連の印鑑(国璽)

11. 倉庫

12. 乾隆帝時代の庶民の生活状況

13. ラストエンペラー 愛新覚羅 溥儀の年表

14. 文献、映画、ドラマで詳しく知る

15. あとがき

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1. 紫禁城(しきんじょう) 、現在は故宮博物院

 紫禁城 ( Forbidden City )とは、天帝 (創造主)が住んでいる星とされる北極星を紫微星(しびせい)、北極星の周辺を回る星座の辺りを紫微垣(しびえん)と呼んだのに由来する「紫宮」、及び「天帝の命を受けて世界秩序の維持に責任を持つ皇帝 (天の子供という設定なので天子という)」の住居たる「禁城(自由に入るのを禁止された城)」の二語をあわせて「紫禁城」と呼んだことに由来する。つまり、紫禁城とは世界の中心を地上に再現した領域であり、天帝にかわって地上を治める皇帝の住む宮殿として建設された。 中国の天文学では、昔は北の空を太微垣(たいびえん)、紫微垣(しびえん)、天市垣(てんいちえん)に区分し、その中心にあったのが紫微垣(しびえん)であった。

 現在、北京にある紫禁城は、明朝第三代皇帝 永楽帝(えいらくてい)の命令によって西暦1407年に着工し、 交代で総数100万人で17年かかって1420年に完成した。現在の紫禁城は、奥行き約1000m、横幅約760m、10m以上の高い城壁によって守られており、敷地総面積は72万平方m。

 現在の紫禁城には800棟の建物があり、部屋数は9999.5と言われている。紫禁城は、皇帝専用の色とされる黄瑠璃色の瓦で 大部分は葺かれており、黄色は東西南北の中心であることを示している。ちなみに、黄色(正確には明黄色)が皇帝及び皇后の色とされるのは、中国語で黄と皇は共に「ホワン」と発音することに由来している。壁と柱は赤く塗られており、この赤は力と運、光を表現している。つまり、黄色と赤色で紫禁城が世界の中心で光り輝いていることを表現している。さらに、建物の梁は緑か青色であり、これは東や春を意味しており、「再生」を象徴している。

 建物は木造で、主に楠木(普通のクスノキではなく当時、神木とよばれた木目が美しい金絲楠(キンシナン)という楠木)で建てられており、これらの巨木は主に広東など中国南方地方から水路を経て3-4年かけて、はるばる運ばれてきたとされる。

 煉瓦(レンガ)は江南や山東から運ばれたようで、1億個以上使用され、太和殿前の広場には地下からの敵の侵入に備えて7層に渡ってレンガが敷き詰められている。しかし、非常時の紫禁城からの脱出用に秘密の地下道、地下室が存在することが知られている。

 石材は北京郊外から運ばれ、特に大きい石材(例えば250トンの石材)については、一里おきに井戸を掘り、冬が来るのを待って道路に水を巻き、氷を張ってその上を滑らせて1000頭のロバで1万人が28日間かけて運んだといわれる。

 紫禁城は、外廷と内廷に大別され、外廷は大臣、料理人、役人、護衛など限られた人が入ることが許されていた。一方、内廷は宦官、宮女、召使など限られた人しか入ることはできず、内廷に用事のある人は「腰牌」と呼ばれる札をもらってはじめて入ることが許された。外廷の職員は交替制で紫禁城外のレストランで食事をとっていた。

 後述のように、清朝においては「しきたり」によって皇帝の毎日の生活が決められていた、北京は緯度が高いので寒かった、夏は蒸し暑かった等の理由によって清朝中期以降の皇帝達は紫禁城で生活することを嫌がり、康熙帝(こうきてい)は熱河 (現在の承徳市)の離宮、乾隆帝(けんりゅうてい)は円明園(頤和園の隣)、西太后(せいたいこう)は頤和園(いわえん)で一年の大部分(4月~9月)を過ごしていた。紫禁城以外では「しきたり」は大幅に緩和され、大臣との謁見以外はある程度自由になっていた。しかし、紫禁城以外の生活が長くなると、秦上文で大臣から諌められていた。

 明朝(みんちょう、明王朝)、清朝(しんちょう、清王朝)においては、紫禁城の中は天上世界ということになっていた。よって、当時、庶民は皇帝の顔を拝む事はほとんどなかった。

 現在、中国の象徴として有名な天安門は、当時、紫禁城の入口として天と地をつなぐ境であり、天安門は皇帝の意思を記した書物(勅書(ちょくしょ))を発布する場所となっていた。具体的には、皇帝の勅書は、金箔で覆った木彫りの鳳凰にくわえさえて、絹の糸で天安門から降ろさせ、天安門下では雲をモチーフにした盆で鳳凰 の口から落とした勅書を受けとり、そこで勅書を受け取った。勅書はその場で別の紙に書き写され、印刷後、全国に配布された。その際、天安門の前の開けた場所には文武百官とよばれる多数の臣下たちが、この式典のために整列していた。このイベントは金鳳頒詔(きんぽうはんしょう)と呼ばれた。

参考文献>「紫禁城史話 中国皇帝政治の檜舞台 中央公論新社」、「紫禁城散策 いろいろ事始め 凱風社」、「食在宮廷、学生社」、「素顔の西太后、東方書店(1987)」、「北京の紫禁城」 今日中国出版社


 現在、紫禁城は故宮博物院と呼ばれており、故宮とは「昔の宮殿」を意味している。

 紫禁城にかつてあった宝物については、歴史的な経緯もあって、現在、北京の故宮博物院の他、南京博物院、及び台湾にもあり、台湾では国立故宮博物院という施設で展示されている。宝物が散逸した経緯についてはウイキペディア(故宮博物院)を参照されたし。

 簡単にいうと、台湾の国立故宮博物院には、持ち運びやすく、かつ当時価値が高いとみなされた宝物があり、北京の故宮博物院には、重かったり当時はそれほど価値がないと見なされた宝物、及び紫禁城自体が見物のメインである。 よって、歴代中国の書画、工芸品を見たいならば台湾の国立故宮博物院に、紫禁城及び皇帝の生活空間を体験したいならば、北京の故宮博物院に行かれることをお勧めする。


1.1 清朝の皇帝一覧

清朝(清王朝)> 清朝は、漢民族の王朝ではなく、現在の中国東北部にいた狩猟民族が打ち立てた異民族王朝。当時、満州族の人口は多く見積もっても100万人はいかなかったと考えられており、ヌルハチという英傑は突如現れて、部族を統一し、武力によって明王朝を倒して(一部の漢人による協力もあった。)清朝を打ち立て、当時2億人の漢民族を支配した。 第2代皇帝ホンタイジの頃までの皇帝は、弓矢などの武力は得意だったが、蒙古文字が読める程度であったという。


初代 ヌルハチ(1559-1626)

 1616年にハーン位(王位)に就き、国号を大金とした(前に金王朝があるので後金と呼ぶ場合もある)。1625年に盛京(=現在の瀋陽)を首都にした。出身部族である女真族では姓が無かったので、王になったあと、漢字の姓で愛親覚羅(あいしんかくら、あるいは、あいしんぎょろ)と創作し、名乗った。さらに、ヌルハチの出身部族である女真族では文殊菩薩信仰があり、「文殊菩薩」(もんじゅぼさつ)からとって中国東北部を満州(まんじゅ)と名付けた。1592-1598年に豊臣秀吉が朝鮮出兵を行っており、清朝の前の明朝の注意が日本に向けられており、中国東北部の警備が緩かったのも、後金王朝(後の清朝)成立の要因の一つとされている。


2代 通称 ホンタイジ(皇太極)(1592-1643)。在位1626~1643

 ホンタイジとは皇太子という意味で本名ではない。清朝初期は、生まれた順で皇帝になっていたが、これでは王子間でいさかいが多かったため、中期は皇帝にふさわしい王子をあらかじめ生前に選んで、死後に発表される制度だった。


3代 順治帝(じゅんちてい、1638-1661) 北京の紫禁城に7才で入居し、24才で天然痘で病死。 在位1643~1661

  聡明で中国古典や文学書を読み、書画骨董を愛するなど、文人としての面もあった。


4代 康熙帝(こうきてい、1654-1722) 在位1661~1722

 生まれつき強靭な体力に恵まれ、酒もタバコもたしなまず、17、18才の頃には毎日血を吐くほど勉強したという。朱子学に傾倒し、古典文学、歴史書を勉強するとともにヨーロッパ人宣教師からラテン語、数学、天文学、物理学まで学んでいた。


5代 雍正帝(ようせいてい、1678-1735) 在位1722~1735


6代 乾隆帝(けんりゅうてい、1711-1799) 在位1735~1795

 清朝全盛時代を作り上げた人物で、文武に興味を持ち、生涯に4万数千種の詩をつくった詩人。在位時に支配下にはいった各地の言語、蒙古語、チベット語、トルコ語も学んでいたという。


7代 嘉慶帝(かけいてい、1760-1820) 在位1796~1820


8代 道光帝(どうこうてい、1782-1850) 在位1820~1850


9代 咸豊帝(かんぽうてい、1831~1861) 在位1850~1861

 西太后(せいたいこう、正確には西太后はあだ名で、正確には慈禧太后(じきたいこう)と呼ばれていた。「せいたいごう」と呼ぶのも間違い)の夫。


10代 同治帝(どうちてい、「どうじてい 」と呼ぶ場合もある。1856~1875) 在位1861~1875

 西太后の一人息子。幼くして皇帝に即位したので、西太后と共同で治めるという意味で「同治」帝としたとされる。しかし、若くして天然痘で亡くなった。同治帝の皇后はこの時妊娠していたが、同治帝が亡くなった時点で光緒帝(=同治帝の息子ではない)が即位しており、もし男児が生まれたなら、もめる事が明らかだったので、皇后は亡き夫を追うように食事を絶って胎児とともに衰弱死した。


11代 光緒帝(こうちょてい、こうしょていと呼ぶ場合もある。1871~1908) 在位1875~1908

 西太后の妹の子供。西太后によって3才の時に皇帝にされたので、若い頃は西太后の指示通りにしていたが、青年期に自我に目覚め、中国を近代化させるべく、西太后へのクーデターを画策したが、ばれて若くして皇帝でありながら、死ぬまで軟禁された。 光緒帝の皇后で、西太后の跡を継いだ隆裕皇太后( りゅうゆう こうたいこう 光緒帝の皇后 で、西太后の姪)は、光緒帝の次の皇帝、いわゆるラストエンペラー溥儀を、国の将来、皇族の今後を考えて皇帝退位の決断を行ない、始皇帝以来の中国の皇帝時代を終わらせた。しかし、隆裕皇太后は、この決断を悔やみ、一年後に44歳という若さで病気で崩御した。隆裕皇太后は、西太后の姪、つまり光緒帝の従姉(いとこ)にあたり、西太后によって皇后に推薦されたが、光緒帝からは愛されず、不遇な人生を送った (真偽は不明だが、「私のような不幸な妃を、もう作らない」という願いを込めて、皇帝制度を終焉させたと発言したらしい。)が、崩御後に”封権時代を終了させた人”として人民から国葬扱いを受け、近代では再評価されつつある。


12代 宣統帝(せんとうてい、1906~1967)  在位1908~1912

 ラストエンペラー愛新覚羅・溥儀(あいしんぎょろ・ふぎ、アイシンギョロ・プーイー)も、西太后によって2-3才で擁立された正統な中国最後の皇帝 。正統な中国最後の皇帝である(その後、袁世凱が自称”皇帝”を名乗った時期がある)が在位期間はわずか4年であり、自分の意思で退位したわけではなく、実際は、西太后の跡を継いだ隆裕皇太后( りゅうゆう こうたいこう 光緒帝の皇后で、西太后の姪)が国の将来、皇族の今後を考えて皇帝退位の決断を行ない、始皇帝以来の中国の皇帝時代を終わらせた。しかし、隆裕皇太后は、この決断を悔やみ、一年後に44歳という若さで病気で崩御した。隆裕皇太后は、西太后の姪、つまり光緒帝の従姉(いとこ)にあたり、西太后によって皇后に推薦されたが、光緒帝からは愛されず、不遇な人生を送ったが、崩御後に”始皇帝以来の皇帝政治、封権時代を終了させた人”として人民から国葬扱いを受け、近代では再評価されつつある。


2. 皇帝の食事風景、身の回り

<食事風景 >

 中国の明時代は、永楽帝(えいらくてい)が北京に連れて来た料理人が山東人であったため、山東料理が主流。

 清代初めは清朝の故郷である満州料理と山東料理が並んでいた。皇帝が飲む水、お茶に使う水、料理に使う水はすべて、北京西郊外の玉泉山から専用の車で毎日運んできて、皇帝は玉泉山、豊沢園、湯泉などでとれる黄、白、紫の3色の老米、及び各地から貢がれた米を食べ、皇帝専用に乳牛50頭、皇后専用に乳牛25頭が飼われていた。

 乾隆帝(けんりゅうてい)の頃になると料理が徐々に豪華になっていき、乾隆帝の時期で朝食と昼食の毎回、100品の料理が並び、清朝末期の西太后の頃には毎回(朝食と昼食)、最高の贅をつくした360品の料理(毎回、お粥だけで50種類以上)と100種類を越える点心がならんでいたとされる。300点以上の料理と聞くと贅沢を尽くしているように聞こえるが、中国には「医食同源」という言葉があるように、実際には医者の進めにしたがって、あらゆるものを少しづつ食べて健康を保つという理由、中国全土から珍しいものを満遍なく取り寄せることによって皇帝の権威を保つという理由、皇帝の権威によって中国全土の流通網を整備するという理由もあった。また、皇帝に提供される料理(毎日出される料理)には、「実際に食べるもの」、「料理を見て楽しむもの」、「皇帝の権威を示すために周りに見せるもの」の3種類あったといわれている。西太后の膳房には、4000種を超える料理と400種を超える点心のレシピがあったといわれている。西太后の昼食や夕食には300人、ときには500人を超える女官、宮女、太監(宦官)が控え、余った料理は上位の者から下位の者へと順に下げ渡された。

 しかし、ラストエンペラー溥儀(ふぎ、プーイー)の青年期は、既に皇帝を退位しており、財政的な問題、及び儀式習慣の簡略化によって溥儀の好みに応じて現在と同じような数品の中華料理や洋食が出されていた。

 宮廷の料理には厳密な決まりがあり、かつて一度でも皇帝が食べた料理については、調味料、材料、誰が作ったか等を詳細に献立表に記録しており、時代を超えて、いついかなる時でも味が変わらないように作ることが宮中のしきたりとなっていた。おおまかにいって皇帝専用の料理人は100人以上、その他、皇后、貴賓専用の料理人がそれぞれ数十人いた。宮中の料理人は基本的には世襲制で清朝300年間ほとんど家系の変化はなかった。料理人の給料は決していいものではなかったが、材料の仕入れ時にいろいろな方法で賄賂をとることによって個人的に儲けており、例えば西太后が食べる卵1個は通常の卵の300倍の値段で購入されていたことが分かっている。しかし、実際には皇帝の食事のほとんどは食べられずに廃棄または后に贈呈(残り物を特定の后に指名して食べさせる)されていた。

 ちなみに、現在の中華料理は、多人数で回るテーブルで大皿料理を食べるという場合が多いが、「回る丸いテーブル」は戦後日本人が発明してその後中国で流行したものであり、満州料理は日本食と同じように一人一皿の料理が基本である。

 食事時間は朝食が朝6-7時頃、夕食が3時頃であり、この2回が正式なもので、その他、12時ごろには軽いスナック、夕方6時ごろには酒と簡単な点心が出された。食事の場所は特に決まっておらず、皇帝の気の向いたところで 、すぐに食卓が広げられた。

 皇帝が食事することを伝えると、身なりを整えた宦官(かんがん、当時 、宦官は”太監”、若い宦官は小太宦と称していた)達が大小のお膳を高く掲げ、龍の模様のついたお盆を手に列をなして運んできた。料理については、「熱い料理は熱いうちに食べる」のが基本であるので、広い紫禁城内では台所から皇帝の居住区まで、数百人が並んで、バケツリレー方式で数百種類の料理を運んでいた。

 皇帝は宴席を除くと一人で食事するのが基本であり、料理が届くと、おつきの者が各料理の上に置かれた「小さな銀の板」が毒で変色していないかを調べた。これは当時は毒と反応して銀が変色すると信じていたからである。その後、別の宦官が一口づつ毒見をしてから料理が並べられた。

 その後、皇帝が席に着くと料理の蓋が一斉にとられて食事を開始した。当然、これらの料理をすべて食べられるはずも無く、ほとんどの料理は、その後、皇后、皇貴妃、お付の者達に分け与えられた。清朝のしきたりによると、皇后であっても皇帝の前で腰掛ける事は許されておらず、皇后、貴妃達は立ったまま食事をしていた。(今で いう立食パーティ形式?)

 食事に使う食器は、官窯(かんよう)で作製させた皇帝の象徴である黄色の磁器、白い玉(ぎょく)で作ったお茶碗、箸、金の箸が使用され、客には銀製の食器で提供された。ちなみに、清朝後期ぐらいになると、宮廷で使う食器も、大臣用、皇后用、貴妃用と規則にしたがって特別に官窯で作製されて使用していた。たとえば器の内と外が黄色いのは皇帝、皇太后、皇后用で、内側が白く、外が黄色い容器は皇貴妃用、黄色地緑龍は貴妃と妃用、藍色地黄色龍は賓(ひん)用、緑地紫龍は貴人用、五彩紅龍は常在用として使用された。

 ちなみに、宮廷では牛は農作業の役に立つという理由から食べることはタブーであり、今日の中華料理に牛肉を使ったものが少ないのはこの辺の事情に由来する。

毎日の皇帝の食事のメニュー及び、どれだけ食べたかは、すべて記録され、文書として保存されていた。

参考文献>「紫禁城散策 いろいろ事始め」 凱風社、「溥儀紫禁城の廃帝」東方書店、「紫禁城史話」中公新書、「食在宮廷、学生社」、「北京の紫禁城」 今日中国出版社


<身の回り >

 昔の紫禁城の後宮には、井戸はあったが、基本的にトイレはなかった。よって、皇帝、貴婦人が顔を洗う際には、おつきの宦官、宮女が用意した水を入れた洗面器で、お風呂は沐浴用のタライで、トイレは「便器がはめ込まれた椅子」に腰掛けて済まし、宦官、宮女がすべて後始末をしていた。当時は、調理、お湯沸かしはすべて石炭で行なっていたので、お湯を沸かすのも大変だった。しかし、朝晩、年中、大量に中華料理を作っているので一年中石炭を燃やしていたのかもしれない。

紫禁城内には井戸が72あり、生活用水は井戸水が基本であったが、皇帝が飲む水、お茶に使う水、料理に使う水はすべて、北京西郊外の玉泉山から専用の車で毎日運んできた。

 当時、「宦官(かんがん)は人ではない、しゃべる動物=生殺与奪は所有者の自由」という考えだったので、皇后、側室達は宦官の前でも平気で裸になっていた。お風呂は日本のように「肩まで浸かる」タイプではなく、大きなタライの中でお湯をかける程度であったので、当然シャンプーなどするはずもなく、女性は、特殊な櫛を使って頭のフケを宦官に取らせていた。

宦官、召使の中には「起居注」係がいて、帝の言行や食べた料理、誰と会見したかなど生活をすべて記録し文書で保存していた。

皇帝が寝ている時はお付の宦官、召使が交代で一晩中、警護に当たっていて朝4時になると皇帝を起こしていた。

 ちなみに、西太后の晩年は、寝室の外に宦官が6人一晩中見張っており、寝室内には宦官が2人、召使いが2人、老女中が2人、時にはさらに女中が2人夜通しで眠らずに西太后の睡眠を見守っていて、朝5時に西太后を起こしていた。

 皇帝が自分で歩く場合以外は、基本的に輿(こし、御輿(みこし))に乗って移動するのが基本であり、正装した宦官8人で担ぎ、別の宦官4人が先導し、12人の宦官が後ろから皇帝の使用する服、椅子、宦官などを罰するための竹の棒などを持って歩いていた。その他に女官や召使もついて歩くことがあった。

 始皇帝の時代は馬車を使うこともあったが、清時代には近場の皇帝、皇族の移動には「輿」が用いられ、この輿は乗り心地が悪く、まっすぐに乗っていないと輿がひっくり返りそうになる乗り物で、実際に西太后は輿から転落したことがあるらしい。皇帝一行が行事のために紫禁城外を行進する時は、あらかじめ役人が行進ルート上の交通を封鎖して通行人を追い払い、皇帝の象徴である黄色い砂(黄砂)を5cm程度の厚さで道にまいて皇帝専用の道を作っておき、(実際には砂が舞わないように水をまいて少し湿らせていた)そこを正装した宦官達が神輿を担いで皇帝を運んだ。このとき、庶民は決して皇帝一行の行列を見てはいけない決まりであった。よって、皇帝、皇后の顔を見たことのある庶民は非常に少なかった。

参考文献>●故宮博物院14 工芸美術 NHK出版、「溥儀紫禁城の廃帝」東方書店、「素顔の西太后、東方書店(1987)」、「西太后 汽車に乗る、東方書店(1997)」


下記はNHK ドラマ「蒼穹の昴」公式サイトから引用-----------------

西太后のエステ>西太后は美肌を保つため、毎朝、母乳を飲んだという。母乳を提供する5人の女性が宮中に勤めた記録が残されている。もっとも母乳が肌に良いとする科学的根拠はないそうである。西太后は本来肌が弱く、そのため並々ならぬ執念で美肌を追求したと言われている。真珠の粉を飲み、高麗人参を使って肌の手入れを行っていた。8種類の漢方を使った乳液、特製のシャンプー、歯磨き粉なども作らせている。なかでも西太后が死ぬまで愛用した「玉容散」という洗顔剤は有名である。「玉容散」は何種類もの漢方薬に、スズメの尿、オスの鷹とメスの白鳩の糞が含まれ、肌荒れや美白、しわ伸ばしに不思議と効能があったとされる。ドラマでは、玉石でできた美顔ローラーを使用する西太后が描かれている。肌の血行を良くし、新陳代謝を促進する効果があるとして、いつも愛用していたという。故宮博物院には西太后が実際に使用した美顔ローラーが遺されている。

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3. 皇帝の「子供の数」と次期皇帝の決め方

 皇帝の歴史年表を見ると○○帝の次は○○帝と、現代感覚では長男、又は二男がスムースに世襲したように思えるが、実際にはそうではなかった。

 例えば、記録によると清朝中期の康熙帝(こうきてい)(1662年頃)には、息子(皇子 、公子)が35人生まれて、無事に大人に育ったのが20人。その他に、娘(公主(こうず))が20人いて、無事に育ったのが8人である。清朝においては平均すると息子が10人生まれて6人育ち、娘が7人生まれて3人が育ったという。宮廷という最高の医療環境下においても、当時の医療レベルでは約半分の子供が病気で夭逝する時代だった。

 ちなみに、康熙帝の次の皇帝である雍正帝(ようせいてい)は皇四子だった。夭折した異母兄弟もいるので、四男として生まれたとは限らず、男子として無事に育ったのが4番目だったということを意味しており、紫禁城に暮らせる成人男性は皇帝一人だったので、成人した子供たち(皇帝の兄弟や叔父、甥は王爺(ワンイエ)と呼ばれた。)は、紫禁城の北にある王府(皇族用の住まい)で暮らした。それぞれの王府には150-200人ほどの使用人がいた。

 皇帝の子として生まれた男の子は、出産直後に生母から離されて乳母に渡され、子供一人について、保母8人、乳母8人、その他雑役(食事、行水、オムツ係など)40人によって育てられ、離乳すると保母や乳母の代わりに、何人かの宦官が養育係として世話をした。乳母も人間であるので母乳が出るのは出産直後に限られており、事前に「身元のはっきりした出産直後の女性を複数」確保しておいた。

 やがて6歳になると皇子は定められた衣冠を身に着けて宮廷の行事に参加しなければならなかった。生母に会うのは年数回のみと定められており、12歳で満州語の勉強を開始し、14歳で弓や馬術の練習を開始し、14-16歳で結婚していた。

 子供が代々15歳で結婚し、子供が生まれるとどうなるか。つまり順調に行くと、孫が出来るのが早くて30歳、ひ孫が出来るのが45歳、玄孫(やしゃご)が出来るのが60歳ということになり、実際、長生きした乾隆帝は玄孫(乾隆帝もいれると5代目)が いて、記念に「五福五代~(意味 5代後の子孫まで見られるのはとても幸せ)」という印鑑を作っている。おそらく玄孫の次(来孫(きしゃご))もいただろう。

 皇子が皇帝に選ばれると、皇子の妻は、自動的に皇后、皇帝の生母は皇太后(正確には前皇帝の妻が東の皇太后になるので、皇帝の生母は西の皇太后になる)に選ばれた。

 昔の中国では女の子は「子供の数に数えない」という風習であり、皇帝の女の子(これは公主 と呼んだ。公主は和風にいうと姫。公主の由来は三公(特定の大臣)が、主催して姫の結婚式を行ったから。)は年頃になると貴族と結婚させて、宮廷から出していた。一方、男の子は年頃になると、親王として紫禁城から出して周辺に住まわせていた。

 基本的には、清朝中期ごろには後宮には皇后、貴賓、宮女、召使を含めた数百人の女性達、皇帝の幼い子供達、千人近い宦官、そして唯一の男性である皇帝が死ぬまで暮らしていた。ただし、乾隆帝について祖父康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で生前に引退し上太皇となった例はある。皇帝が死ぬと、ある特定の場所に隠しておいた遺言書によって次の皇帝が指名される制度なので、例えば雍正帝(ようせいてい)は即位する46才まで紫禁城外で暮らしていた。

 清朝以前は、おつきの宦官や大臣、母親側の親族(息子、親戚が幼くして皇帝になると権力をふるえるから)にそそのかされて腹違いの息子同士が次期皇帝の座を狙っていがみ合う状況だったので、この反省から、清朝中期には、皇太子をたてず、皇帝が息子の性格、力量などを見ながら生前に次期皇帝を決めて文書にして、特定の場所に隠しておき、皇帝が死んだらその遺言状を開けて皇帝継承者を決定していた。この制度は、太子密建(たいしみっけん)とか秘密建儲(ひみつけんちょ)と呼ばれている。 しかし、清朝末期には西太后( 西太后(せいたいこう)はあだ名。正確には慈禧太后(じきたいこう))が次期皇帝を事実上決定していた。

参考文献>「西太后 大清帝国最後の光芒 中公新書 中央公論新社」、「雍正帝―中国の独裁君主 中公文庫」、「図録【紫禁城歴代皇室の秘宝北京故宮博物院展~日中平和友好条約締結10周年記念~】昭和63年/西武美術館」

「北京の紫禁城」 今日中国出版社には、秘密建儲の実際の文書が写真で掲載されている。


4. 皇帝の奥様達と選び方

 清朝の制度においては、皇帝の后(きさき)については、皇后の次に、皇貴妃、貴妃、妃、賓(ひん、正確には女編に賓という漢字)、貴人、答応(とうおう)、常在(じょうざい)というクラス分けがあった。よって、有名な楊貴妃は(楊)貴妃であり、第三クラスの婦人であることが分かる。また、「珍妃の井戸」で有名な珍妃(ちんひ)も第四クラスの婦人ということが分かる。

 康熙帝の頃から定員制となり、皇后は一名、皇貴妃は一名、貴妃二名、妃四名、賓(ひん)六名、貴人、答応、常在には定員はなかったとされ 、皇后が後宮の内治をはかり、皇貴妃~賓まで13人が内治を補佐するとされていたが、実際にはこの定員は目安で制限を受ける訳ではなかった。実際、康熙帝では后、妃、賓を含めると25人、貴人、常在、答応を含めると54人の奥さんがいた。清朝全盛期の乾隆帝には総勢約40人の奥様がいたとされる。清朝の平均としては皇帝一人当たり約24人の奥さんがいた。 しかし、清朝後期になると、奥さんの数は減り光緒帝は皇后、妃2人の計3人。ラストエンペラー溥儀(宣統帝)は最初に皇后と貴妃で2人で、後に貴妃は離婚した。これは清朝末期に西欧風の考え方が伝わり、貴妃(名前は文繍(ウェンシュウ、ぶんしゅう) )が第二夫人の位置づけに疑問を持ったためとされている。

皇帝、皇后、后妃クラスの奥さま達は別々の建物に住んでいた(清朝後期の同治帝や光緒帝の時期は、皇帝と同じ養心殿の別の部屋に住んでいた。また同治帝が幼い時は、西太后や東太后も、養心殿に住んでいた時期がある)が、貴人以下のクラスの奥さま達は后妃とともに起居していた。

 彼女達は、階級ごとに、お付の宮女や宦官の人数、毎年支給される手当の金額、儀式時の座席の順番、儀式時の洋服のデザイン、色などが決まっていた。(洋服のデザイン、色は、儀式以外では特に決まりはなかった。)また、皇帝の寵愛を受けたり、皇太子を生むと、「妃」から「貴妃」に昇進することもあり、降格することもあった。これらの后のうち、皇后が一番ランクが高いものの、皇后は皇帝と同じ場所で飲食、寝起きする訳ではなく、皇后専用の建物で別々に暮らした。貴賓達は、給料によってその他の貴賓達に贈り物をしたり、お付の宦官に買い物に行かせたり、実家に送金したりしていた。

 皇太后が存命である時は、親、先祖を大切にする儒教の影響から、皇帝、皇后は毎朝、(生みの親でなくても)皇太后の宮殿に出かけてご機嫌をうかがい、皇后が挨拶を済んだのを確認してから、貴賓達が皇太后に挨拶に行っていた。

 当時は、女子は教育は不要という考えから、大半の后は読み書きが出来ず、後宮に入ると、刺繍をしたり宮女を相手におしゃべりをしたり、御用学者から歴史、書画をならったりしてヒマをつぶす生活をしていたが、騎馬民族である満州族の伝統にしたがって女性も乗馬、武術訓練をしていた。しかし、西太后は父親が中堅官僚であったため当時の婦女としては珍しく公文書の読み書きが出来た。しかし、読み書き出来るといっても終生、誤字脱字が目立つレベルであり、西太后が臣下に手書きの書を下賜することもあったが、実際は、ほとんど代筆であった。

また、当時は紫禁城内でパグやチンといった小型犬を飼うことも流行し、犬を世話する部門もあって、数百頭が飼育されていた。

 基本的に后妃に離婚という概念はなく、皇帝が死ぬと、紫禁城の後宮東西12宮から慈寧宮(じねいきゅう)に移り、死ぬまで香を炊いて仏像を拝む生活を送った。后妃が死去すると皇帝の陵墓に階級に応じて宝飾品とともに葬られた。上述のように、皇帝が若くして死んだり、若くして年寄皇帝の夫人になった場合、その後の人生を紫禁城内で暮らすことになったので、歴代の婦人の中には、将来を悲観して紫禁城外側の池に身を投げた人もいるらしい。皇帝が代わると、前皇帝の皇后、妃達はすべて「東朝(とうちょう)」と呼ばれ、皇帝と東朝は同居しないというのが儒教の礼節の一つであり、「東朝」はすべて東朝宮、紫禁城でいうと慈寧宮(じねいきゅう)に引っ越した。

 清朝以前では、宮女として後宮に入っても、功績のあった家臣に褒美として下賜されることもあったが、清朝期では、後宮に入った後は、基本的に二度と庶民の世界に戻る事は許されず、親族の体調が悪い時などは、親族が1ヶ月程度、後宮の中で過ごすことが認められた程度であった。

 よって、清朝貴族の間では、後宮に娘を取られないように、意図的に娘の出生の事実を隠したりする例が結構あった。

 皇帝が死去した場合、皇后は皇太后(こうたいこう)という名前で呼ばれた。有名な西太后(せいたいこう)は、最終的には咸豊帝(かんぽうてい)の第二婦人となって、後宮の西の建物に住んでいたから西太后と呼ばれ、皇后(第一婦人)は東の建物に住んでいたので東太后(とうたいこう)と呼ばれた。

 ただ、歴史的には皇帝と離婚した后もおり、それはラストエンペラー愛新覚羅・溥儀( アイシンギョロ・プーイー、あいしんかくら・ふぎ)の第二夫人(といっても序列的には皇后、貴妃、妃の順番でいうと淑妃であり、上から三番目)であった文繍(ウェンシュウ、ぶんしゅう)である。文繍は 裁判を起こして再婚をしないとの約束で離婚後、平民となり小学校の教師となった後、別の男性と結婚し、貧困のうちに亡くなった。 ちなみに、溥儀の正室は婉容(ウェンロン、えんよう)という名前。


< 選び方 >

 晋(しん)の武帝時代には、1万人の宮女が住む広大な後宮を羊に引かせた車によって巡回し、羊が足を止めた部屋で一夜を過ごしたとされる。よって、宮女達は、自分の部屋の前に羊の好物である塩を盛った。(これが、現在、日本料理屋の盛り塩の起源とされる。)

 明(みん)時代には女子の品徳や家柄などは関係なく、容姿によって后妃を選び(明末期は宮女9000人、お世話する宦官は10万人)、皇子を産ませたので、皇帝の当たり外れが大きかった。よって、清時代は、明時代の反省に基づき、女子の品徳と家柄が重視され、建前上は容姿によって選ぶことはなかった。后選定システムは「選秀女」と呼ばれ、旗人(きじん)と呼ばれる、日本でいう旗本、大名家の娘は義務として必ず「選秀女」に参加しなければならなかった。

 「選秀女」は3年に一度行なわれ、11~20歳の娘達、平均すると14-16歳の娘達が参加させられた。基本的には皇帝が自分で選ぶが、皇帝が幼い場合は皇太后が自分の都合(皇太后の一族であるとかの理由)によって選んでいたとされ、美人が后になるとは決まっていなかった。また、皇帝が長い間君臨した場合、皇子時代に結婚した奥様が皇后になるパターンが多かった。

 上記の「子供の数」とも関係するが、「どの奥様に子供が何人生まれるか」というのは、「皇后だから子供が一番多い」という訳ではなく、奥様の容姿や性格によって著しい偏りがあったとされる。 清時代は、漢族、満州族、モンゴル族など八旗と呼ばれる8部族の中において貴族がいて、旗人(貴族)同士の間では婚姻、土地の売買がゆるされていたが、その他の部族における庶民(例えば漢族の貴族と庶民)との結婚は許されなかった。

参考文献>「西太后 大清帝国最後の光芒」 中公新書 中央公論新社、「食在宮廷、学生社」


5. 清朝皇帝の一日

朝>皇帝が紫禁城にいる間は、毎朝午前4時頃に起床しなければならなかった。皇帝が幼少で、政治を担当していない時はもう少し遅く起きる事ができた。朝四時になると担当の宦官が寝室に行って、大声で「もう講駕(せいが)の時間になりました。」と叫び起こしていた。

 皇帝が起きると、宦官が付き添ってまずはお風呂(沐浴)に入った。その後、軽い朝食(おやつに近い)を食べてから、宦官がかつぐ輿(御輿、みこし)に乗って大臣達との「早朝の謁見」にのぞんだ。ちなみに、「朝廷」という言葉は、朝一番に会議を開いていた事に由来する。

 早朝の謁見が終わると、寝室に戻って一眠りした後、仏陀を拝んだり、先祖の功績を記した本と教戒の言葉を載せた本を各一冊読んだ後、7~8時ごろに朝食(料理100皿~)をとった。それが済むと、服を着替えて乾清宮に出御し、大臣、官僚と打ち合わせたり、地方から届けられた上奏文に目を通し、軍機処(政府)に指示を与えていた。また、午後1時頃には寝室に戻って少量の点心などを食べていた。

こうした日課が終わるのは午後3時ごろで、その後は自分の好きな所で夕食をとった。

昼>3時ごろ夕食をとった後は、清朝のしきたりに従って、1時間ほど昼寝をした。その後は、学者を呼んで話を聞いたり、皇太后、皇后、妃賓たちとおしゃべりしたり、宮内で劇を見たり、読書したり、詩文を作ったり、写経したり、宝物を愛でたりしていた。しかし、その他は「清朝のしきたり」によって許されてはいなかった。

夜>夕方5時以降は、晩の軽食や酒膳をとり、その後、お経を読んだりして、しばらく休んでから就寝していた。皇帝が未成年の場合は、皇帝がある程度お酒を飲んだところで、宦官がそれ以上飲むのを止めていた。皇帝は、皇后や貴妃達と一緒に食事することは許されておらず、皇太后とは一緒に食事することも出来た。

 「清朝のしきたり」によると、皇帝が皇后、貴賓のいる宮殿に行くと皇后又は貴賓は、かならず宮殿の前に並び、ひざまづいて出迎えなければならなかった。また、皇帝が宮殿に入ると(おつきの宦官がいつも持ち歩いている)王座に座り、皇后あるいは貴賓の挨拶(和風にいうと土下座を9回するということ)を受けねばならなかった。よって、こういうのは面倒なので、実際には皇帝が后妃の宮殿に行くことは少なく、后妃を夜に寝床に呼びたい時は、夕食時に 専門の宦官が、それぞれの妃の名前のついた札を持ってくるので、皇帝が「夕食を○○妃に賜る」という札をかざして指名していた。 実際には、妃を呼ばない日もあった。

  呼ばれた妃は、生理中でないことを確認した後、宦官、女官達によってタライの香油のお風呂に入れられ、体を清潔にした後、裸のまま羽毛の布にくるまれて、宦官達によって抱えられて皇帝の元に行った。これは、明時代に宮女達による皇帝暗殺未遂事件が起こったために、事前に危険物を持っていないかチェックするためである。呼ばれた妃達は、一晩中、皇帝に付き添っていることは許されず、ある程度の規定の時間が経ったら、宦官が声をかけて、その妃は宦官に背負われて退室し別の部屋で寝ていた。 妃の管理が出来ていないと「本当に皇帝の子か?」という確認がとれなくなるので、専門の宦官が、「何月何日皇帝は誰と寝た」を記録に残していた。皇帝が寝ている時は当然、お付の宦官、召使が交代で一晩中、警護に当たっていて朝4時になると皇帝を起こしていた。

 ちなみに、西太后の晩年は、寝室の外に宦官が6人一晩中見張っており、寝室内には宦官が2人、召使いが2人、老女中が2人、時にはさらに女中が2人夜通しで眠らずに西太后の睡眠を見守っていて、朝5時に西太后を起こしていた。

 これら皇帝の言行、行動、食事などについては、「起居注」係の宦官が生活をすべて記録し、文書で保存していた。紫禁城内にある故宮博物院の中国第一歴史档案館(れきしとうあんかん)には、明清両朝500年の皇帝の公式記録および宮廷の生活記録が1000万冊保存されているという。

 紫禁城には、歴代の宝物が収められていたが、明朝期の戦乱によって多くの宝物は散逸していた。清朝になると、特に乾隆帝が中国各地の名品を購入し、また、各地の有力者が名品を献上することが多かったので、数百万の宝物が所蔵されていたが、これらは、時代の経過とともに宦官などが持ち出して私腹を肥やすなどして減少し、それでもラストエンペラー溥儀が退位した時点でも80万点は残っていたとされる。

 以上のように、清朝においては「しきたり」によって毎日の生活が決められていたので、清朝中期以降の皇帝達は紫禁城で生活することを嫌がり、康熙帝は熱河の離宮、乾隆帝は円明園、西太后は頤和園(いわえん)で一年の大部分を過ごしていた。紫禁城以外では「しきたり」は大幅に緩和され、大臣との謁見以外はある程度自由になっていた。しかし、紫禁城以外の生活が長くなると、秦上文で大臣から諌められていた。

その他>宮廷内宮では一日中、香が焚かれていた。これは、おつきの宮女、宦官の着替える頻度、風呂に入る回数の少なさ、宦官の生理的現象(ペニスを切除したことによる、日常的な尿漏れに由来するニオイ)等に由来するニオイをごまかす意味が大きかった。


5.1 清朝皇帝 が寝起きした場所>養心殿、三希堂(書斎)

養心殿(ようしんでん)> 養心殿が建てられたのは明時代で、清朝時代になってはじめて、紫禁城に入った順治帝がここを書斎及び執務をとる場所と決めて生活をはじめ、康熙帝、雍正帝、乾隆帝、同治帝も、ここで暮らして、ここで逝去した。実際に皇帝が寝起きしていたのは、養心殿の奥の西側(北西)の居住区画 で広さにして4畳半ぐらいの場所であった。 当時の清王朝(18世紀の中国)は、全世界の総生産額の20%を占める経済大国であって、皇帝は望めば何でも手に入れられる状況であったが、実際に暮らすとなると養心殿でも大きすぎるぐらいに感じていた。西太后で有名な「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」を行ったのは、東暖閣にある玉座の間。清朝最後の皇帝 溥儀が皇帝を退位するのを決定した文書に署名した場所も、ここ 東暖閣で、実際には溥儀は当時6才なので、先帝(光緒帝)の皇后である隆裕皇太后が、溥儀の退位を決断し、ここで署名をした。西暖閣の一角には、乾隆帝の書斎として有名な「三希堂」がある。 ちなみに皇帝の食事を準備した台所、「御膳房」は養心殿の南側に位置している。

三希堂> 三希堂は、もともとは皇帝の小書斎(広さにして2,3畳ほど。)であったが、詩文や書画に精通していた乾隆帝が36才の時、晋時代の書家「王義之」の書「快雪時晴帖」、王献之の書「中秋帖」、王ジュンの書「伯遠帖」の3つを得たことを喜んで「みな稀世の珍(どれも、この世にまれな宝)」として「三希堂」と名付けた。実際には、3つの宝物を集めて三希堂に収めたということの他に、乾隆帝自身が「賢者であること(希賢)、聖人であること(希聖)、天人であること(希天)」を望むという意味も込めていて、死ぬまでの53年 間にわたって冬になると、この小部屋で「三希」を拡げて鑑賞し、詩作にふけっていた。 乾隆帝は、王義之といった歴代の名筆を数多く臨書(真似書き)し、「快雪時晴帖」は100回ぐらい臨書したと記述している。

参考文献>「紫禁城の女性達 中国宮廷文化展 西日本新聞社(1999)」、「素顔の西太后、東方書店(1987)」、「食在宮廷、学生社」「最後の宦官秘聞、NHK出版」 、「図録 北京故宮博物院 清朝宮廷文化展」


6. 皇帝の寿命(生きた年数)


順治帝(じゅんちてい)24歳、康熙帝(こうきてい)69歳、雍正帝(ようせいてい)58歳、乾隆帝(けんりゅうてい)89歳、嘉慶帝(かけいてい)61歳

道光帝(どうこうてい)69歳、咸豊帝(かんぽうてい)31歳、同治帝(どうちてい)19歳、光緒帝(こうちょてい、こうしょてい)38歳

宣統帝(せんとうてい) ラストエンペラー溥儀 61歳

 皇帝といえども、当時(100-300年前)は医学が発展していなかったため、乾隆帝の89歳は例外として60歳前で死亡する例が多かった。特に女性達は妊娠や出産が命がけであったことや、当時は医者が男性であったため、「診察において貴婦人に触らせない」という習慣であったことから、50歳前後で亡くなることが多かった。当時の皇帝たちは、毒殺を非常に恐れており、実際の診察では、まず複数の医者に診てもらい、その中から病気を皇帝が選び、薬を飲む際は皇帝の目の前で医者とおつきの宦官に薬を飲ませて何も起きないことを確認してから、薬を飲んでいた。 医者は皇帝の病気を治せなければ処罰されていた。


参考文献>「西太后 大清帝国最後の光芒 中公新書 中央公論新社」、「乾隆帝 その政治の図像学 文藝春秋」、「素顔の西太后、東方書店(1987)」


7. 清朝のしきたり

○皇帝から言葉(命令)を受けた時、及び皇帝の言葉が伝えられた時はひざまずく。ただし、皇帝付の女官、宦官、召使は、いちいち、ひざまずいていたら時間がなくなるので免除。

○皇帝の前では、だれも座ってはいけない。例え外国大使でも常に立つこと。

○皇帝は宴会時は除き、基本的には一人で食事する。

○皇帝の食事(食べ残し)を賜る時は、皇帝の前では、皇后といえども座って食べることはできない。(皇后達の自分の宮殿で食べる時は別)

○皇帝は天帝の代理なので、その言葉は法律と同じ。陛下に口を聞く時は決して目を合わさず伏し目で話す。

○陛下から品物をもらった時、間接的にもらっても叩頭(土下座で頭をすりつけること)する。

○皇太后、皇后以外の貴賓(きひん、賓は正確には女編に賓という漢字)は宮中では何の地位もないので、女官達は第二婦人以下には挨拶してはならない。

○宮廷では毎月2、3日劇を上演するが、皇帝又は皇太后の許しが無い限りは貴賓達は観劇が許されない。

○皇帝から問われない限り、宦官は皇帝と話すことは許されない。ただし、皇帝から求められたら1分以内に的確に答える、お茶を出す、用意すること。当時、宦官は賄賂、お駄賃などでお金は持っていたが、人間以下の存在(いまでいうペットと同じ、しゃべる動物)として扱われていた。

○宦官は北京から40里以上は出てはいけない。宦官が逃げ出したら必ず捜索隊を出して連れ戻して処罰する。

○宦官は宮女と話してはいけない。話す所が見つかると打ち首の可能性あり。

○おつきの宦官、宮女以外は貴賓達と顔を合わせることは出来ない。道で貴賓達と遭遇したら後ろを向いて通り過ぎるのを待つ。

○皇帝と皇后は自分用の特別の椅子にしか座ってはいけない。(おつきの宦官、召使がいつでもどこでも椅子を持ち歩いていた。)

○皇帝が歩きたいと言えばお付も歩き、輿(こし 、みこし)に乗るといえば、女官も女官用の輿に乗る。

○皇帝に向かって話す時には、「私は~」ではなく、「陛下のしもべは~」という。

○死刑を宣告された者の死刑執行命令には皇帝自らが署名し、毎年行なわれる行事にて、天界に「今年は○○を処刑し天に送り返しました」と報告する。

○宮中での遊びにおいて絶対に皇帝に勝たない。皇帝に分からないようにうまく負けること。うまく負けると金品などの褒美がもらえた。

○二品以上の位の清朝官史の娘は14歳以上になったら必ず宮廷の宮女オーディションに参加させる。

○牛は農業に必要な動物なので、牛肉は食べてはいけない。

○清朝では女は男と一緒の時の服装では手首さえ見せない。

○皇太后(皇帝の母親格)が生きている限り、皇太后は皇帝よりも偉い。

○庶民は皇帝の行進を見てはいけない。紫禁城外において、あらかじめ皇帝の行進ルートが分かっている時は、庶民を追い払い、黄色い砂を厚さ5センチメートルほど敷き詰めて、皇帝の道を用意しておく。皇帝は庶民とは基本的に話さない。

○天子(天帝の子供、子孫という意味)=皇帝は、この世で一人の存在であるとの前提であるので、皇帝が即位すると、兄弟はすべて臣下。皇位を狙う兄弟には「辺境の地に島流しにするか、死を賜る (神の使いなので、あの世に連れ戻すという意味)」こともあった。


参考文献>「素顔の西太后、東方書店(1987)」)」、「西太后 汽車に乗る、東方書店(1997)」


8. 皇帝の末路


 古代中国では、昔から農民、将軍、盗賊達によって手っ取り早い金持ちへの道として盗掘がおこなわれていた。また、朝(例えば明朝から清朝)が変われば、先朝は「天命の正当性」を失ったとして、組織的に墓を暴いて、宝物を没収することも行なわれてきた。よって、生前は「天帝の代理、天子」として厚遇を受けた皇帝たちも、多数の宝物とともに埋葬されていれば盗掘を防ぐことは困難であった。

 例えば、乾隆帝、西太后の墓は1923年に国民政府の軍閥によって暴かれ、死後130年を経た乾隆帝の口から大きな真珠が取り出された上、副葬品の多量の宝物は略奪され、遺体の頭と胴体は切り離され、頭は泥水の中に放置された。一方、西太后の遺体は数万個の真珠や宝石を縫い付けた礼服を剥ぎ取り、裸にされて放置され、大量の副葬品は持ち去られ、その後、海外に流出したとされる。

 その他、光緒帝は側近にそそのかされて西太后へのクーデーターを画策したが、計画がばれて、満州族の掟(家長(この場合は西太后)のいいつけに反する)に従い、死ぬまで20年近く軟禁され、西太后の死の前日に毒殺されたとされ 、最近の調査によって毒殺されたことはほぼ事実のようである。ちなみに、晩年の西太后は、「老仏爺(ラオフイエ)」と呼ばせるなど、自分が仏であると自称しており、光緒帝 の死期が近い事を悟り、かつ自分(西太后)の死期が近いことを知って一緒にあの世に連れて行ってやろうとしたいう説もある。 事実、西太后は光緒帝の翌日に死亡している。

 ラストエンペラーとして知られる宣統帝(溥儀)は、民間人になった後、ガンに侵されたが、文化大革命時に「長年民衆を苦しめた元皇帝」という理由で積極的に治療が施されなかったことが死期を早めたとされる。また、溥儀の第一夫人 婉容(えんよう)は、アヘン中毒の禁断症状と栄養失調のため、1946年に延辺で孤独の内に死亡したといわれる。

参考文献>「紫禁城史話 中国皇帝政治の檜舞台 中央公論新社」、「裏中国史 墓どろぼうは金持ちへの道 講談社」


9. 皇帝、宮廷の服装 (ドラゴンローブ、朝袍(チャンパオ)、龍袍(りゅうほう、ロンパオ))

 清代中期以降(康熙帝(こうきてい)あたりから)の皇族の服装は、乾隆帝の時代に完成した『大清会典』(だいしんかいてん)という法律によって、皇族も臣下も、役人として着用する服装は厳しく規定されていた。宮廷で着用する皇帝用の礼服は「朝袍(ちょうぽう) 」と呼ばれ、明黄色(レモン色)の朝袍は皇帝、皇太后、皇后および皇貴妃のみが着用を許され、その他の后達も必ず自分の等級にあった服装をしなければならなかった。特に、皇帝の朝袍には5本の爪を持つ龍やコウモリなどの吉祥文様が刺繍され、龍の服「龍袍(ろんぱお)」とも言われた。

 清時代は男は清朝様式の服装(満州族の格好)に従い、女は必ずしも従わなくてもいいという決まりだった。よって、女用の服には満州族の服 (チーパオ、現在のチャイナドレスの先祖)に漢民族の服の特徴が入ったもの や、漢族の女性は伝統的な漢族の服(上下が分離したもの)を着ていた。これは昔から男は外で働き、女は家の仕事をして、一日中家に軟禁状態だったという状況&女性は政治的に影響を及ぼさないとの考えからであった。当時は、厳格な身分制度があり、服装で区別するために、庶民は服の素材(木綿 か麻)も色(基本は生成り)も、模様(基本無地)も制限されていた。

 清朝成立初期には、満州族特有の髪型である辮髪(べんぱつ)を嫌う漢人(儒教では親からもらった髪やヒゲは、なるべく切らないのが伝統)が続出したが、辮髪をしていない男の首を先頭にぶら下げて行進する部隊が現れたり、辮髪した役人が朝廷の高位につけられたので、その後は皆、辮髪をするようになったという。 辮髪は清朝初期は、頭頂部の一部に髪を残すだけ(キン肉マンのラーメンマンを参照)だったが、清朝後期になると、おでこ部分だけを剃るタイプになっていった。清朝後期になると辮髪が中国の伝統的髪型になり、中華民国時代になっても辮髪にこだわる人々が結構いた。


代表的なものを簡単にいうと、


皇帝、皇后の最上礼服> 朝服、朝袍(チャンパオ)(朝廷の服)

皇帝用>朝服は、朝会や祭祀などの重要な典礼の際に着る服。明るい黄色(鶏卵の黄身色)で、ふともものあたりに9匹の龍が刺繍されているもの。赤い朝服は春分の日の儀式用。青い朝服は冬至の日の儀式用。水色の朝服は秋分の日の儀式用。冬服は、縁取りに毛皮(ボア)がついていることが多く、夏服は全体的に粗い生地(ガーゼ生地)で作製、春秋用はシルクで作製されて おり、日本でいう西陣織(南京 雲錦(うんきん)織物)で作製されたものもある。皇帝用だけは必ず胸の金龍の左右に「権力の象徴である斧と弓」が刺繍されている。

皇后用>皇后の朝服は、明るい黄色(鶏卵の黄身色)で首から腋にかけて黒いラインが入っているのが特徴。見た目は、皇帝の吉服と同じで、ヒザのあたりから虹色になっている。清朝後期 、西太后の時代は、西太后が実質の皇帝であったために、皇太后の朝服にも、皇帝のシンボルである弓と斧を刺繍させていた。また、皇后の公式の文様は五尾鳳凰で紫色。皇妃はその地位より鳳凰の尾の数を減らしていく。

 著作権の関係で、画像は載せられないので、朝服を見てみたい人はグーグルの画像検索で「dragon robe」を入力すると見ることが出来る。また、グーグル検索で「乾隆帝」を画像検索しても見る事ができる。ちなみに、清朝中期以降の皇帝の肖像画は、イタリア人画家が顔だけ現代風にそっくりに描き、それ以外は宮廷画家が中国の伝統技法によって描いたので違和感がある。婦人については、本人に似せる必要はなかったので、 「朝廷の母親、妃」として理想化して皆同じような顔に描いている。実際には、これらの絵は、全長3mぐらいの大きさがあり、服の模様も精密に描かれている。

 皇帝が祭事に着る服には、十二章という、君子の備えるべき美徳を象徴した十二の文様が表された。その一つが龍の文様で、龍が変化することから、君子も時勢に応じて柔軟な政治をするという意味。十二章は神話時代「舜帝」が定めたとされる。以下は引用(京都国立博物館のHPから。貴重な文章の掲載が突然終わっても困らないように)


引用>--------------------------------


-中国の吉祥文様- 龍袍 (りゅうほう、ロンパオ)

 日本のキモノにもいろいろな吉祥文様(きっしょうもんよう)がみられますが、お隣の中国でもさまざまな文様に吉祥の意を託し、人びとの幸福や長寿を祈りました。清代(しんだい)(1616~1912)に皇帝やその臣下が着た龍袍(りゅうほう)には、たくさんの吉祥文様があらわされています。

 宮廷という公の場で着る龍袍は、着る人の身分によって色が異なります。階級がはっきりと分けられた社会では、着ている人の位が一目でわかるように色分けされました。皇は明黄(めいこう)(黄色)、皇太子(こうたいし)は杏黄(きょうこう)(琥珀(こはく)色)、皇子(こうし)は金黄(きんこう)(オレンジ色)、それ以外の人びとは青色を着ました。女性の場合も、皇后(こうごう)は明黄、次の位の第2夫人は金黄などと区別されたのです。

 龍袍の文様は、その名のとおり龍が中心です。龍は言うまでもなく想像上の動物ですが、万能の神のごとく神格化され、めでたい兆しとなる最高の動物として人びとに敬愛されました。そして、その威厳に満ちた姿は世界を治める天子、すなわち皇帝のシンボルとして衣服を飾ったのです。龍袍には5本の爪と2本の角をもつ金色(こんじき)の龍が9匹います(襟や袖口の黒地にいる龍は数えません)。胸と背と両肩には正面を向いた4匹の龍、腰の前後には2匹の龍が向かい合っています。これで8匹です。もう1匹は、服の前を合わせた時、下になる部分に隠れています。ただし、身分の低い人は9匹目の龍をつけることができず、龍の爪も四本でした。

 天を駆ける龍のまわりは、雲でいっぱいです。この雲は形がきのこの一種である霊芝(れいし)に似ていることから霊芝雲と呼ばれ、不老を象徴する瑞雲(ずいうん)です。雲の間には卍(まんじ)や桃をくわえた蝙蝠(こうもり)が飛んでいます。この蝙蝠にも吉祥の意味があります。中国では富貴長命(ふきちょうめい)といった形にできないめでたい言葉を、漢字の音を借りて、形のあるものにあらわすことがありました。

 蝙蝠(こうもり)は、「蝠」が「福」と同じ発音であることから、幸福のシンボルとなるのです。「卍」は「万」と同じ発音ですから、蝙蝠が卍をくわえると「万福」です。(注>こうもりが下を向いている(到=至=来ると同じ発音)のは、福がこっちに来るという意味) 桃は「寿」のシンボル(注>伝説の仙人(仙女 西王母の長寿のシンボルが桃。) )であり、桃をくわえた蝙蝠は「寿福」を意味します。黄色い龍袍を見てください。雲間を飛ぶ蝙蝠はどれも紅色(べにいろ)(ピンク色)です。どうして蝙蝠が紅色かというと、「紅」は「洪」に通じますから、「洪福至天(幸福が天にあふれる)」となるのです。その他にも篆書体(てんしょたい)の「寿」など見慣れない文様が散らされていますが、いずれも吉祥の意味をもつ文様です。

 龍袍の裾には大海原があらわされ、波の間から四方に山岳が突き山ています。この海と山との組み合わせは「海水江牙」と呼ばれ、山河すなわち国家を統一するという意味があります。また、海は宝蔵(ほうぞう)の源であり、それを示すように吉祥の意味をもつ「八宝(はっぽう)」が波間に漂っています。八宝、すなわち8つの宝物は、仏教や道教などによっていくつかの組み合わせがありますが、龍袍の波間に漂う八宝は仏教の伝説にもとづく宝物が多くみられます。


八宝>

[1] 妙なる音を出し気運を開く法螺(ほら)

[2] 円転してやまない法輪(ほうりん)=輪廻転生

[3] 人びとを保護する宝傘(ほうさん)

[4] 人びとを病気や貧困から救う天蓋(てんがい)

[5] 汚泥に染まらず清らかな花を咲かせる蓮華(れんげ)

[6] 福智円満な宝瓶(ほうびょう)

[7] 堅固活発で邪悪を退ける金魚(きんぎょ)=中国語で魚は利と同じ発音でお金が儲かるという意味もある。

[8] メビウスの帯のように終りがなく長寿を意味する盤長(ばんちょう)

一度、龍袍全体を見てください。袍の大海には岩山がそそり立ち、海から生まれたかのように波間に八宝が浮かび、天は龍をはじめ、吉祥を寿ぐ文様で満ち溢れています。華麗な色彩と寓意に満ちた龍袍は、中国的な精神世界を表しているのです。


<引用終わり>---------------


皇帝、皇后の礼服>吉服

 皇帝や官僚などが慶祝行事などの宴席で着用する服。ひざから下が「虹のうねったようなデザイン」になっているのが特徴。皇帝、皇后の吉服は明るい黄色でデザインは似ているが、皇帝の服には権力の象徴である弓や斧が刺繍されているのが皇帝用か皇后用かを見分けるポイント。女性用には、吉とか喜喜という漢字や鶴、蝶々、こうもりなどの刺繍が入っていることが多い。貴妃の吉服はオレンジ色など。光緒帝時代ぐらいになると腕の部分が黒くなる。


皇族、大臣、高級宦官の礼服

 一見すると皇帝の吉服に似ているが、斧や弓を刺繍しない分だけ、胸の金竜が大きく刺繍されている。また、全体に金糸一色であったり、刺繍糸の色数が少ないのも特徴。服の色は赤、青、茶色などあり、 龍の爪の数は清朝初期には厳密に守られていたが、清朝中期以降は規律が緩くなり、家臣は5本爪の龍を蟒(まん、うわばみ:爪を持つ龍に似た大蛇)と言い張って蟒袍(まんぱお)として着ていた。実際には、公式の席では、この礼服の上に、皇族は丸い金龍紋、文官、武官はそれぞれの品位を示す四角い刺繍(補子、ゼッケン)をつけた上着を着ていた。皇族は、「龍袍(ろんぱお)」のヒザの部分の虹模様が波打っているのにたいして、臣下は直線状で表現されているのも違いの一つ。


一般役人、儀礼用の礼服(官服)

 清朝後期、西太后ぐらいの時代になると織物製の官服が盛んに作られるようになり、 下級役人、儀礼用は官服も、織物で作られるようになった。青地に織物で金の5爪の龍文様が織り込まれているのは、下級役人用、儀礼用であり、江戸時代にアイヌ人と中国北方民族間の貿易(山丹交易(さんたんこうえき))で清朝からアイヌ人に下賜されて日本に入ってきた官服は日本では蝦夷錦(えぞにしき)・山丹服(さんたんふく)と呼ばれていた。

 おおまかにいうと、刺繍製ロンパオは製作に手間がかかるので皇族用、織物製ロンパオは下級役人用という感じであろうか。


朝服、吉服の色に関する決まり>

明黄色(鶏卵の黄身色)>皇帝、皇后、上太皇(生きながら退位した皇帝=実際には乾隆帝しかいなかったが。)、皇太后、皇貴妃

琥珀色>皇太子(=ちなみに、皇帝生存中に皇太子(=次期皇帝)を決定すると、他の皇子達の士気に関わるので、清朝中期以降は、生前に皇太子は 決定しなかった。)

オレンジ色>貴妃、皇子

青色>大臣、役人、宮中の上級宦官の龍袍(ろんぱお)は胸の龍模様が大きいのが特徴

 よく、「五爪の龍は、皇帝のみ、四爪の龍は大臣、三爪の龍は、大臣よりも格下がつけた」といわれるが、それは明王朝の話で、清朝後期になると、臣下が五爪の龍袍(ろんぱお)でも、龍ではなく蟒(まん、大蛇)と言い張って蟒袍(まんぱお)を着ていた。ただし、皇帝の色である明黄色(レモン色)が禁止なのは従来通り。


皇帝、皇后、貴賓の日常着>常服、便服


 皇帝、皇后は、儀式の時だけ、礼服に着替え、それ以外は便服とよばれる服を着ていることが多かった。謁見がある時は、一日に何度も着替えていた。一般に皇帝の常服、便服は下地と同じ系統の色(例)黒地に黒で皇族の証の双龍紋が精密に刺繍)で刺繍されている場合が多く、裏地は皇族専用のロイヤルブルー(明るい水色)が多い。ピンク系統は女用。また女用の服の刺繍には、”紫禁城刺し(forbidden stitch, フォーバイデン・ステッチ、フォービデュン・スティッチ)”というパイル状刺繍(現代の高級タオル地と同じ)が施してあることが多 く、この刺繍は紫禁城のお姫様の服だけに許された刺繍方法。


男用か女用かの区別>「龍袍(ろんぱお)」、「蟒袍(まんぱお)」は、男用、女用があり、色、模様が似ており、区別しにくいが、基本的には、股部分 まで深い切れ込みがあるのが男用、切れ込みがほとんどないのが女用と思えば間違いない。また、鶴や寿、吉などが多く配置しているのは女用が多い。


皇族用の服の例>清王朝時代、後期(西太后中期)、皇帝の姪クラスか宮女(お手伝い)用の女性用の吉服


 皇族の着る服は、中国北京の紫禁城内の工房で作製され、刺繍するためだけに400人の職人、龍のゼッケンを金の糸で刺繍するためだけに50人の職人が雇われており、1着作るのに平均2.5年かかっていたといわれており、 全盛期の乾隆帝の服は5年かかって作ったといわれている。清朝後期までは絹糸の生産から染色、製糸まですべてを皇族用に用意していた。作り方としては、皇族の体型を測定してから、一枚の布の決められた場所に、龍専門、模様専門、花専門の人が縫っていく流れ作業だった。中国の元時代から南京で作製されていた皇族用の織物(雲錦織物)は、主に絹と金箔で作製され、龍文様などの凝った服は一日に5-6センチしか作れないので皇帝用の凝った服では作成するのに10年以上かかったという。清朝後期になると機械織機が導入されて、下級役人は機械織物製の官服を着ていた。


化粧、ファッション>未亡人は、口紅をしない習慣であり、実際、皇太后となった西太后の写真を見ると口紅はしていないのが分かる。一方、皇后以下の女性は素顔でいることは宮中の規則で許されなかったので常に身だしなみに気をつけていた。正装した際には、満州族の習慣にしたがって、下唇の真ん中にのみ、口紅をつけた。また、古代より中国ではほっそりとした指が美人とされていたので、爪を2cm程度伸ばすのが習慣となっており、伸ばした爪を保護するのに貴金属製の爪カバーをすることもあった。ちなみに、映画「スターウオーズ」に出てくるパドメ・アミダラ姫(ナタリー・ポートマン)の化粧、衣装は、清王朝時代の妃の衣装を参考にしている。


髪型>

 男>満州族の伝統的髪型である辮髪(べんぱつ)で、清朝初期は、後頭部の一部(10円玉ぐらいの面積)を残して髪を剃り、残した髪を伸ばして三つ編みにするスタイル。具体的には漫画「キン肉マン」に出てくるラーメンマンの髪型。清朝中期は髪の面積が多く、三つ編みも太くなっていき、清朝後期には頭の前半分を剃り上げて、残りを三つ編みにするスタイルに変化した。映画「ラストエンペラー」は清朝末期のお話なので、映画で、よくみる辮髪(べんぱつ)スタイルは清朝後期のスタイル。満州族が、前髪を剃るようになったのは、馬を使っての狩猟生活において、前髪が邪魔して弓の狙いが外れることを嫌ったからという。 清王朝成立初期は、漢民族は辮髪を嫌ったが、やがて辮髪にしたがわない人の首をぶら下げた辮髪の宣伝隊が、街中を回るようになって、すぐに辮髪スタイルは普及したという。これは「髪を落とすか、頭を落とすか」という言葉で表現された。

 女>伝統的な満州族の女性の髪形は、両把頭(りょうはとう)といい、頭の真ん中で髪を両方に分けるスタイル。清朝後期になると、巻いた髪の位置が高くなっていき、宮廷では大拉翅(だいろうし)といったミッキーマウスの耳のようなカツラを使用する スタイルに変化した。清朝では、男は満州族スタイルに従わせたが、女性は必ずしも満州族スタイルでなくてもよいとされていたので、髪形の規制もゆるかった。

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<法律で定められた清朝の服装規定>


以下の文は、NHKドラマ「蒼穹の昴」公式サイトから引用した。(一部加筆)

 清朝では『大清会典』(だいしんかいてん)という法律によって、皇族も臣下も、役人として着用する服装は厳しく規定されていた。衣服を見れば、相手がどのような人物で、家柄、役職、階級が一目で分かるようになっていた。

 宮廷で着用する礼服は「朝袍(ちょうぽう) 」と呼ばれていた。明黄色の朝袍は皇帝、皇太后、皇后および皇貴妃のみが着用を許された。皇帝の朝袍には5本の爪を持つ龍やコウモリなどの吉祥文様が刺繍され、龍の服「龍袍(ろんぱお)」とも言われた。

臣下は「蟒(うわばみ:爪を持つ龍に似た大蛇)」の刺繍をほどこした「蟒袍(まんぱお)」を着用した。

 また公式の席では、臣下は蟒袍の上に補服(正確には、補褂(ほかい):ブークァと発音、胸と背中に補子(ほし、ブーズーと発音)というゼッケンのような刺繍を付けた礼服)と呼ばれる外衣を着用しなければならなかった。皇族の補服には丸い龍紋の刺繍、文官補服には鳥類、武官補服には獣類を描いた四角い刺繍が縫い付けられていた。

 さらに皇帝も臣下も朝珠(ちょうじゅ)といわれる数珠を首から下げ、朝靴(宮廷に出仕するためのブーツ)を履き、帽子の上に宝石を付けた頂戴帽を被らなければならなかった。市井ではこのように厳格な服装規定を悪用する官服詐欺師もいたという。そのせいではないが、皇帝を頂点とする身分制度を守るため、官服を間違えて着用することは許されず、もし間違えた場合は厳しい処分が下された。


【大清会典で細かく決められた服装規定の一例】

   帽子につける宝石 文官補子の図柄 武官補子(ぶかん ほし)の図柄

一品官  ルビー      鶴          麒麟(キリン)

二品官  珊瑚       鶏          獅子(しし、ライオン)

三品官 サファイア     孔雀          豹(ひょう)

四品官 ラピスラズリ   雁(かり、ガン)     虎

五品官 水晶       雉(キジ)         熊

六品官 シャコ貝     オシドリ       彪(ひょう:小さな虎)

七品官 金        おおおしどり      犀牛

八品官 陰文金メッキ花   うずら        犀牛

九品官 陽文金メッキ花   れんじゃく       海馬

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下級宦官の仕事着>西太后時代の写真を見ると、宦官は、豪華刺繍入りのロンパオを着ているが、下級宦官は無地、生成り (クリーム色)の満州服で、自分の給料や先輩宦官に使える事で仕事着をまかなっていた。 映画「ラストエンペラー」では籠をかつぐ宦官は赤い礼服や黒い日常服(中華服)を着ているので、上級宦官は、TPOに合わせて着替えていたのかもしれない。


ネットで皇帝服、官服を購入する時の注意>

 中国服をネットで販売しているサイトでは、皇帝服のレプリカを間違って表記している場合が多い。例えば皇后用の朝服を皇帝用(皇后用は首から脇下にかけて黒い太いラインがある)と称していたり。貴妃の吉服が皇帝用(皇帝用は明るい黄色(卵の黄身色)で、オレンジ色はありえない)になっていたり。

 皇后の吉服が皇帝用の吉服(皇帝用は胸の辺りに権力を示す弓と斧がある)になっていたり。

 また、イーベイでは、本物とみまごうレプリカも販売されているが、胸のあたりの龍の腹にヘビの節が表現されているか、龍のウロコまで刺繍で表現されているか、権力の象徴である弓と斧が刺繍されているか、ボタンの紐(ひも)が服の縁取りと同じ柄か、皇帝専用の正面を向いた金龍の胴体の位置が向かって右側にあるか (少数ながら例外もある)、龍は金色の糸で刺繍されているか、龍の刺繍が細かく迫力があるか、 龍の背びれのトゲのパターン(長いとげ1つと短いとげ2つのパターンの繰り返し)ボタンは「透かし彫りの金色ボタン(重さからいうと金製か、金色の合金製)」か、裏地は宮廷の色であるロイヤルブルー(水色)か、などが本物のポイント。昔は、化学染料がなかったので、本物の服は、「シルク素材のテカリ+地味な発色」の組み合わせである。

 織物製は、だいたいは下級役人用の官服(ただし、光緒帝時代の后用には、精緻な織物もある)、刺繍されていたら、本物の皇族用か、最近作られたレプリカ。服の外形と模様のバランスが悪いのもレプリカと思ったほうがいい。また、昔の人間は全般的に 背が低く、服もオーダーメードで作られているので、服も男用なら背丈が160cm(60インチ)ぐらいまでの物が本物の可能性が高い。 当然、女性用は服の長さが130-140cmクラスが標準。

 印象では、イーベイで出品中、10品中2割が本物、8割がレプリカ。レプリカも70万円ぐらいで販売している場合があります。本物が欲しいならサザビーズやクリスティーズで入札するといいでしょうが、値段は100万円以上。 ただし、中国皇帝時代の服の規定は、中国国内でも知らない人がほとんどなので、米国の個人が本物を非常に安く出品している場合もたまにある。出品地が中国の場合は、ほとんどニセモノ、米国、イギリスの場合は、戦後に国外に流出した本物の場合が多い。

参考文献>「北京故宮博物院展 紫禁城の后妃と宮廷芸術」図録 セゾン美術館 1997年 


10. 皇帝関連の印鑑(国璽

 清二十五寶璽(しんにじゅうごほうじ)とは、乾隆帝が1746年に定めたもの。それまでには、三十九枚の宝璽が宮廷に存在していたが、そのうちの十四枚ほどは乾隆帝によって「義に照らして妥当ではない」とされたため、 瀋陽の倉庫に閉じ込められた。改めて定められた二十五枚の宝璽は、国務上実際に使われるという目的以外に、乾隆帝が「大清国が二十五代まで続いてほしい」との願いも込められていた。そして、乾隆帝以降は二十五宝璽は改められることなかった。前述文は、「『清二十五寶璽』故旧博物院」からほとんど全部引用

具体的な写真が見たい場合は、中国故宮博物院のサイトから「二十五寶璽」のキーワードで検索するといいでしょう。


清朝、乾隆帝中期に整理されて新しく作られた25の国璽(こくじ)、皇帝の行政用の印鑑の詳細>


清二十五寶璽(しん にじゅうご ほうじ、二十五方御寶)の印面と印の素材


1 大清受命之寶、(白玉製(白色) >明朝が滅び、清朝が天命を受けた証

2 皇帝奉天之寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) >皇帝が天命に従って統治するという証

3 大清嗣天子寶、(金製) >天の基準によって清朝が運営するという証

4、5 皇帝之寶 2個、(檀香木製と石製(満州文字のみの印面)) >詔書と赦免を公布する時に使用。

6 天子之寶、(青玉製(ものすごく薄い緑色)) >神を祭る文書に使用

7 皇帝尊親之寶、(白玉製(白色)) >皇帝の功徳をたたえるため称号を決める文書に使用する

8 皇帝親親之寶、(青玉製(ものすごく薄い緑色)) >皇帝が親族を昇進させる時に使用

9 皇帝行寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) >皇帝が物品を下賜する時に使用

10 皇帝信寶、(青玉製(ものすごく薄い緑色)) >皇帝が徴兵する時に使用

11 天子行寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) >皇帝が少数民族を王侯や大臣に封ずる時に使用

12 天子信寶、(黒玉製(薄墨色)) >少数民族地区や属国に出す詔書に使用

13 敬天勤民之寶、(白玉製)>謁見に来た官吏を戒める時に使用

14 制誥之寶、(青玉製) >5品以上の官員を戒する時に使用

15 敕命之寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) >6品以下の官員に勅諭を出す時に使用

16 垂訓之寶、(碧玉(へきぎょく)製(黒玉に近い灰色)) >国家の威力を宣伝する時に使用

17 命徳之寶、(黒玉製(薄墨色))>軍功を称える文書に使用

18 欽文之璽、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) >文化・教育を重視する文書に使用

19 表章經史之寶、(碧玉(へきぎょく)製(草色)) >古訓を崇める文書に使用

20 巡狩天下之寶、(青玉製、淡い緑色) >皇帝が首都以外の地方を巡視する時に使用

21 討罪安民之寶、(青玉製、淡い緑色)>討伐を公布する時に使用

22 制馭六師之寶、(黒玉製(墨色)) >軍隊の行動を正す時に使用

23 敕正萬邦之寶、(青玉製、緑灰色) >外国に知らせる時(外交文書)に使用

24 敕正萬民之寶、(青玉製、うすい緑色、黒の筋入り) >全国の庶民に知らせる文書に使用

25 廣運之寶 (黒玉製(墨色)) >皇帝が自分で書いたものに対して使用

 これらの他に、皇帝の個人用の印鑑は多数ある。たとえば、皇帝が見たという印鑑(○○御覧之寶)、皇帝が書いたという印鑑(○○御筆之寶)、等々 があり、乾隆帝は約1800個の玉璽を有しており、約700個は戦後の混乱で流出したが残りは故宮博物院などに収蔵されている。

 三国志の時代ごろから、皇帝は、通常の業務には6つの印璽を使用し、「皇帝之璽(詔書と赦免を公布する時に使用)」、「皇帝行璽(皇帝が物品を下賜する時に使用)」、「皇帝信璽(皇帝が徴兵する時に使用)」、「天子之璽(神を祭る文書に使用)」、「天子行璽(皇帝が少数民族を王侯や大臣に封ずる時に使用)」、「天子信璽(少数民族地区や属国に出す詔書に使用)」と刻まれたもので、命令書の内容に応じて使い分けられていた。ちなみに、印章の形式には璽、章、印の3種類、材質は玉、金、銀、銅の4種類あり、格式の高さは「玉の璽=玉璽」が最上であった。よって、卑弥呼が後漢からもらった金印は「金の印」という意味で、玉璽からすると、ずいぶん格式の劣る印鑑であることが分かる。


参考文献>「北京の紫禁城」 今日中国出版社


11. 倉庫


ここは未分類、未整理情報の置き場

西太后(正確には、慈禧(じき)皇太后、晩年の正式名称はもっと長いが省略)は27才で、東太后(慈安(じあん)皇太后)は25才で皇太后(こうたいこう)、つまり皇帝の母親になった。

昔の映画「西太后」で、東太后か、別の妃を人豚にした場面があるが、あれは史実ではなく、司馬遷の「史記」にある漢時代(前漢)の呂后(ろこう)の行いから作られた場面であるが、中国に限らず日本でもそうだが、昔は前王朝を悪者に仕立て上げるのが常で あり、呂后(呂皇后)が本当に人豚を行ったかどうかは疑問もあるらしい。もし仮に人豚の技術があったとすれば、処刑した後でも数日は生かしておく進んだ医療技術が古代中国にはあったということになる。

実際には東太皇は45才まで生きて、西太后よりも早く死んだので、毒殺とも噂されたが実際には脳卒中?だったらしい。

紫檀木>木材の紫檀は、中国名で青龍木とも呼び、高級な彫刻材料となり、清宮廷の器物には紫檀で作ったものが多い。

皇帝御筆>皇帝自身が描いた書や画を「御筆(ぎょしつ)」と呼び、例えば乾隆帝ならば「乾隆御筆」というハンコが押されていることが多い。

印鑑の材料>印鑑の材料としては田黄、鶏血石が最高級品とされ、田黄は同じ重さの金(ゴールド)を上回るとされた。

筆>皇帝用の筆は浙江省の湖州産のものとされた。

秘閣(ひかく)、筆閣>文人が筆で字を書く時に腕を置く道具で、清時代は書斎机を飾る工芸品になった。外観上は竹で出来た瓦という感じで一般に竹に彫刻を施してあるものが多い。

堆朱(ついしゅ)>朱の漆を塗っては乾かし、塗っては乾かしして100回程度厚塗りして、彫刻したもの。昔は、「漆を厚塗りするのに時間がかかるので、親が塗って子が彫刻する」ぐらいのペースで作られていたという。

硯(すずり)>硯の石材は端渓石など「四大名硯」が有名だが、松花江石は中国吉林省の松花江の河畔で採れて、ここは清朝発祥の地であるので、清朝内定の正式硯とされて、産地は立ち入り禁止とされた。しかし、実際には、松花江石は硯としては使いにくく、装飾用として陳列されることがほとんどであった。また、高価な玉(ぎょく)製の硯も残っているが、硯として使いにくいので、実際には飾り物だった。

紙>紙は、筆や硯に比べると出現したのはずっと遅く、前漢時代ぐらいからであり、秦の始皇帝時代には、文字は木簡、竹簡、絹に記述していた。明清時代の紙は安徽省の宣紙が主流で、紙を加工した紙は蘇州が主要な産地だった。


12. 乾隆帝時代の庶民の生活

 以下の情報は、「マカートニー奉史記」筑摩書房、昭和22年発行の文章から。1792年にイギリス(大英帝国)のジョージ三世は、当時、大英帝国と世界を二分していた中国 清王朝の乾隆帝に、ジョージ・マッカートニーを大使として派遣した。マッカートニー大使は、総勢120名以上で約1年かかって、紫禁城に謁見に行ったものの、中国からは大使扱いではなく、朝貢使扱いにされ、中国皇帝に謁見する際の儀式「叩頭の礼」を巡って対立したあげく、結局、一行は目的を果たせずに帰国した。本の著者、アンダーソンは、軍艦ライオン号(当時は帆船)の航海士で、大使一行に同行した際に、詳細に記録を残し、後年、見聞録が1795年に英語で出版された。約210年前の清王朝時代の風俗を知る上で貴重である。

○パン>小麦粉を練って、蒸気で蒸しただけのいわゆる「蒸しパン」というか饅頭。 酵母を使ったり、窯で焼いたりはしない。

○肉に対する感覚>動物の肉なら何でも、焙ったり茹でて食べる。当時は、肉は貴重だったので、最下層の人間から、ある程度のお金持ちまで、病死した動物であっても拾ってきて、その場で切り刻み、火で焙っておいしそうに食べる。

○髪型>男は、後頭部の一部を残して、すべて剃っており、長く伸ばした髪を編んで、その先をリボンで結ぶ。いわゆる「辮髪(べんぱつ)」スタイル。清朝初期は、 10円玉の大きさぐらいに髪を残さなかったのに対して、時代とともに髪を残す量は増え、清王朝末期には、後頭部は全部髪を残していた。

○服装>昔は、鮮やかな色のついた服を来たのは、貴族以上ぐらいで、庶民は男女も同じような生成りの服を着ており、髪型(辮髪)と足(纏足)で男女を見分けていた。

○女の足 纏足(てんそく)について>清王朝は、北部の少数民族である満州族によって成立したので、中国の伝統である纏足の習慣はなく、度々、禁止令が出ていたが、効果はなかった。しかし、北京周辺では、纏足をした女性は少なかったと記述している。

○お茶>当時、茶畑はたくさんあったようだが、高価であり、庶民はめったに口にすることはなかった。たまに、手に入ると、徹底的に煮詰めて、数週間もの間、そのお茶を飲んでいた。

○芝居>当時、芝居の舞台では、女性は出られなかったので、女型は、宦官(かんがん)が演じていた。

○庶民の食事>肉は細かく切り刻み、根菜や葉物と一緒に油で揚げて、醤油や酢をかけて食べるのが基本的なおかずで、毎回同じものを食べる。主食は米で、油で揚げたわずかな野菜がつく。食事のテーブルは、現在のちゃぶ台に近く、皆が車座に座って、櫃からご飯を自分の茶碗にとって、油であげた野菜をおかずに”がつがつと”食べる。これ以上のごちそうは、精進日とか祭りでなければ食べられなかった。

○おやつ>当時の庶民の一般的行動かどうかは分からないが、夕方になると裸になって、服にたくさんついたノミやシラミを、そのまま、おやつがわりにおいしそうに食べていたらしい。

○コメの炊き方>コメを、よく洗った後、沸騰したお湯に入れて、ふやかした後、皿にのせて上から蓋をして、放置。すると表面が乾燥してカリカリになるので、この状態でご飯として食べる。

○建物>当時はガラス窓はほとんどなく、窓の木格子には、礬水紙(どうさし、ニカワとミョウバンを溶かし込んだ液を紙にしみこませたもの)が貼ってあり、上流階級の家は絹が貼ってあった。

○刑制度>重大犯罪では、最後の裁決権は皇帝だけにあり、重大犯罪であっても罪人が死刑を受けるのは稀であった。実際は、警察が厳格で、罪を犯すと、司法にかけられるまでもなく、その場で、竹製の棒によって尻を叩かれるので、それを恐れて、庶民は犯罪を起こしにくかった。

○墓関係>棺はすべて寸法が決まっていて、非常に頑丈で重く、蓋は紐で括り付けた。棺を埋めるのは棺が隠れる程度に浅い所に埋めた。大きな都市では共同墓地は存在したが、田舎では人が死ねば屋敷の一角に、屋敷も持たない庶民は、死んだその場所に埋葬し、金持ちは、生前に自分用の墓(棺が入るサイズ)を準備していた。

○街の乗り物>上流階級は、人が運ぶ輿(こし)、お金持ちは馬やロバに引かせる幌車。

○乾隆帝の円明園での様子>皇帝の輿は、20人で担ぐ。皇帝だからといって特別な目印やバッジをつけているわけではない。この時期、皇帝は質素倹約を心がけていたので、衣服にしても、重臣よりも立派なものは何一つ来ていない。家臣(下級役人)の来ている服は、いつでも同じ物(青色の服が基本で、帯はいつも腰に巻いているが、宮中では帯はせずに、だらりと自然に垂れたまま。)であり、TPOに応じて着替える訳ではない。

○たばこ>この時期、喫煙は、子供から大人まで行われており、当時はたばこが伝染病の予防効果を持つと信じていた。

○水>黄河の水は、不純物が非常に細かく、相当な量の砂を含んでいるが、当時の庶民は、この水を何の処置もせずに、飲んだり、料理に使用していた。

○昔の香港、広州あたりのシナ人の気質について>他の地域のシナ人と比較すると正直さという点で、まるで違い、「極度に破廉恥」と記述している。

○奴隷制度>当時の社会には、外国から奴隷を買ってくる奴隷制度は存在せず、シナ人同士で奴隷関係にある状況だった。

参考文献>「マカートニー奉使記」 1947年出版 筑摩書房


13. ラストエンペラー 愛新覚羅 溥儀 関係の年表


1835 西太后誕生

1871 光緒帝誕生

1874 レジナルド・ジョンストン スコットランドで誕生

1883 さいてん(光緒帝の弟、溥儀の父親)誕生

1906 溥儀、婉容(溥儀の皇后)誕生

1908 光緒帝(享年37才)、西太后死去(享年73才)、溥儀2才で皇帝に即位

1912 辛亥革命が起こり、6才で清朝皇帝を退位(袁世凱が革命派と取引して自分の大総統就任と引き換えに、紫禁城内だけで清朝が存続するという提案をした。)

1915 宮中のいざこざから溥儀(当時9才)の乳母が紫禁城を去る。

1919 ジョンストン(45才)から英語を学ぶ(13才)

1917 清朝軍人だった張勲の働きかけによって再び清朝皇帝に即位するが12日間で終了

1920 譚玉齢 誕生(溥儀の第3番目の妻)

1922 溥儀、16才で、婉容(溥儀の皇后)、文繍(第二夫人)と結婚

1924 溥儀、紫禁城を追われる。 李淑賢誕生

1925 紫禁城が故宮博物院になる。溥儀が天津日本租界に移るのをきっかけにジョンストン帰国。

1928 李玉琴 誕生

1931年 文繍離婚を決意

1934 28才で満州国皇帝に就任

1935 一回目の訪日(29才)

1937 溥儀、31才で譚玉齢と結婚

1938 ジョンストン スコットランドで死去(享年64才)

1940 第2回目訪日(34才)

1942 譚玉齢、病気で死去(享年22才)

1943 溥儀、37才で、李玉琴(溥儀の4番目の夫人)と結婚

1945 39才で満州国皇帝を退位、ソ連軍に拘束される、以後、5年間ハバロフスクで拘留生活、敗戦後、李玉琴は離婚を表明

1946 婉容 延辺で死去(享年40才)

1950 44才で撫順戦犯管理所に入る、以後9年間拘留生活

1953 文繍 死去

1959 特赦で釈放(53才)、北京に戻る

1960 北京植物園に配属(半日労働、半日学習)

1962 溥儀、56才で李淑賢(溥儀の5番目の夫人)と結婚

1964 溥儀、腎臓に障害

1966 文化大革命始まる

1967 溥儀、北京で腎臓関係の病気で死去(享年61才)

1997 李淑賢 死去(享年73才)

2001 李玉琴 長春で死去(享年73才)


参考文献>「溥儀 変転する政治に翻弄された生涯」、日本史リブレット人099、山川出版社

この本には、溥儀による伝記「わが半生」は、三種類存在して中身が微妙に異なるなどが記述されている。


14. 文献 、映画、ドラマで詳しく知る

以下の本は、文庫本以外はアマゾンか中古本流通サイトぐらいでしか購入することは困難です。しかし、本には詳細な文章、写真が載っていて、お金を出すだけの価値はあります。

1●「紫禁城史話 中国皇帝政治の檜舞台」 中公新書 中央公論新社 (777円)

>清朝の歴史が詳しくやさしく書かれた良い本。

2●「紫禁城散策 いろいろ事始め」 凱風社 (1800円)

>故宮博物院内の個々の場所ごとに、分かりやすい文章で解説してある。これから故宮博物院に行く人にはおすすめ。

ちなみに、この本は、現在は「北京故宮散策事始め」と改題して出版されているようである。

>皇帝服を着た袁世凱の写真

3●「中国世界遺産の旅 1 北京・江北・東北」 講談社 5695円

>紫禁城、万里の長城、皇帝陵墓、頤和園(いわえん)のキレイな写真がいっぱい。

4●「NHKスペシャル 故宮 至宝が語る中華5千年」 NHK出版

>中国の先史時代から清時代までを故宮の宝物を通じて分かりやすく解説。中国史の最初の勉強としては一番いいかも。

5●「横山光輝作の漫画 中国シリーズ」

>歴史順にいうと、「殷周伝説(殷、周時代)」、「史記(周~秦~漢)」、「項羽と劉邦(秦~漢)」、「三国志(魏、呉、蜀)」の順でしょうか。個人的には「史記」がお勧めです。三国志は30巻に渡って「○○と○○がいて戦った、誰が負けた」の連続でちょっと残念でした。

6●「素顔の西太后」 東方書店 (1500円)

>実際に西太后の女官として2-3年仕えていた人による本。西太后死去後数年内に出版されているので情報の信頼度大。

7●「西太后汽車に乗る」 東方書店(1890円)

>西太后が汽車で奉天に先祖参りした際の記録。汽車で、毎食100皿の西太后の食事を作るために、50台の「かまど」を車両に設置し、150人(かまど1台につき3人)の料理人を列車に乗せていたなど、おもしろい記述満載。

8●「西太后 大清帝国最後の光芒」 中公新書 中央公論新社 (800円程度)

>悪女と記述されることが多い西太后の生涯を、多くの資料(約60点)を元に客観的な視点から詳しく記述している。写真は少なめだがおすすめ 西太后について従来から言われている俗説についての真偽も記している。

9●西太后秘話 その恋と権勢の生涯 東方書店

>西太后及び、筆頭宦官 李連英の生涯を中心に記述。

10●天子―光緒帝悲話 (単行本) 徳齢 (著) 東方書店

>西太后の女官としてつかえた著者が、「世間でいわれるほど光緒帝は無能ではなかった」ということを主張するために書いた本。

11●雍正帝―中国の独裁君主 (中公文庫) (文庫)

>読んだけど、いまいち。著者の思い入れが強すぎて、ちょっと辟易。

12●「乾隆皇帝」 二玄社

>乾隆帝時代の政策、工芸、建築などが詳細に紹介。38ページにおよぶ白黒写真、四庫全書の目録などが充実。

13●最後の宦官秘聞 ラストエンペラー溥儀に仕えて NHK出版 2520円

 宦官として宮廷に勤めた人からみた宦官の日常、皇帝の生活をつづっていて面白い。

14●「溥儀1912-1924 紫禁城の廃帝」 東方書店 (2300円)

>中国最後の皇帝(ラストエンペラー) 愛新覚羅・溥儀の退位後、紫禁城を追い出されるまでの日常と写真。

>珍妃、姉の瑾妃(台湾の故宮博物院の有名な白菜の玉の持ち主)の写真。光緒帝の皇后隆裕太后(西太后の姪)の写真。

15●「中国文明史図説10 清 文明の極地」 創元社 (3200円)

>写真が豊富で清朝全般を浅く広く学ぶには良い本です。

16●「乾隆帝 その政治の図像学」 文春新書 文藝春秋 (840円)

>個人的に前半は興味深いが、後半は著者の専門に偏っている感じ。

>香妃の肖像画3枚

17●食在宮廷(食は宮廷にあり) 學生社; 増補新版版 (1996/06)  2500円~

>ラストエンペラー溥儀の弟、溥傑に嫁いだ日本人女性(愛新覚羅 浩)による宮廷料理の紹介(作り方)と宮廷の生活の紹介。

18●「紫禁城の女性たち」 中国宮廷文化展図録 1999年

>宮廷の皇后、皇貴妃たち女性の装飾具の写真がいっぱい。

19●「北京故宮博物院展 紫禁城の后妃と宮廷芸術」図録 セゾン美術館 1997年

>さまざまな皇帝服、皇族服がいっぱいで、その他に宮廷の宝物。

20●「Decoding Dragons: Status Garments in Ch'ing Dynasty China」, University Pubrications, Oregon University, 1983

「龍袍(ろんぱお)」、「蟒袍(まんぱお)」が120点(カラー50点)写真で紹介。宮廷衣装に関してはこれが最も詳しい。

21●「中国服飾五千年」 商務印書館 学林出版社 共同出版 (中国語の本)

>秦から近代までの中国の服の変遷を多彩な図と写真で紹介。

22●「図録 西太后展」

>西太后の身の回り、食生活、美容道具など。

23●「図録 北京故宮博物院展 清朝末期の宮廷芸術と文化」 2006

>清朝初期、西太后、溥儀に焦点を絞って、日常の生活用品や宮廷服を紹介。溥儀が即位式で着た龍袍の写真が見所。溥儀の経歴が詳しい。

24●「故宮博物院展 紫禁城の宮廷芸術」図録 西武美術館 1985年

>宮廷の結婚、誕生日の絵巻、仏教関係がメインで、宝物は少し。

25●「改訂版 国立故宮博物院案内」 郁朋社 (2940円)

>工芸、書、絵、陶磁器など一品づつ解説。

26●「別冊 太陽 台北 故宮博物院」 平凡社 (2625円)

>新石器時代から清まで時代別に宝物を紹介するとともに、国立故宮博物院について紹介。

27●故宮博物院 秘宝物語―中国四千年の心をもとめて 淡交社 450円~

>故宮博物院の宝物の背景を詳しく文章で解説。例えば有名な書「蘭亭序」の作製の背景など。

28●これだけは知っておきたい故宮の秘宝 二玄社 (2100円)

>故宮博物院の宝物の背景を詳しく文章で解説。基本的には上と同じ内容。

29●芸術新潮 2007年 01月号 [雑誌] (雑誌) 台湾 国立故宮博物院特集

>本の前半は故宮の宝物特集。主に書画に偏っている感じ。後半は、故宮とは関係なく一般の記事。

>キレイな書体で刻印された「乾隆帝の皇帝印の写真」が貴重。

30●故宮博物院14 工芸美術 NHK出版 (2063円)

>人間技とは思えないような宝物を大きな写真で数多く紹介。

31●故宮博物院15 乾隆帝のコレクション NHK出版 (2000円~)

>稀有の宝物コレクターだった乾隆帝に絞ってコレクションを大きな写真で数多く紹介。

32●「図録【紫禁城歴代皇室の秘宝北京故宮博物院展~日中平和友好条約締結10周年記念~】昭和63年/西武美術館」西武美術館発行/'88年

>乾隆帝の金の御璽(ぎょじ)今風に言うと印鑑、印章。

33●「図録日中国交正常化10周年記念 北京・故宮博物院展」西武美術館、朝日新聞社 1982

>万遍なく記述してあり特記なし。

34●「図録 日中国交正常化20周年記念 紫禁城の至宝 北京故宮博物院展」東京都・東京ルネッサンス推進委員会 1992

> 皇帝の玉璽、雍正帝の各種コスプレ図、象牙を編んだゴザ。

35●「文物光華 -故宮の美- 国立故宮博物院 中華民国80年」 台湾国立故宮博物院発行(日本語)1985

> 台湾の故宮博物院発行。書、絵画、印の解説に重点をおいた感じ。

36●「図録 故宮開院70周年記念 北京故宮博物院名宝展 紫禁城と中国4000年の美の秘宝」 東京富士美術館 1995

>美しい刺繍を施した宮廷服のクローズアップ写真。

37●「図録 日中国交正常化40周年記念 地上の天宮 北京・故宮博物院展」 2011

>清朝後期、西太后あたりの日常の生活用品や宮廷服を紹介。どれも説明の経歴が詳しく充実している。

38●「図録 北京故宮博物院 清朝宮廷文化展」 日中友好会館 1989

>皇帝が生活していた養心殿の詳細、筆、墨、硯。

39●「名古屋城天守閣再建30周年記念 図録 北京故宮博物院 清朝宮廷文化展 」 名古屋城天守閣展示場 1990

>皇帝が生活していた養心殿の詳細、筆、墨、硯。

40●「世界の博物館21 故宮博物院 紫禁城と中国4000年の文物」 講談社 1978

>すごい文物というのは少ないが、陶磁器などが作られた背景などの解説が豊富。

41●「図録 故宮織繍選卒」 中華民国 国立故宮博物院出版 1973

>絵画、書の掛け軸と間違えるほど精緻な織物と刺繍の作品集。

42●中国陶瓷見聞録 ダントルコール 東洋文庫(景徳鎮、官窯の史実というか実態)

>立ち読みした程度だが、漢文みたいでお勧めしない。

43●「北京の紫禁城」 今日中国出版社

>本200ページのうち、120ページが紫禁城内のカラー写真で、各部の写真満載で、故宮博物院の職員が記述しただけあって、解説もやたら詳しく、とても役に立つ本。おすすめ。

44●「マカートニー奉使記」 1947年出版 筑摩書房

>西暦1790年代にイギリスの大使として乾隆帝を訪問した人物の日記。当時の風俗が分かる。

45●紫禁城 The Forbidden City (写真集) 紫禁城出版社

>豊富な写真とともに少しづつ説明が載っている。

46●「図説 北京 3000年の悠久都市」 河出書房新社

>建築が主体だが、紫禁城時代から毛沢東時代までの変遷を解説。

47●映画「 ラストエンペラー」

>この映画が中国、清王朝時代に興味を持つ、きっかけになった。最近は、ブルーレイ版も販売している。今見ると、服装などは、本物と比べると見劣りするが、おすすめ。

48●中国製作「 ラストエンペラー」

>当時の宮中の生活の様子、人々の服装、西太后晩年の呼び方「老仏爺(ラオフイエ)」で呼ぶなど忠実に再現している。

49●映画「 真説 西太后」

>この映画も、おおまかに歴史に忠実に描いている。西太后の若い時がテーマ。

50●「チャイナドレスの文化史」

>清朝崩壊以降のチャイナドレスの変遷が異常に詳しい。

51●「溥儀 変転する政治に翻弄された生涯」、日本史リブレット人099、山川出版社

>歴史学の学者が書いた本なので、歴史的にほぼ完璧な記述。正確な清朝末の歴史を知るにはいい。

52●紫禁城の黄昏 岩波文庫 945円

53●西洋人の見た中国皇帝 矢沢利彦 著 東方書店 1900円程度


15.  あとがき

 中国、清王朝に興味を持った最初は映画「ラストエンペラー」を見てから。その後、北京の紫禁城に旅行したことで、中国最後の王朝の生活、文化、服装に魅了されました。これまでに、北京2回、上海1回、西安2回、桂林1回、蘇州1回、香港2回、中国圏という意味で台湾2回、シンガポール2回行きましたが、なかなか味わいがあっていい所でした。ただ、中国人の風習、中華思想に好感はもてませんが。

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